人種主義の政治 アン・ゴマー・スナハラ 著

第4章追放

1942年の春と夏に特別列車がバンクーバーからブリティッシュ・コロンビア州(以下、BC州)内陸部の山岳地帯に向けて発車した。気をつけて見なければ、ただの旅客列車にしか見えなかった。機関車、客車、貨物車と車掌車で構成された通常の列車だった。しかし注意して見ると、客車が随分古びているのが分かった。中にはもう廃車になってもおかしくない古いものもあった。そしてこの列車はバンクーバーから出発する時は多くの乗客を乗せているが、帰って来る時は一人も乗客がいなかった。もっと注意深く観察すれば、窓から見える乗客が、皆黒い髪をしているのが分かった。この列車には、BC州内陸部に追放されて行く日系カナダ人(以下、日系人)が乗っていた。

1942年3月と4月の特別列車の乗客は男性だけだった。列車の行き先によって年齢が異なっていた。BC州のカリブー山脈の西に行く列車は、主に若い二世、中年の二世、カナダ国籍を取得した一世〈帰化一世〉が乗っていた。ホープ・プリンストン高速道路と、後にカナダ横断高速道路と呼ばれることになる道路のBC州レベルストークから西の道路建設キャンプに行く人達だった。カナディアン・ナショナル鉄道のブルーリバーとアルバータ州のジャスパーの間の高速道路沿いの道路建設キャンプに行く列車には、年配者が多く、若い人は少なかった。ここは後にイエローヘッド高速道路とよばれることになるが、カナダ国籍を持っていない日本人の道路建設現場に用意されていた。オンタリオ州に行く列車の乗客の多くは若い二世で、シュライバーの道路建設キャンプか、ペタワワとアングラーの収容所に行く人たちだった。ペタワワとアングラーではドイツ軍捕虜と一緒の捕虜収容所に収容された1

1942年4月末になると、特別列車の客は日系人家族で一杯になった。道路建設に行くことで家族が分かれるのを嫌ったフレーザー河流域の日系人600家族あまりが、アルバータ州とマニトバ州の砂糖大根農場に移動した。資産のある幸運な日系人は5月に旅客列車を借り切り、家族と友達と一緒にBC州内陸の自活キャンプ訳注iに自主的に移動して行った。これらの1,400名の自主移動家族は政府から許可を得て、休暇村や農場に家を借りて生活した。この人達には連邦警察の監視もほとんどなく制約も少なかった。2

また同年4月末には、夫が道路建設キャンプに行ってしまいヘイスティングス・パークに残されていた女性と子供が、BC州内陸部のゴーストタウンへ移動を始めた。グリーンウッド、カスロー、サンドン、ニューデンバー、スローキャンシティーなどであった。そこは20世紀初めの銀採掘ブームの時に栄えた鉱山町で、1942年までには家屋は古くなり、ゴーストタウンになっていた。家屋の状態はヘイスティングス・パークより少しはましな程度であった。小さな家屋に大勢が押し込められ、他の家族と一緒に生活し食事をした。しかし、ここではヘイスティングス・パークのように家畜の臭いに悩ませられることはなく、また白人の暴力を恐れる心配も無かった。家屋にはドアが付いており、ドアを閉めれば他人の眼を逃れ、外の世界を遮断することも出来た。


日系人を砂糖大根栽培に使用するという計画は、平原州の農家の恒常的な労働力不足から始まった。アルバータ州とマニトバ州は、1942年までに戦前の農業人口の44パーセントを戦時産業と軍隊に失った。3 その上、アルバータでは「アルバータ州砂糖大根労働組合(Alberta Sugar Beet Worker’s Union:ASBWU)」のストライキがあった。「アルバータ州砂糖大根生産者協会(Alberta Sugar Beet Growers’ Association : ASBGA)」は労働組合と激しく対立していて、フレーザー河流域の日系人農家を砂糖大根栽培に雇うことは、理想的な労働力不足の解決方法であった。砂糖大根生産者の日系人農家に対する認識は次のようなものであった。日系人は豊富な農業経験があり安く雇える。また、たとえ東ヨーロッパ系の人達が主なASBWの組合員が、非白人に対する偏見を乗り越えて日系人を組合員にしようとしても、日系人は連邦政府の監視下にあるので労働組合に参加出来ない。このような事情があったので、1942年2月初旬、ASBGA書記のW・F・ラッセルは、連邦政府に日系人を南アルバータの農業に使う可能性をたずねた。4 アルバータ州の砂糖大根生産者にとって、日系人は効率的な農業労働者だというステレオタイプの認識のほうが、BC州の政治家と新聞が言いふらしている日系人は危険な妨害工作者だという非難より大切だった。

しかし他のアルバータ州の住民は、BC州の新聞の日系人に対する狂った報道を信じていた。実際の話、他に情報が無かった。そして砂糖大根農家がBC州日系人を雇うという話が知れ渡り、少数のBC州日系人がアルバータ州に戦前から住んでいる日系人534人のところへ親戚や友人を頼って到着すると、日系人のアルバータ州移動に反対の声があがった。1942年3月になると、南アルバータの砂糖大根労働組合、市町村、労働組合、退役軍人会、商工会議所、市民団体は、BC州日系人のアルバータ州への移動禁止か、もし移動してきた時はカナダ軍による監視をし、戦争終了後にアルバータ州から立ち退くことを要求した。第一次世界大戦以前から「日系アルバータ人」が定住していたレイモンド、レスブリッジ、テイバーなどでも集会を開いて、以前から住んでいる「自分たちの仲間の日系アルバータ人」をBC州日系人から注意深く区別して、BC州日系人が入ってくることに反対した。BC州の「日系人問題」を南アルバータ州に持ち込んでは困る、というのがその理由であった。5

