写真エッセイ――人種差別の政治を耐えぬいて

前書き

私はこの写真エッセイを、義母のマリオン・ミワ・ホシノ・スナハラのような日系カナダ人(以下、日系人)女性に敬意を表するために作成しました。日系人女性は拙書「人種主義の政治」に記述された政策の犠牲になりました。この政策は日系人に与える壊滅的な影響を無視したままに実行されました。

強制移動

1942年の日系人のブリティッシュ・コロンビア州(以降、BC州)沿岸地域から内陸部への強制移動は、日系人女性のそれまでの生活を引き裂いてしまいました。1912年生まれの日系二世マリオンの経験はその典型的なものでした。マリオンの夫の40歳の日系一世タモツはアルバータ州ジャスパー近くの道路建設キャンプに、日系二世の兄弟はオンタリオ州シュライバーの道路建設キャンプに送られました。他の多くの日系女性と同様に、バンクーバーに残されたマリオンは極度のストレスと将来の不安に立ち向かわなければなりませんでした。

写真1:BC州ブルーリバーのイエローリバー・ハイウェイ建設1番キャンプの写真、1942年。日系人の道路建設キャンプは粗末な施設だったが、衛生的であった。しかし、ここで働く日系人の精神状態は非常に悪かった。バンクーバーに残してきた家族が窮乏しているのではないか、これからどうなるのか、と心配ばかりで、そのためにキャンプでストライキも起こった。「日系人男性を家族から引き離しておいて、キャンプで自ら進んで働いてもらおうと思うのはどうかしている。残した家族のことを24時間心配して、しっかり働けるはずがない。もしこんな状態で喜んで働く人がいるとしたら、その人は人間ではない。精神的に追い込まれている人は、しっかり働くことはできない。」(1942年5月26日付けキンジ・タナカからオースティン・テイラーへの手紙、Ian Mackenzie Papers, MG27111B5, vol.24, file 67-28, LAC)。写真はAndoによる(Nikkei National Museum (NNM) 1997.196.1.1 Japanese Canadian Archives Photographic Collection)。

ストレスと不安

マリオンのような日系人女性の次の試練は、バンクーバーのヘイスティングス・パークに設営された仮収容所に移動することだった。夫がどこに居るのかも知らず、これからどうなるのかもわからなかった。家族にどんな運命が訪れるか不安で、もう夫と会うことがないかもしれないと思った。残された家族は、自分たちだけの家族写真を写し、夫や他の家族に送った。ムラコ・ヨシダの夫は1942年3月7日に、どこかの道路建設キャンプに送られた。ムラコは家族写真の裏に次のように書いて夫に送った。「一日も早く平和の日の来るのを希み乍ら 言ひつききせぬ思いで暮らしている時の記念として。訳注

訳注: ムラコ・ヨシダの写真の裏には次のように書かれていた。 「四月一日にうつす。去る三月七日に主人をキャムプに送りて一か月近く。比の間落ちつかない気持ちで毎日を過ごし乍らも こんなに子供等は元気で致しました。 一日も早く平和の日の来るのを希み乍ら 言ひつききせぬ思いで暮らしている時の記念として。 文江 満七才と四か月 博  “ 五才 忠雄 “ 三才」

写真2 左の写真:1942年4月1日のヨシダ一家、左からヒロシ(5歳)、フミエ(7歳)、ムラコとタダオ(3歳)(NNM 2020.1.1.1.1 Marina Yoshida Collection);右の写真:1942年6月のスナハラ一家、左からミキ・ホリタ・ホシノ、レジナルド・ヤスオ・スナハラ、セツコ・ジョアン・スナハラ、マリオン・ホシノ・スナハラ、ミチコ・ジェーン・スナハラ (NNM 2018.16.6.1.1 Sunahara Collection)

ヘイスティングス・パーク

日系人はヘイスティングス・パークの家畜の檻のあった建物に仮収容された。ヘイスティングス・パークは農産物と家畜の展示場であったが、たった7日間で人間の収容所に改造された。多くの人はそれまでの生涯で買い溜めた持ち物を大人は150ポンドまで、子供は75ポンドまでをスーツケースに急いで詰め込む仕事に疲労困憊してヘイスティングス・パークにたどり着いた。まだ夫が道路建設に連行されていなかった家族は、男性と女性が別の施設に収容された。女性と12歳以下の子供は、家畜小屋に収容された。男性はティーンエージャーの男子と一緒にHビルに収容されて、道路建設キャンプに送られるのを待った。Hビルに収容された父親が道路建設キャンプに送られると、残された12歳以上の男子は、Fビルに移動した。そして母親と小さな子供が収容されているビルに入ることは禁止された。マリオンは6月に、6歳の女の子、4歳の男の子、生まれたばかりの赤ん坊を連れて家畜小屋だった建物に入った。