アルバータ州の日系人に対する態度には二つの原因があった。一つは日系人についての無知であり、もう一つは、BC州の「日系人問題」はアルバータ州の「ハテライト問題」と同類であるという認識だった。ハテライトはドイツ系カナダ人で、ドイツ語を話し平和主義者であり、南アルバータに自分たちだけの集落を作って住んでいた。カナダはドイツと交戦していたので、地元の愛国主義者は、ハテライトは「敵性外国人」であり、カナダ人としての愛国的義務を務めていないと非難した。またハテライトは集団生活をして農業を効率的に行い、アルバータ州の他の農家と不公平な競争をしているとも非難した。6 アルバータ人第一主義者にとって、日系人はハテライトより悪かった。日系人はカナダの白人文化に順応せず、経済的にカナダ人労働者を脅かす「敵性外国人」であった。これらの点で日系人はハテライトと似ており、そのうえ非白人で、カナダ国家を裏切るかもしれない人達だった。アルバータ人第一主義者と一般アルバータ人には、BC州の新聞しか日系人に関する情報源がなかったので、連邦政府が日系人を太平洋沿岸地域からアルバータ州に追放したのは、西海岸の新聞が報道するように、日系人は危険な人達だということの証明だと考えた。

1942年3月、砂糖産業に関係していたアルバータ州の有力者が7 、日系人はBC州にとっては脅威であり太平洋沿岸地域から追放する必要があるが、アルバータ州にとっては脅威でないということを、南アルバータの住民に説得する役目を引き受けた。彼らは南アルバータ住民の愛国心に訴えた。レイモンドとレスブリッジの集会で、有力者は次のような説得をした。日系人は日本軍による侵略の可能性のあるBC州では潜在的な脅威である。したがって、アルバータ州住民は、日系人を受け入れてBC州の脅威をすこしでも少なくすることがカナダ国民としての義務である。砂糖の生産は戦時経済に必要なものであり、BC州日系人は、自分たちにとって望ましくはないが、労働不足の砂糖大根の生産には必要である。連邦政府は、終戦後にBC州から来た日系人をアルバータ州から追放することに同意している。8 戦争終了後にBC州日系人を州から追い出す契約を連邦政府に要求したのは、アルバータ政府だけだった。社会信用党政府首相ウィリアム・エーバーハートの示唆で、アルバータ政府は、BC州から受け入れる日系人の医療費と教育費は連邦政府が受け持ち、戦争が終了した時、BC州日系人をアルバータ州から追放するという契約を要求した。一方、マニトバ州では、ジョン・ブラッケン首相が、このような契約は憲法上は連邦政府が何時でも破棄できるものなので必要ないと考えた。9 アルバータ州が連邦政府との契約を獲得したので、南アルバータ州住民は砂糖大根生産の必要上、BC州日系人をしぶしぶ受け入れた。

フレーザー河流域の日系人は、アルバータ州が連邦政府と交わした契約を気にかけなかった。南アルバータ州の砂糖大根農場に行くのは、道路建設のために家族が引き裂かれるのを防ぐ手段だった。長年イチゴや野菜の栽培で腰をかがめて労働をしてきたので、砂糖大根の栽培も苦にならないと考えた。また、家族が一緒に居ることが出来て、道路建設作業に行く必要が無くなるので、家族にとってストレスの少なくなる選択だと考えた。アルバータに避難しているのも1年か長くとも2年だろうと考えた。西海岸の反日感情が収束するか、カナダと日本が終戦の条約を締結すれば、またフレーザー河流域の自分の家に戻ることが出来ると考えた。そのうえ、アルバータ州とマニトバ州の砂糖大根農場に行けば、まともな住居に住み、まともな生活を送ることが出来、移動の制限も少なく、フレーザー河流域の隣人達と一緒に、お互いに近くの農場で生活出来ると思った。このような理由で、日系人家族は我先にアルバータ州とマニトバ州の砂糖大根農場行きを志願した。1942年4月11日までに、フレーザー河流域の日系人農家の全家族がアルバータ州またはマニトバ州へ移動を開始した。アルバータ州へは2,664名、マニトバ州へは1,053名が向かった。10

フレーザー河流域の日系人農家は、75人から125人のグループを作って、自分の家から直接アルバータ州とマニトバ州に移動した。グループで移動することで、グループ内の経験豊かで尊敬されていた指導者的人間が連邦政府などとの交渉にあたり、他の人は3,600人の移動の準備に専念することが出来た。皆で協力することで移動のための様々な準備は少し楽になった。貴重品を教会やコミュニティーの集会所に保管し、移動する荷物を準備し、既に作付けの終った農場を白人農家に貸付け、農業協同組合との契約を白人農家に引き継いで貰った。グループ移動には他にも利点があった。砂糖大根農家に移動出来る家族は、扶養家族一人につき4人の働ける家族が必要だった。この条件を満たさない小さい子供のいる若い夫婦は、両親や独身の兄弟姉妹と一緒になって条件を満たした。小さい子供のいる未亡人家族は、子供を他の家族と一緒にすることで、扶養家族数の条件を満たした。フレーザー河流域の日系人にとっての目的は、皆で、なるべく多くの人が移動できるように、また移動の苦労が少なくするように努力することだった。11

しかしアルバータ州とマニトバ州への移動がどんなに大変なものになるかは、誰も予想できなかった。先ず、農家が日系人家族を選ぶ基準が何も無く、その結果、組み合わせに不都合が起きた。二世の姉妹は自分たちの家族がどのようにして選ばれたかを、次のように思い出している。

列車が穀物貯蔵庫の前で停車すると、私達は列車から追い出されるように降ろされた。荷物は列車から草の上に放り投げられた。晴天だが風の強い日だった。砂糖大根農家が来て、私達を見て、適当な家族を選んだ。〔中略〕小さい子供のいる家族や、子供が女の子だけの家族は嫌われた。〔中略〕こういう家族はただそこに残されていた。農家は働き手の多い家族を選んだ。〔中略〕私達は10人家族で4人の働き手しかいなかった。そのため、誰も引き取ろうとしなかった。私達姉妹は荷物に腰掛けてただ泣いていた。〔中略〕やっとハンガリー系カナダ人の農家が来て、「私が引け受けよう、あんた達姉妹も働いてくれると願うよ。」と言って引き取ってくれた。12

農家に選ばれて、農場に到着してみて、どんな生活が待っているかがやっとわかり、本当のショックがやってきた。フレーザー河流域の日系人は、1920年代に開拓農家として苦労し、1940年代までには農家として成功していた。BC州保安委員会(BCSC)のテイラーによれば、日系人農家は移動する前まで、モダンな暮らしをしていた。13 しかし砂糖大根農家の季節労働者の生活は、質素きわまりなかった。古い、断熱材の無い穀物貯蔵庫や鶏舎だったところを住居とし、アルカリ度の高い沼や灌漑用水の水で体を洗い、飲料水に使用した。砂糖大根の栽培作業は、フレーザー河流域の農業よりずっときつかった。砂糖大根農家の中には、自分たちが1930年代に季節労働者として苦労したように、日系人も苦労するのが当然だと思う人もいた。またBC州日系人を戦争捕虜や奴隷労働者と同じように取り扱う農家もあった。14

日系人は不満を忘れるために厳しい仕事をこなし、不平はBCSCの代表としてレスブリッジに駐在していたウィリアム・アンドリュースとウィニペグ駐在のチャールズ・E・グラハムに訴えた。幸い、BCSCのテイラーは住居に問題があることを最初から予想していた。4月になるとすぐに、アンドリュースとグラハムに次のような住居の改善を命じた。

日系人をカナダ人労働者と同じ様に、清潔な住居に住めるようにしなければならない。日系人はアルバータの砂糖大根農家が知っているヨーロパ移民の季節労働者と違い、清潔を好み信用出来る仕事に熱心な人たちである。親切に接すれば砂糖大根農家に良い結果をもたらすことが出来る。15

この指示に従ってアンドリュースとグラハムは、日系人に建築材料を供給して、穀物倉庫と質素な小屋の改造を自分たちで出来るようにした。また農家が追加資金を負担すれば、新しい住居を建てられるようにした。

改造されたとはいえ、住居はお粗末なものであった。例えば祖父母と小さな子供を含めて11人の家族が、断熱材もない古い穀物貯蔵庫に押しこめられるように生活しているのも珍しくなかった。小さなストーブが部屋の片隅にあり、向かいの壁際に二段ベッドがあった。家族は一部屋で睡眠し、食事をとり、体を洗い、着替えをし、慰めあい、喧嘩をし、冬には寒さに震えながら体をくっつけるようにして寝た。10人の子供を持つ母親が次のように言っている。「BC州から砂糖大根農家に移って来てから、怒ってばかりいます。何時も怒っているので、悲しみも心が傷んでいることも忘れました。そのうち、毎日の生活をしていくのに一生懸命になり、怒ることも忘れてしましました。」16


日系人はアルバータ州とマニトバ州に来る時に砂糖大根農家と結んだ一般的な砂糖大根労働者の契約を改善する努力を始めた。働き始めてすぐに、この契約では子供のいる家族には収入が少なく、家族を養えないことがわかった。アルバータ州では、地域の教育委員会が日系人中学・高校生に1年70ドルの教育費を要求した。東ヨーロッパからの労働者は農閑期に他の仕事に就いたが、日系人は禁止された。カルガリー市とレスブリッジ市では、アジア人排斥主義者の市会議員たちが、農家が日系人を雇う契約の中に、日系人は冬の間の仕事に就けないという条項を入れさせたからである。両市の市会議員に、この契約を変更する気持ちは全く無かった。この結果、アルバータ州の農家に来た日系人2,664名のわずか15パーセントしか冬の農閑期の仕事を見つけることができなかった。仕事は、木の伐採、家政婦、砂糖大根農家や近隣の農家の家畜の世話などだった。1943年春までにアルバータのBC日系人の90パーセントが経済的に困窮し、42パーセントが生活保護を受けた。生活保護を受ける事を潔しとしない人達は次の砂糖大根栽培期の賃金を前借りした。17