ここでの生活は屈辱的であった。泣き叫ぶ子供、悲嘆に暮れた大人、不安でいらいらしたの人たちの中で、いつも周囲の眼にさらされ、動物のいやな匂いをかぎながら、大部屋で生活した。『ニュー・カナディアン』紙の記者だったムリエル・キタガワが、1942年4月のヘースティングス・パークの様子を、次のように書き残している。

「二段式ベッドはとてつもない代物だった。むき出しの鉄と木材の枠に、麦わらの入った薄いマットが敷いてあり、枕と軍隊用の毛布が三枚が置いてあった。ベッドの敷布はない。自分で持ってきていた人もいた。この二段式ベッドが一家の家だった。少しでも他人の眼を逃れようと、ベッドの枠に毛布やら敷布やら、ありとあらゆるものを掛けた。ジプシーのテントのように色鮮やかだが、古ぼけていて不衛生だと皆が笑った。ここには1,500人の女性と子供が収容されていたが、シャワーは全部で10しかなかった。」(Kitagawa to Fujiwara, 20 April 1942, Muriel Kitagawa Papers, MG31E26, LAC)

写真3:ヘースティングス・パークの見取り図、Aが家畜用ビル(NNM 1994.69.3.1 Alex Eastwood Collection。写真はレオナルド・フランクによる)。

写真4:ヘースティングス・パークの女性と子供が収容されたAビル、もとは家畜の展示場(NNM 1994.69.3.1 Alex Eastwood Collection。写真はレオナルド・フランクによる)。

写真5:Aビルの後ろにある子供のための食堂、1942年(NNM 1994.69.3.16 Alex Eastwood Collection。写真はレオナルド・フランクによる)

写真6:ヘースティングス・パークの洗濯場、Dビル(NNM 1994.69.3.28 Alex Eastwood Collection。写真はレオナルド・フランクによる)。

写真7:Aビルには病院施設が二つあった。一つは結核患者用で60床、もう一つは一般患者用で180床。病院施設は主に日系人医師、看護婦、助手が運営した。一般患者用病院施設には子供の伝染病患者の病棟、出産後の女性患者病棟、男性患者病棟、女性患者病棟があった(NNM 1994.69.3.6 Alex Eastwood Collection。写真はレオナルド・フランクによる)。

写真8:病院の日系二世スタッフと管理者のアイリーン・アンダーソン看護師、Aビルの病院施設の前で、1942年(NNM 1996.155.1.8 Irene Anderson Smith Collection。写真はレオナルド・フランクによる)。

写真9:Lビルの観客席の下の空間に急造されたヘースティング・パークの学校。学期半ばでヘースティングス・パークに強制収容された高校生達はバンクーバー教育委員会のボランティア教師の下で学期を終了した(NNM 1994.69.3.23 Alex Eastwood Collection。写真はレオナルド・フランクによる)。

写真10:強制収容された高校生は、学業中断の危険があった。高校生のなかには、BC州を離れて他の州で学業を続けるものもいた。この1942年の写真には、オンタリオ州セント・トマスのアルマ・カレッジに転校した8人の二世が写っている。彼らはカレッジの雑用の仕事をして、学費と生活費を捻出した。写真左からサチ・ハマグチ、リタ・カメダ、ベス・オオムラ(旧姓ミズサワ)、モード・オカムラ、ニッキー・ナカムラ(旧姓タムラ)、ベティー・ナルセ(旧姓ナンバ)、ノリエ・アリカド(旧姓カスギ)、エツコ・トグリ、サチ・オオウエ(旧姓タキモト)。エツコ・トグリは後に医療分野で業績を残す(Japanese Canadian Citizens’ Council: JCCC 2001.12.8 JCCC Original Photographic Collection)。

砂糖大根農場

ヘースティングス・パークの生活から逃れ、また夫、息子、兄弟が道路建設に送られることを免れるように一家でアルバータ州とマニトバ州の砂糖大根農場や、BC州内陸部の自活キャンプに行くことを選んだ日系人女性もいた。しかしその代償として砂糖大根農場では厳しい労働が、自活キャンプでは外の世界と断絶した生活が待っていた。家族がばらばらになるのを防ぐために、フレーザー河流域の日系人コミュニティーではコミュニティーの全家族が集団でアルバータとマニトバの砂糖大根農場に移動することを志願した。また、1942年6月以降はBC州内陸部のゴーストタウンや収容施設に送られることを志願した。

連邦政府は日系人に、砂糖大根農場ではまともな住居に住み、標準的な生活水準の暮らしをして、比較的移動の自由も利き、近隣の砂糖大根農場で働く日系人と交流できると約束したが、実際は古くて断熱材もない穀物倉庫や鶏小屋を改造した宿舎に住み、沼や灌漑用水のアルカリ度の高い水を使って体を洗い、炊事をし、一日中腰をかがめて砂糖大根の世話をする厳しい生活が待っていた。以前のフレーザー河流域の果実栽培とはまったく違った農業であった。砂糖大根農場の持ち主の中には、日系人を戦争捕虜や奴隷にようにこき使うものもいた。

写真11:アルバータ州レイモンドの広大な砂糖大根畑で、雑草取りの間に休憩する日系人、1943年(NNM 2010.23.2.4.139 Canadian Centennial Project, Fonds)。

BC州内陸部のゴーストタウン

1942年2月24日に連邦政府内閣が、日系人の強制移動を命じた時に、内閣は日系人男性を道路建設現場に連行した後に残された家族を、どこに収容するかまだ考えていなかった。BC州の政治家は、残された家族を恒久的な解決策が見つかるまで、いつまでもヘースティングス・パークに収容しておきたいと思っていた。まず最初の解決策として出てきたのが、BC州内陸部の、銀鉱山ブームの時に作られた町で、わずかな住民しか残っていないすでに半分は廃棄されたような所(グリーンウッド、スローキャン、ニューデンバー、サンドン、カスロー)に移動させることだった。日系人はこれらの町をゴーストタウンと呼んだ。ゴーストタウンの建物は大幅に修繕しなければ住めるようなものではなかった。これらの町に着いた日系人の女性と子供達は、先ずは既存の建物に押し込められた。元はダンスホールだった建物に入った人たちもいた。1942年6月、13人の子供と3人の女性と一緒にダンスホールを宿舎にしたチヨ・ウメザキがその様子を次のように書いている。「このダンスホールを見た人は、〔中略〕これはヘースティングス・パーク2番館だと言った。実際はヘイスティングス・パークよりひどかった。寝る部屋と食事を作る部屋は一緒だった。一応は台所といった所の隅にトイレがあり、食事の支度や食事の最中に、トイレを使っている人が丸見えだった。」(Takaichi Umezaki Collection, 17-4 UBC Archives, 25 June 1942)

写真12:ゴーストタウンの住居内の様子、1942年(NNM 2010.23.2.4.724 Canadian Centennial Project Fonds)。

1942年6月下旬に連邦政府は日系人家族が一緒に住めるように許可せざるを得なくなり、ゴーストタウンの女性と子供たちのもとに、夫や他の家族が戻ってきた。また、フレーザー河流域のコミュニティーからも直接ここに家族で移動してきた。社会福祉士のケン・ヒビが次のように語っている。「家族はどこのゴーストタウンに行くかを、自分たちでは決められなかった。連邦政府の命令で、合同教会の信者はカスロー、仏教会の信者はサンドン、自活キャンプに行きたい人はミントというように行き先を割り振られた。」(Interview tape, NNM Sunahara Collection)

新しい収容施設の建設

1942年の夏にスローキャンバレーとホープの近くの農場を借り上げて新しい大きな収容施設が建設された。ここに生乾きの木材を使って、2種類の掘っ立て小屋が建てられた。小さい住宅は16フィートx16フィートで、居間と2つの部屋があった。ここに最低4人が住んだ。大きい住宅は16フィートx24フィートで、最低8人が住んだ。4人以下または8人以下の家族は、数を合わせるために家族以外の人と一緒に住んだ。

掘っ立て小屋は簡単に建てられていて、断熱材は施されていなかった。木の柱に製材したばかりのまだ乾燥していない横板を張り渡し、その上にタールペーパーを貼っただけだった。タールペーパーは雨風の侵入を防ぐためで寒気には無力だった。家族には自分でベッド、テーブル、ベンチを作るための材木が支給された。材木は製材したばかりで、乾燥するにつれてたわんでしまった。