マニトバ州に行った日系人の経済状況も同様であった。マニトバ州ではBC州保安委員会(BCSC)が、日系人がウィニペッグ市内に入ることを制限した。ウィニペッグ市には、香港で1941年12月に日本軍の捕虜になったウィニペグ擲弾兵大隊の基地があった。捕虜になった兵士の親族が、日系人に報復するのではないかと懸念されたからである。ウィニペッグ市内で最初に居住が許された日系人は、1942年秋に「キリスト教女子青年会(YWCA)」の斡旋で、マニトバ市の有力者の家庭で家政婦を始めた女性であった。BCSCは、ウィニペッグ市の有力者ならば、万一、家政婦に何かあった時に保護してくれると考えた18。1942年の冬が深まるにつれて、経済的に困窮した日系人二世たちは両親と兄弟を養うためにウィニペッグや他の町で仕事を求めるようになった。BCSCの許可なしに住所や仕事の変更をにすることは禁じられていたが、二世がこの規則に反してウィニペグに住むようになると、BCSC は禁じれば結果はかえって悪くなるとし黙認した。ウィニペッグ市北部がカナダの政党でただ一つ日系人を擁護した協同連邦党(CCF)の本拠地であったことも、日系人に有利に働いた。BCSCの砂糖大根農家プロジェクトの管理者J.N・リスターは、日系人がウィニペッグ市に移動するのは、ウィ二ペッグがケベック州バルカルティエと共に、日本帝国に対して個人的に怒りを抱く人がたくさんいる街なので、紛争の火種をつくるようなものだと心配したが杞憂に終わった19


フレーザー河流域の日系人が、全員一度にアルバータ州とマニトバ州に分かれて移動したので、この二つの州にBC州から移動してきた日系人社会が誕生した。日系人は公には団体を作ることを禁じられていたが、秘密裏に団体を設立した。移動の際、フレーザー河流域の村単位で移動したので、アルバータ州とマニトバ州で村の社会組織がそのまま維持された。また、移動の時の指導者が信用され、移動後も日系人社会の代弁者としての役割を果たした。その上、フレーザー河流域の日系人の住む村はお互いに近かったので、村の指導者同士も顔見知りだった。このため移動先のアルバータ州とマニトバ州でもお互いに協力して活動することが容易であった。

これらの指導者は経験が豊富だった。マニトバ州ではシンジ・サトウ、イチロー・ヒラヤマ、ハロルド・ヒロセがフレーザー河流域の農業共同組合やスティーブストンの漁業組合を組織した経験があり、マニトバ州でも日系人は要望は個人的にするより、組織として交渉するほうが効果があることを知っていた。マニトバ州の日系人組織の指導者は、1942年8月、BCSCに団体を公式に組織する要請を出した。マニトバ州駐在のBCSC代表チャールズ・グラハムはこのような組織に利点があると思ったが、バンクーバーのBCSC本部とオタワの連邦政府は、日系人が集会をすると、現地の白人が反発することを怖れて、団体を組織することを拒否した。20 集会の権利を拒否されたサトウ、ヒラヤマ、ヒロセは、他の日系人指導者とウィニペッグの中国人の経営するホテルで会合を開き、組織の詳細と活動目的を決定した。1943春までに、ウィニペッグ市周辺の日系人はそれぞれの住む地域で代表を選出し、この地域代表から「マニトバ州日系人合同委員会(Manitoba Japanese Joint Committee:MJJC)」委員を選出した。訳注ii21 MJJC は、1943年2月から日系人問題を担当することになった連邦政府労働省に、組織結成を報告した。労働省は既成事実となっていたMJJCをどうすることもできなかった。かえって、この違法組織が日系人の士気を高めており、また組織の指導者が地域の日系人コミュニティーの問題を自分たちで解決して、労働省の仕事を軽減すると考え、1943年5月にMJJCを正式に承認した。

MJJC は直ちに日系人の移動と職業選択の自由を獲得する運動を始めた。そしてマニトバ州の砂糖大根農家での雇用契約は1942年の砂糖大根栽培期だけで、それ以降は自由に職業の選択ができると主張した。大部分の日系人は1943年度の砂糖大根栽培期も作業を続け、少数の日系人だけが砂糖大根農家で働くのをやめたので、砂糖大根農家からの反対はなかった。連邦政府労働省はMJJCの要求を黙認することにした。1943年秋までに、マニトバ州の日系人の生活は比較的正常なものになり、政府の決めた制約の下で生活の再建を始めた。


アルバータ州でBC州から移動してきた日系人を組織したのは、主にセイク・サクモト〈佐久本盛矩〉だった。サクモトはBC州の日本人伐採製材労働組合で英語の書記をしていたが、自ら志願して1942年2月にアルバータ州に移動した。そして直ちにフレーザー河流域から移動してくる日系人の生活環境の改善を始めた。先ず、BC州日系人が現地の農業協同組合に参加して、フレーザー河流域でしていたように、野菜を栽培して生計を立てる事を計画した。しかし、現地の白人農家がBC州日系人の農地の購入も貸借も反対したので、計画は進まなかった。サクモトは次にオールドマン河北側で砂糖大根栽培に従事していた日系人の組織化に取り組んだ。バンクーバーとミッションシティーでそれぞれ日本語学校の校長をしていて日系人社会で尊敬されていたサダヨシ・アオキ〈青木定義〉とミノル・クドウ〈工藤実〉がサクモトを助けた。22

サクモト、アオキ、クドウの3人は組織造りの準備をしてから、オールドマン河北側灌漑地区の砂糖大根農場で働く全ての日系人を、ピクチャービュート近くの野原に集めて集会を開いた。集会は違法なので秘密裏に開いたはずであったが、集会が始まってまもなく、BCSCレスブリッジ駐在員ウィリアム・アンドリュースが、連邦警察官と一緒に現れた。集会を組織した人達は驚き何が起こるのか危惧したが、二人とも集会に介入しようとはせず、ただ静かに見守るだけであった。この集会でサクモトが「相互援助会」(砂糖大根労働者協会:Beet Workers Association)の会長に選出された。BC州日系人は、アンドリュースは物分りの良い人で、このような協会は彼の責任であるBC州日系人管理の細かな問題の解決に役立つと考えるだろうと理解した。23 オールドマン河の南側のBC州日系人も親和会という組織をつくった。これらの組織が成立すると、BC州日系人は自分たちの生活環境の向上運動を始めた。