マリオンと子供達は1942年7月にスローキャンバレーの収容所に送られた。この谷間にあるレモンクリークに掘っ立て小屋が1942年9月に完成するまで、マリオンと子供たちはポポフの農場に建てられたテントで生活した。マリオンは運よく、小さな建物が2軒、隣り合わせについている住宅の一方に3人の小さな子供たちと一緒に入ることが出来た。もう一方にはマリオンの一世の両親と、ティーンエージャーのマリオンの兄弟姉妹が入った。マリオンの夫タモツは、イエローヘッド高速道路の道路建設キャンプが1942年11月に閉鎖されてから、レモンクリークに来て家族と再会した。

写真13:オダ一家とコハラ一家は1942年夏にテント(おそらく写真の左端に見えるもの)から新しく建てられた掘っ立て小屋に移った。左からアキヘイ・コハラ、トシオ・オダ、チカ・コハラ、ヤスコ・マージ・カミヤ(旧姓コハラ)、ベティー・カガヤマ、ジューン・ヒューバート(旧姓オダ)、ディアナ・オダ、アヤコ・コハラ(旧姓ヤスイ)、ミズエ・ミミ・ウッズ(旧姓オダ)(NNM 1994.69.4.16 Alex Eastwood Collection。写真はレオナルド・フランクによる)。

写真14:フミ・クマモト、ニューデンバーの冬。軒下の大きなツララは住宅の断熱が悪いので、住宅から熱が漏れて屋根の雪を溶かしツララを作っていることを示している(NNM 2012.15.1.2.50 Takahashi Family Collection)。

日系人女性の次の試練は1942年の冬だった。厳しい寒気が断熱材のない掘っ立て小屋に容赦なく入ってきた。ジューン・ヒライ・タナカは次のように思い出している。「スローキャンの掘っ立て小屋は冬の間、窓は凍りついて開けることができません。暖房には木を燃やしますが、木はまだ水分が凍っています。まず氷を溶かさないと燃えません。なかなか燃えず、くすぶっているだけです。〔中略〕私の昼間の仕事は、部屋を暖かくして、夜の間に湿ってしまったマットを乾かすことでした。一日がかりでした。〔中略〕生きていくこと、夜に眠れることなど生活の基本をこなして生きていくだけで精一杯でした。」

収容所の生活環境の改善

1942年の冬の到来は、収容所の日系人が団結して問題を解決していくきっかけになった。カスロー収容所で住宅委員をしていた二世のカツコ・ヒデカ・ハーフハイドは、次のように思い出している。

「日系人が厳しい収容所の環境で生活していけたのは、皆が一緒に仕事をする、という日本の伝統があったからです。〔中略〕日本にいた時は、村に隣組があって共同作業をしていました。〔中略〕収容所でもこの伝統が生活を安定させていました。皆がコミュニティーの安定を思い、共通の価値観を大切にすることを身につけていました。〔中略〕勿論、派閥や対立もありましたし、髪をかきむしるほど苛立ったこともありました。〔中略〕しかし、皆が一緒にことに当たることは忘れませんでした。」(Interview tape, NNM Sunahara Collection)

収容所では、すぐに委員会を作って収容所の生活の改善を政府に要請して交渉しました。生活保護費の増額、住宅を冬に備えるための資材、電気と水道、道路建設キャンプで働く家族との再会、日系人に理解を示さない白人職員の解雇、レクリエーション施設の改善、そして一番大切な問題である子供の教育などを要請しました。

写真15:ホープ近くのタシミ収容所、1943年7月。収容所内の住宅の改善は日系人自身が行った(University of British Columbia Library. Rare Books and Special Collections. Japanese Canadian Research Collection. JCPC_30_013)。

写真16:家庭菜園は収容所の食料供給に役立った。レモンクリーク収容所、1944年(NNM 2011.58.9 Ebata Family Collection)。

教育

日系人の強制移動が始まるとすぐに問題になったのが、日系人子女の教育であった。BC州政府は日系人子女の教育を拒否した。連邦政府も、教育は州政府の責任であるとして、日系人を教育する学校への資金援助を拒否した。その上、教育問題を複雑にしたのが、日系人でBC州の教育免状を持つ人がヒデ・ヒョウドウ1人しかいなかったことである。これはBC州政府が、1920年代にアジア系カナダ人が教職に就くことを禁止したからである。ヒデ・ヒョウドウは、この禁止が始まる前に小学校教師の資格を獲得していた。