アルバータ州で砂糖大根栽培に従事したBC州日系人には4つの大きな問題があった。粗末な住居、不適当な労働契約、子供の学費、農閑期の仕事の禁止であった。最初の二つは1943年春に同時に解決した。BC州日系人の最初の砂糖大根農家への配置は、農家の要求する労働力と日系人家族の構成が合わない例が多かった。1943年春までに175の日系人家族が新しい農家に移動することを要請したが、「アルバータ州砂糖大根生産者協会(ASBGA)」はBCSCとの契約を自己流に解釈して、BC州日系人は戦争が終了するまで移動することは出来ないと言って拒否した。BC州日系人はASBGAと交渉しても無駄だとわかり、1943年度の労働契約を交渉して準備した後、契約に署名しないまま全員ストライキを始めた。そして家族の農家への再配置が認められるまでストライキを継続すると宣言した。24 アルバータ州の砂糖大根農家は、日系人は従順な奴隷のような労働者でないと納得した。そもそも、従来の砂糖大根労働者組合を嫌ってBC州日系人を雇用したのだが、日系人の「労働組合」は従来のものより手強かった。砂糖大根栽培に従事したBC州日系人は他に生活の手段がなかったので、全員が団結して交渉にあたり、組織から脱落する人はいなかった。

しかし、教育問題の解決はうまくいかなかった。BC州日系人の教育について、連邦政府はアルバータ政府に小学校教育だけを保証して、中学、高校教育は保証しなかった。BC州日系人は、アルバータ州に移動する時に連邦政府が「通常な家庭生活」を約束し、このなかには政府が費用を負担する中学・高校教育も含まれていると主張した。連邦政府とアルバータ州政府は、この問題を地域の教育委員会に丸投げした。教育委員会は、高校生1人年間70ドルの学費を徴収することにした。BC州日系人は、自分たちは砂糖大根栽培に従事して得た収入からから税金を払って政府に貢献しているのだから、他のカナダ人と同様に中学、高校の学費を免除されるべきだと主張して、地域の教育委員会と長い交渉に入った。そして戦争が継続している間に、少しずつ学費の免除や半減の譲歩を獲得していった。1946年に、いまだに70ドル全額を徴収していたのはレイモンド教育委員会だけであった。25

農閑期の仕事の問題は、戦時中には満足のいくように解決ができなかった。レスブリッジ、カルガリー、エドモントン市が、日系人の雇用を禁じていたのが一番の問題であった。日系人と反日的なこれらの市の市議会議員との争いが続いた。BC州日系人と日系アルバータ人がレスブリッジ、カルガリー、エドモントンで就職や就学しようとするたびに、たとえ一時的な仕事であっても、市議会議員は従来からの排外主義スローガンを唱えて猛烈に反対した。市議会議員は日系人(通常は二世)と、雇用主から提出されたレスブリッジの缶詰工場や病院への雇用許可証を一つ一つ拒否した。カルガリーでは教員養成学校への入学を拒否した。また大きな町ではどこでも、日系人家政婦を拒否した26。しかし家政婦の場合は、町の禁止令を無視して仕事に就くことが多かった。市町村議会のあまりにも露骨な人種差別は、結局は日系人を擁護する白人をアルバータ州で増加させることとなった。

アルバータ州では多くの白人がBC州日系人を擁護してくれたが、一番頼りになったのは、戦前からレスブリッジ、カルガリー、エドモントン周辺に住んでいた日系人だった。1942年には533名のこの様な日系アルバータ人がいた。日系アルバータ人はBC州日系人を家庭や教会、いろいろな組織で歓迎し、仕事の世話をし、条件のもっと良い砂糖大根農家を見つける手助けをした。レイモンドでは食料共同組合への参加を呼びかけ、コールデールでは新しい食料共同組合の結成を助けた。ピクチャービュートとコールデールでは、仏教会を設立し、従来の相互支援組織への加入や、新しい相互支援組織の設立を支援した。27

日系アルバータ人はBC州日系人を支援したために、白人カナダ人からBC州日系人と同様に見られるようになった。そして両者を区別しない傾向は、連邦政府の政策によって悪化した。連邦政府はBC州日系人に裏切り者のレッテルを貼るだけでは満足できず、1942年9月8日、太平洋岸地域の日系人に課した制約をカナダ全域の「日本人種」に適用した。28 このため日系アルバータ人もBC州日系人と同様に、自宅から12マイル以上の場所に出かけることや、自宅を売ること、家を引っ越すことに、政府の許可が必要となり、不動産は買えず、BC州に入ることも出来なくなった。また手紙と電話は検閲された。この制約は細かなところまで適用された。例えばレイモンドの日系アルバータ人の1人は、2人の息子がカナダ軍隊に入っていたが、自宅の隣の土地を買う許可を貰うのに、1944年から1946年まで2年間待たなければならなかった。29

マニトバ州では、BC州日系人の直面した問題はアルバータ州より少し楽だった。ウィニペッグ市の市政関連の有力者が日系人女性を家政婦に雇ったので、有力者は、日系人を支援するか少なくとも中立的な立場を取ることが確実になった。ウィニペッグ市はアルバータの町と比べて、世界のいろいろな国からの移民が多かった。また、日系人はYWCAやYMCAおよびウィニペッグ市に大勢いたユダヤ系カナダ人の有力者から支援を受けた。後に、カナダの他の町でも同様のことが起こるのであるが、最初に日系人を雇用し家を貸したのはユダヤ系カナダ人であった。日系人を助けたユダヤ系カナダ人にとって、カナダで日系人に起こっていることはヨーロッパでユダヤ人に起きていることと同様に思えた30。第二次世界大戦中にウィニペッグ市で日系人として生活するのは易しいことではなかったが、少なくとも白人の中に友達が出来た。


実際は日系人はいたるところに、ごく少数ではあったが友達がいた。政府高官や教会の高い地位にいる人達は日系人に背を向けたが、個人や小さな組織の中には、日系人に罪はないと思い、その状況に同情する人達がいた。BC州保安委員会(BCSC)では委員長で連邦警察(RCMP)副長官のミードが制約の範囲内でできるだけ公平で寛大に日系人を扱うように努力した。ミードの努力もあって日系人は制約をすこし緩く解釈したり、時には従わなくてもよいようになった。1943年始めにBCSCが解散するにあたり、ミードはオタワの連邦政府に、日系人が引き続き公正に取り扱われるように、排日的な言動をすると思われる人の名簿を作って提出した。そして、リストに載っている人達を日系人を管理する組織に採用しないように要請した。31

RCMPも日系人をできるだけ寛大に扱った。規則を字句通りに解釈して、規則の背後にある卑劣な意図を無視した。例えば、連邦政府漁業省は日系人の漁業を禁止した。この禁止にはスポーツ・フィッシングも入っており、釣りをする人を見つけた時は、魚釣り道具を没収する規則になっていた。しかしRCMPはこのようなときでも、釣り竿、釣り糸、釣り針を少しだけ取り上げるだけで見逃していた。収容所に配置されたRCMPは、連邦政府法務省や労働省の規則を遂行しているだけに過ぎなかったのだが、収容所の日系人はこのことを理解せず、RCMPは自分たちを虐待している政府の代表のように思った。例えば、収容所からの外出拒否はRCMPの判断だと思っていた。実際はオタワの法務省と労働省が規則を決定し、RCMPは規則を遂行しているだけで、変更をすることは出来ないとは知らなかった。32

収容所や大きな町で日系人を支援したのは、ユダヤ系カナダ人、教会の牧師、YMCA、YWCA、カナダ合同教会の「女性宣教師協会(Women’s Missionary Society:WMS)」のような団体だった。日系人を最初に雇用し、家を貸したのはユダヤ系カナダ人であった。当時「ジャップ」を雇い、家を貸すことは、地元の愛国主義者から非難される行為であった。モントリオールに移動した二世の一人が、カスローの収容所にいる妻に次のような手紙を書いている。「ユダヤ系カナダ人は、自分たちが東部カナダで差別されてきたから、私達の状況を良く理解しています。モントリオールの日系人の大部分は、ユダヤ系カナダ人の会社で働いています。ユダヤ系カナダ人だけが日系人に公平な雇用者です33。」YWCAは日系人女性に家政婦の仕事を斡旋することから始め、次に二世のための社会福祉サービスを始めた。さらに、トロントのYMCAは、日系人二世の男性のための簡易宿舎を設立した。WMSは日系人のBC州沿岸地域からの追放が始まった当初から日系人の保護を始めた。1942年3月にWMSは「日系人の福祉を守るためのどんな行動でも支援する。」と言う声明を出した。そして会員を仮収容所や日系人の居る所に派遣した。スローキャンバレーでは、1つの中学校・高校と2つの幼稚園に資金援助をした34。WMSから派遣された人の多くは日本で働いていたが、太平洋戦争勃発の前年の1940年以降にカナダに引き揚げた宣教師達であった。日本語ができたので一世との交流に役立った。WMSが運営した高校のおかげで、高校を卒業できた二世もいる。当時は知る由もなかったが、1942年に日系人と地域の市町村の間に立って日系人がその土地に定着するのを支援した数少ない人達が、後に日系人がカナダ市民としての自由を取り戻す運動の先駆者になった。

しかし1942年の時点では、日系人を支援する個人や団体は、政府や他の白人から疎ましく思われた。日系人の中でも、日系人の現在の境遇は白人のせいだとする人はこれらの支援者を疎んじた。収容所の管理官の中には、WMSから派遣された人達を邪魔に思う者もいた。特に収容所の日系人が、学校がないことや、住居が粗末なこと、レクレエーション施設がないことに対して抗議を始めると、WMSから派遣された人達も賛同して一緒に抗議を始めたので、収容所の管理者はますますWMSを疎ましく思うようになった35。日系人の保護者は、時には個人的な危険を犯してまでも日系人を保護した。トロント市カールトン街カナダ合同教会牧師のジェームス・フィンレイは、キタガワ一家6人(夫妻と子供4人)をエド・キタガワが仕事を探すまでの9ヶ月間、牧師館に住まわせていた。またトロント市の二世のための集会所を教会に設置した。このため、教会の裕福な信者はフィンレイの行為は教会の社会的地位を下げると批判した。フィンレイは教会の信者全員を集めて、キタガワ一家を追い出すなら私もこの教会の牧師を辞める、それでも良いかと全員に投票で決めてもらった。結果はキタガワ一家を牧師館の住まわせるというのが大多数であった36