日系人に教師がいない問題は、外部の組織の支援で軽減した。女性宣教師会、カトリック教会、アングリカン教会、合同教会が、収容所に仮の学校を創設した。1943年春に、連邦政府が収容所の小学校だけに教育費を出すことに同意した。しかし中学生と高校生は通信教育に頼ることになった。教会と女性宣教師会の会員が生徒の通信教育の指導にあたった。

写真16:タシミ収容所からの1943年度教師研修会への参加者。毎年夏にバンクーバー教育委員会の教師がボランティアでニューデンバーで開かれる収容所の学校教師の研修会で教えた。収容所の小学校教師は高校を卒業した日系二世だった。収容所のカナダ政府の管理官は、収容所に学校があることは、写真に写っているような若い日系人男子が収容所を離れてBC州以外で就職することを妨げている、と思った。(NNM 2001.5.1.10.1 Marie Katsuno Fonds)。

写真17:BC州スローキャンバレー、ベイファームのパイン・クレセント小学校の4年生、1945年。教師はミツエ・イシイ(後にサワダ)。生徒で名前の分かる人はジョイ・コガワ(前列の右端)、デービッド・スズキ(一番上の列の左端)、ジョージ・カワバタ(一番上の列の左から三番目)(NNM 1994.64.9.2 Miki Family Fonds)。

財産の没収と売却

1943年の春までに、日系人女性は夫や他の家族と再会して一緒に生活できるようになった。これで強制移動の最悪の時期は終了し、もうすぐバンクーバーや西海岸の自宅に帰ることができると考えていた。しかし1943年5月に驚くべきニュースを知った。帰るべき家がもうないというしらせだった。1943年と1944年を通して、日系人女性は自分の家、私有物、漁船、農地、商店が、総て連邦政府によって売却されていくのを何も出来ずに見守っていた。

写真18:BC州フレイザー河で、日系人漁師の刺網漁船の値踏みをしているカナダ人、1942年。日系人漁師の漁船は主に魚缶詰工場関係者に売られた。フレーザー河流域の日系人農家の農場はほとんどが、帰還兵が農業に再定住するための土地として連邦政府に買い上げられた。連邦政府が認めているように、現在海外で戦う兵士たちが帰還した後、最良の価格で買えるように農場は大恐慌時代の低価格で買い上げられた。(NNM 2010.4.2.1.15 Kishizo Kimura Fonds)

写真19:日系人の商店は店じまいを余儀なくされるか売却された。これはバンクーバーのパウエル街のキミコとリエ・ナカムラの花屋、1939年(NNM 2012.10.1.1.254 Genzaburo and Kimiko Nakamura Family Collection)。

写真20:バンクーバーのスマイス街にあったフミコ・サイトウ・エザキとキミコ・サイトウ・ナスの洗濯屋「クイック・クリーナーズ」、1940年。この洗濯屋は中村生花店と同じ運命をたどった。(NNM 1996.182.1.8 Ezaki Family Collection)。

貧窮

多くの日系人にとって、財産の没収、強制売却は貧窮へとつながった。財産の売却収入は不動産売却と競売の手数料、財産の管理費、収容所の生活でもらっていた生活保護費の返却で大方消えてしまった。わずかばかり残った売却収入も、高齢者は仕事がなく、子沢山の家族は生活費がかさむので、生活の最低限を維持するために使われてしまった。

就職

収容所の失業率は高かった。収容所にあった仕事は1時間25セントの低賃金で、それも資産を持っている人は就職出来なかった。既婚男性だけが伐採や夏の道路建設の仕事に就けた。未婚の成人は生活保護費をもらえず、家計をただ一人で支えているときだけ、収容所での仕事に就けた。これらの規則はすべて、連邦政府が若い日系人独身男性が早くBC州からマニトバやオンタリオなどの他の州へ、仕事を求めて移動するようにと考えて取った政策だった。

皮肉なことに収容所では若い男性より若い女性に仕事があった。商店、学校、病院、社会福祉サービスなど、すべて日系人の職員を必要とした。そして若い日系人男子を収容所から移動させる政策の結果、収容所の仕事の大部分は収容所に残された日系人女性が担当することになった。

社会福祉サービス
写真21:ポポフ収容所の社会福祉サービス事務所の職員、1944年 NNM 2019.17.2.2.39 Thomas and Sachi Madokoro Family Collection.