皮肉なことに、連邦政府は図らずも、日系人の保護にまわったことがあった。労働省は労働組合やその他一般の労働者からの非難を避けるために、日系人の賃金を市場の平均賃金と同一にすることに固執した。労働省が直接雇用した日系人は1時間25セントから40セントでBC州内陸部の平均賃金の60セントよりずっと低いままだったが、労働省以外では日系人と白人の賃金は同じになった。37 1942年夏、カナダ政府はBC州内陸部に追放された日系人から、巡回労働班を組織してオカナガン・バレーの果実の収穫に当たらせた。最初の班が果樹園に着くと、果樹園の経営者が日系人の賃金を自分勝手に白人労働者の半分に減額していることがわかった。中にはこのような低賃金でも働くと言った人もいたが、班長のジョン・クマガイは低賃金を受け入れず、皆に働かずに宿舎まで12マイルを歩いて帰ろうと提案した。クマガイはほぼ全員を説得して皆で歩いて宿舎に帰った。クマガイは、オカナガン・バレーの白人は「ジャップ」が仕事を放棄してオカナガン・バレーを勝手に歩き回るよりは、白人労働者と同一賃金を払って徘徊するのを止める方を選ぶ筈だと予想した。38 予想通りこの事件は大きな反響を呼び、結局政府が介入して、同一の仕事は白人か日系人にかかわらず同一賃金を払うということを、果樹園経営者に言い渡した。経営者の中にはその後も低賃金で日系人を雇おうとする者もいたが、日系人に初めて連邦政府という後ろ盾が出来た。連邦政府はいつも頼りになるというわけではないが、長年の白人と日系人間の二重賃金制の解消に役立った。


オンタリオ州の捕虜収容所では、ジュネーブ条約に従って赤十字が日系人の収容者を助けた。赤十字は日系人にタバコ、読み物、レクリエーション器具を供給して、退屈な収容所の生活を少しは楽にした。ペタワワと後に日系人が移動するアングラーの収容所は捕虜収容所だったので、厳格な規則と毎日の日程表があった。午前6時半起床、全体行進、朝食、午前作業班の行進、病人の診療所への行進、監房検査、昼食、午後作業班の行進、全体行進、夕食、監房施錠と点呼、午後11時消灯の毎日だった。自由時間は日暮れから11時までだった。収容所での作業は収容所施設の修繕と志願してする収容所外での作業だった。これらの作業はリーダーに選出されたトキカズ・タナカが配分した。収容所外の仕事は、収容所に日系人とは隔離して収容されていたドイツ軍捕虜と同一の賃金が支払われた。39

捕虜収容所は閉鎖された社会なので、同じ監房に入っている人達がいわば家族だった。食事、作業、レクリエーション、ドイツ語、日本語、英語の授業、剣道、柔道、木工、洋裁など、常に同房の人達と一緒に行った。同房の人との密接な日常は淋しさを紛らわせたが、また大多数の意見に同意しなければならなかった。そうでなくても、自分の意見を強行に主張する人の意見に同意する必要があった。特に連邦政府の政策に激しく反対する人や、連合国ではなく枢軸国を応援する人がいる監房では、他の人は自分の意見を言うことをためらった。そしてこのような人と一緒の監房で毎日を過ごすよりは、オンタリオ州の道路建設キャンプにいく方がましだと思う人が出てきた。収容所の若い日系人の一人が次のように言っている。「収容所にはとても強固に自分の意見を主張する人達がいます。もし私が『収容所を出たい』などと言えば、すぐにお前は反日だと非難されます40。」日本贔屓の収容者は、捕虜収容所に収容されていることは名誉なことだと信じていた。なかには、BC州内陸部に収容されている家族から捕虜収容所から出るなと言われた人達もいた。これらの家族は、自分たちのいる収容所の外の世界の情報がなく、日本が勝利すると信じていた。家族の一員がBCSC の命令を拒否して捕虜収容所に入っているのは家族の名誉だと思った41。それでも、捕虜収容所に入ってから1年以内に、470名の二世の中の244名、225名の一世の中の71名が捕虜収容所を出て、オンタリオ州ポートアーサー、フォートウィリアムズ(現在のサンダーベイ)、オンタリオ州南部地域に向かった42

日系人の捕虜収容所での生活は平穏であったが、事件が一回起きた。1942年7月1日のまだ暗いうちに、ぺタワワ捕虜収容所10番監房の二世数名が、他の監舎に入っている日系人医師を捕虜収容所の管理官に追従していることを理由に懲らしめようとして、監舎を抜け出した。この時10番監房を抜け出した一人がこう語っている。

ホリ医師は政府と収容所の管理官に協力しようとしていた。〔中略〕ホリは若い収容者に『カナダは戦時経済で人手不足だから、捕虜収容所を出て仕事をしたほうが良い。』と扇動して、我々二世総移動グループ(NMEG)の目的を妨害していた。それで何人かがホリ医師のいる監房に行って、妨害をやめるように説得しようとした。暴力を振るうつもりはなかった。しかし我々は外出禁止時間が始まってから監房を出たので、歩哨は我々が逃げ出そうとしたと思ったのだろう。〔中略〕すぐに銃声が何発も聞こえた。〔中略〕誰も殺されなくて幸運だった。43

歩哨は10番監舎から11番監房に向かっていた日系人の群れの頭上に、警告なしで3回銃を打った。銃弾は10番監房の壁を突き破り、一発はベッドの上の毛布をかすめ、もう一発はもう一つのベッドの上の枕を貫いた。幸いこの二つのベッドの住人は監房の外にいたので無事だった。収容所の日系人達は驚き、怒り、捕虜収容所の司令官とスペイン領事館に抗議した。抗議を強力にするために、点呼も3日間拒絶した。44