看護
写真22:グリーンウッド収容所の病院でエーテルと呼ばれる麻酔の訓練をする看護助士(NNM 2010.19.2.3.124 Molly and Jim Fukui Collection)。

写真23:スローキャン・シティー収容所病院の職員、1943年。この病院は総合病院で、収容所のベービーブームのために忙しかった。看護師長F.E. ロビンソン夫人は1944年にマリオンの第4子の助産師だった(NNM 1994.60.4 John W Duggan Fonds Outside the camps)。

収容施設の外の出来事
戦時の労働者不足で、BC州東部で収容所外に住んでいた日系人は、就職の機会が増えた。建築用材木の需要を満たすために、BC州政府はアジア系カナダ人が林業に就くことを禁止していた条例を一時廃止した。そして1947年までに800人の日系人がBC州内陸部の小さな製材所で働くことになった。またオカナガン・バレーでは果物を収穫する労働者不足から、伝統的にアジア系カナダ人労働者へ白人労働者より低い賃金を払っていた慣習を改め同一賃金にした。

兵役
1945年にイギリス軍がアジアで日本語通訳を必要とすることになり、日系人の入隊を許可した。BC州の政治家は、長い間日系二世のカナダ軍への入隊に反対していたが、これがきっかけになり、西バンクーバーに本部のあったカナダ軍S-20情報部で、日本軍から傍受した情報の翻訳と、アジアでイギリス軍のために日本語通訳をする日本語の堪能な日系人男性を探すことになった。

これに応募した1人がトマス・クニト・ショーヤマだった。ショーヤマは戦時中に日系人にとって唯一信頼できる情報源であったニューカナディアン新聞の、設立者の一人で、また編集長だった。ショーヤマは日本語が読めなかったが、どうしても志願したかったので、採用試験前に急いで漢字3,000字を勉強して試験に受かった。

兵役適齢年齢の日系二世の母親は、息子が軍隊で敵の弾除けに使われるのではないかと心配した。アメリカ軍の日系アメリカ軍部隊が、イタリアとフランスの戦線で高い死傷率を被ったというニュースも、心配を増幅させた。すでに三年を収容所で過ごした日系一世は、息子が故国日本の軍隊と戦うことになるかもしれないと動揺した。

写真24:西バンクーバーのアンブルサイド駐屯地で訓練中のカナダ軍S-20情報部隊。左からカナダ軍将校ビル・マックフィー、トマス・ショーヤマ、ジョージ・タナカ、ロジャー・オバタ(NNM 2012.55.2.4 Yatabe Family Collection。写真はミノル・タナベによる)。

国外追放
BC州の人種差別主義者にとって、日系人の財産没収と売却は、日系人をBC州から排除する第一歩に過ぎなかった。1945年1月、連邦政府は正式に日系人をBC州からカナダ全土に分散する政策を開始した。連邦政府が用いた手段は「忠誠調査」だった。忠誠調査で日本に行くことを選んだ人は、カナダに忠誠ではないと判断され、カナダに残ることを選んだ人は、カナダに忠誠と判断された。ただし忠誠の人でも更に「忠誠委員会」による取り調べがあった。

この調査は日系人が日本に行くことを選ぶように工夫されていた。日本に行くことを選んだ人は、収容所に留まり現在の仕事を続けるか、自分の貯金を使わずに生活保護費を受け取ることができた。また日本への船賃は無料で、カナダでの貯金に相当する資金、または日本で自活できるまでの資金として大人一人あたり200ドル、子供一人あたり50ドルの現金をもらえた。

日本に行く日系人に比べて、カナダに留まりたいという日系人は、収容所での仕事を辞め、自分の資金で改善した収容所の施設を離れて、BC州のカスローに移動させられた。ここから連邦政府が選んだロッキー山脈以東のどこかに移動することになったが、移動の時期については告げられなかった。もし新しい土地で連邦政府が指定した仕事に就くことを拒否すると、生活保護費を止められた。その上連邦政府が指定した仕事は数週間以上は続かないこともあると言われた。

忠誠調査が実施された1945年5月と6月の時点で、日系人は第2次世界大戦はこれからもしばらく続くと信じていた。そのため、この時点で急いでロッキー山脈以東に移動することを決めず、先ずは日本行きを選んで現在の仕事を収容所で続け、戦争が終了して平和な時が戻ってから、カナダでの移動先を決めようと考えた。病気の人、障害のある人、仕事に就けない人、子供を抱えた高齢の一世で一切の財産を政府の没収と売却で失った人にとっては、そもそもロッキー山脈以東への移動は無理だった。その結果、6,844人の16歳以上の日系人が、連邦政府のいう「本国送還」を希望する書類に署名した。この人達の子供3,500人を入れると、実際は日本へ国外退去させらる日系人は10,347人になった。

1945年8月、急に第二次世界大戦が終結したので、連邦政府も日本行きに署名した人も共に驚いた。日本の降伏を知り、家族、宗教、近所の知り合いなどからの圧力、カナダ政府の日系人に対する差別への怒り、仕事を続けるためなどの理由で署名した日系人たちは、急いで署名の取り消し手続きを始めた。1946年4月までに6,844人中の4,527人が日本行きの取り消し申請をした。

しかし、連邦政府はできるだけ多くの日系人を日本に国外退去させたかった。カナダ連邦議会が、内閣が戦後に提出した「日系人の日本退去の権限を内閣に授ける」という法案を否決したのにもかかわらず、内閣は日系人追放計画について議会を欺き、1945年12月15日、送還申請書に署名した人全員とその子供の国外退去を命じた。

国外追放との戦い

日系人は日系人国外追放に対してただちに反対運動を始めた。一般カナダ人に対する広報運動と法律的な抗議であった。

広報運動
1946年1月1日に戦時検閲が終了したことで、日系人とその支援者は新聞と教会を使って反対運動をすることができた。 二世 多くの日系二世指導者はカナダ軍に入隊して兵舎暮らしをしていたので、 二世 反対運動にはアルバータ州以東に移動していた日系人女性が積極的に参加した。白人の支援者と一緒になって運動資金を集め、小冊子を配布し、集会を開き、教会で話をして、日系人に耳を傾ける人には誰にでも働きかけた。またキング首相、カナダ連邦議会議員に手紙を書いた。カナダの主要新聞紙も日系人の国外追放反対運動を支持した。日系人の主張は簡単であった。「日系人の国外追放は、カナダの民主主義に対する攻撃であり、許されるべきものでなない」。一般カナダ人はこの主張に同意した。

法律的な抗議
1945年の「送還」調査中に、22名の日系人既婚女性(マリオンもその一人)は、彼らの一世の夫が日本送還の署名をしたにもかかわらず、自分たちは日本「送還」の署名を拒否した。カナダ最高裁判所の9人の判事のうちの5人が、連邦政府は日本送還に署名した日系人男性の扶養家族で、日本送還を拒否する人を法律的に国外追放することは出来ないという判決を出した。

写真25:日系人が分布した小冊子「カナダ市民から難民に転落、カナダで現在起こっていること」の最初と最後のページ。これは日系人がカナダ人一般に、1946年に連邦政府が日系カナダ人の国外追放を試みていることを知らせようとして作成、配布した小冊子のうちの一つである。(NNM 2001.1.2.1.1.14 Kunio Hidaka Fonds)。

日系人の分散

妻や子供から引き離して日系人既婚男性を日本へ国外追放することは、世論を考慮すると政府に不利になると考慮して、連邦政府は日系人をBC州からアルバータ州以東に早急に分散する政策に力をいれた。1946年夏に日系人は2回目の強制移動を経験しなければならなかった。日系人の直面した選択は「自らの意思で」日本へ行くか、アルバータ州以東のどこかへ行くか、であった。BC州に留まることを許された日系人は、病気の人、仕事をすることが出来ない人、カナダ軍の兵役経験者と、以上の人の家族、BC州の自活キャンプに移動していた人、BC州の沿岸から100マイルより外に住んでいて強制移動の対象にならなかった人だけであった。これらのBC州に留まることを許された人は、現在の仕事を続けることができた。カナダに留まることを選択した日系人は、ただちにサスカチュワン州、マニトバ州、オンタリオ州、ケベック州のカナダ空軍基地の旧兵舎や戦争捕虜収容所に送られて、連邦政府が最終的に移動先を告げるのを待った。しかし、仕事も住居も不確かなものであった。

BC州の収容所からは4,700名がアルバータ以東に移動した。また日系人に非友好的なアルバータ州から、何百人もオンタリオ州南部の果樹園地帯に移動した。ほかの多くの家族同様、マリオンの家族は一世の両親と共に、オンタリオ州ネイズの仮収容所になっていた旧戦争捕虜収容所から、ジェラルドトンの木材伐採キャンプに移動した。

日本へ国外追放
大部分の日系人が収容所、仮収容所を経てカナダ東部に移動し、新しい仕事に就いているとき、カナダを後にして日本へ向かう日系人がいた。1,300名の16歳以下の子供含む3,964名が5回にわかれて船で、表面的には「自分たちの意思で」、バンクーバーから日本へ向かった。しかし大部分の人は日本に行くしか選択の余地がなかった。 一世高齢の一世は連邦政府の政策で総てを失い、カナダでまた仕事を探して生活を再建することに絶望していた。 二世 これら一世の子供の二世たちは、法律的にまた道徳的に年取った両親をみすてて、自分たちだけカナダに残り、両親を敗戦で荒廃した日本へ、これから何が起きるかわからないままに、行かせることはできなかった。

カナダロッキー以東へ移動
写真26:1946年夏、スローキャン収容所から仲間に別れを告げて出発する若い二世 NNM 2012.11.73 Tsutomu Tom Kimoto Collection.

写真27:スローキャン・シティーから日本へ出発するメアリー・オハラと弟と母。メアリーは次のように回想している。「(父が亡くなり、)母は日本の辺鄙な村に住む自分の母に会いたくなりました。母は1920年代に写真花嫁としてカナダに来てから、一度も日本へ帰ったことがありませんでした。その上、母は貯えが底をつき、夫を亡くし、5人のティーンエージャーの子供を抱えていました。また子供の一人は精神的な介護を必要としていました。一家で見ず知らずの東部カナダへ行くことを恐れていました。母にとって日本へ行くしか他に選択はありませんでした。私達子供は母の決めたことに従いました。」(NNM 1994.76.3 Tak Toyota Fonds)。

写真28:バンクーバーのバラード街にある移民館の横を、連邦警察官に付き添われて日本へ行く船まで歩く日系人、1946年(NNM 1996.182.1.21 Ezaki Family Collection。写真はフカザワ・エバキによる)。

日系人補償運動(リドレス)

On September 22, 1988, the government of Prime Minister Brian Mulroney acknowledged that the human and civil rights of Japanese Canadians had been abused by the federal government between 1941 and 1949.  The Redress Agreement gave compensation of $21,000 for each individual wronged, a community fund to rebuild the destroyed community, pardons for those convicted of disobeying Orders made under the 戦時措置法, Canadian citizenship for those wrongfully deported to Japan in 1946 and for their descendants, and $24 million in funding for a Canadian Race Relations Foundation.

補償問題の解決は、長年にわたる全カナダ日系人協会による運動の結果であった。1984年から1988年まで、全カナダ日系人協会はセミナー、家での集会、会議を開き、ロビー運動、請願書などを使って連邦政府、人種的マイノリティー団体、宗教団体、人権団体に働きかけた。また調査報告書、小冊子、新聞報道用文書を作成した。これらの文書は説得力を持っていた。感動的な個人の経験から冷静な学問的な調査まで、日系人が強制移動のために被った様々な被害を述べ、連邦政府にこのような過去の不正義を正すことを求めた。

この運動が成功を収めたのは、規律のある運動だったからである。日系人は自分たちが卑劣な政治家と無能な官僚の犠牲になったとただ泣き叫んだのではない(この言い分は真実であったが)。「政府は防ぐことが出来たのに、権力を乱用してカナダの民主主義を侵害した。」というメッセージをカナダ人に訴えた。カナダ人はこのメッセージに共感した。

写真29:1988年のオタワの連邦議事堂前での日系人の集会。プラカードを掲げているのは補償運動の指導者達。左からメアリー・オバタ(吹き流しを掲げている)、ロジャー・オバタ(”WWII VETS FOR REDRESS”)、マス・カワナミ、ビル・コバヤシ(”ENEMY THAT NEVER WAS”)、デーブ・ムラカミ(”HOME ‘42”)、キヨシ・シミズ(吹き流し)、チャールズ・カドタ(”LIFE IN EXILE”)(NNM 2010.32.124 Gordon King Collection)。

写真30:1988年9月22日オタワの連邦議会で補償問題合意書に署名するブライアン・マルルーニ首相と全カナダ日系人協会会長アート・ミキ。後列はリドレス運動の指導者と連邦政府当局者。左からリック・カニンガム、ロジャー・オバタ、ルシアン・ブシャール連邦政府国務大臣、オードリー・コバヤシ、ジェリー・ウィナー多文化主義市民権大臣、マリカ・オーマツ、ロイ・ミキ、カサンドラ・コバヤシ、マス・タカハシ(NNM 2010.32.56 Gordon King Collection)