この事件についての政府の正式な説明は無かったが、3月後に取り調べが行われた。事件は捕虜収容所に入っていた日系人の異常な情況が原因だと思われた。捕虜収容所の歩哨は、日系人は枢軸国の兵士だと思い、特別な事情で収容されているカナダの民間人であるとは知らされていなかった。枢軸国の兵士が脱走しようとしていると考えて、規則通りに威嚇射撃をしたと思われる。恐らくこの事件のために、日系人は間もなくペタワワからアングラーの101捕虜収容所に移された。ここでは日系人は「連邦政府法務大臣の権限により拘留された」カナダ市民であることが歩哨に徹底された。45

ペタワワの事件や、同じ日にバンクーバーで発表された二世総移動グループ(NMEG)の抗議文、退屈な捕虜収容所の生活、北オンタリオの煩いブヨ等々さまざまな要因が重なって、捕虜収容所を出たいと思う日系人が増えてきた。捕虜収容所を出た人はBC州の家族の許へは戻れなかったが、ケベック州とオンタリオ州で仕事を探し、住居を確保すれば、BC州から家族を呼寄せることが出来ると言われた。

東部カナダで仕事を見つけるために捕虜収容所を出た日系人と同様なことが、オンタリオ州シュライバーの道路建設キャンプでも起こっていた。ここには1942年春以来、467人の独身二世がいた。これらの独身二世は「日系カナダ市民会議(Japanese Canadian Citizens’ Council:JCCC)」の支持者で、JCCCに対する忠誠心を示すために道路建設キャンプに行くことを選んだ人たちだった。シュライバーの二世はオンタリオ州で仕事を見つけるためにキャンプを出ていった。オンタリオ州北部の林業や鉱業は労働者不足だったので、頑強で肉体労働の経験のある日系人を歓迎した。しかし都会育ちの日系人はオンタリオ州北部でブヨに煩わされることを嫌ってオンタリオ州南部の農園や工場の仕事を見つけた。

オンタリオ州に移動した二世は、他の場所に移動した日系人とは地理的に離れていたばかりでなく思想的にも異なる日系人社会を形成した。主にキリスト教徒だった二世は、YWCAや主要な教会の会員で自由主義的な白人と親しくなっていった。1年もするとこれらの二世は、以前「日系カナダ市民連盟(Japanese Canadian Citizens’ League:JCCL)」の会員だった人を中心にして新しいネットワークをオンタリオ州に設立した。また、日系人の人権問題を憂慮する白人カナダ人と交流するようになった。


BC州内陸部に追放された日系人は、相互に助け合って暮らしていた。日本語には「shikataga-nai(仕方がない)」という表現があり、日系人の戦時中の心情を表すのによく使われる。そのため、今まで日系人の戦時中の生活を記述した人達は、収容所に入れられた日系人は、周囲の出来ごとに無関心で、自分達の運命を受け入れ、引き籠もった生活をしていたと思い込んだ。しかし、このような状況がいつまでも続いたわけではなく、また収容所内に広まっていたわけでもない。「仕方がない」という反応は、自分ではどうしようもない状況に対する緊急の対応であった。「仕方がない」と諦めることで心理的衝撃を和らげ、次の行動に備えた。しかし、与えられた状況の下で最善を尽くす努力を諦めたわけではなかった。1942年の時点で、日系人は自分たちの追放を阻止することは出来ないと諦めたが、二世の反抗が示すように、自分たちの主張もなく、ただおとなしく収容所の生活をしていたわけではなかった。

1942年の夏と秋を通して、BC州日系人の第一の関心事は住居であった。ゴーストタウンの住居は、日系人全員を収容するには数が足りなかったし、また古くて修繕が急務だった。1942年6月、 『ニュー・カナディアン』紙の日本語編集長の妻チヨ・ウメザキは、古い酒場のダンス・ホールの一部に他の二家族と一緒に住んでいた。全部で13人の子供と4人の大人が一部屋で暮らした。勿論プライバシーなどなかった。46 ウメザキは夫に次のような手紙を出している。「みんながこの部屋をヘイスティングス・パーク2番館と呼んでいます。実際はヘイスティングス・パークよりお粗末です。食事の用意も寝る場所でします。トイレは食事を用意して食べる場所のすぐ向こうにあります。ですから食事中もトイレが丸見えです。」47 ウメザキは他の住居に移りたくても、すぐに移れる住居はなかったが、少なくとも屋根の下に住めるだけ幸運だった。何百人もの家族が、1942年の夏から秋の初めにかけて、スローキャンバレーのポポフ農場でテント生活をしながら、掘っ立て小屋の完成を待っていた。

1942年の夏に急造された住居は簡単なものだった。生乾きの木材を使って建てられた住居は二種類あった。小さい住居は、16フィートx16フィートの広さの床面積の建物が、二つの寝室と一つの居間に分けられていた。大きい住居は、16フィートx24フィートの床面積の建物が、四つの寝室と一つの居間に分けられていた。小さい住居には最低4人、大きい住居には最低8人が住んだ。家族が4人または8人以下の場合は、家族以外の人を入れて、4人または8人にする必要があった。住居の壁には断熱材などなく、生乾きの柱に生木の横板を打ち付け、コールタール紙を貼って雨の浸透を防いだだけだった。ベッド、テーブル、ベンチを住民が自分で作るように材木が支給されたが、生乾きの材木なので、家具を作っても直ぐに反り返ってしまった。ベッドは生乾きの材木から水分が滲み出てマットレスを濡らした。生乾きの材木と薪ストーブが支給されたが、それ以外の支給は何もなく、必要なものはそれぞれの家庭で揃えなければならなかった。48

住居の次に問題になったのは食料と収入だった。住居の建設中は、建設に従事した日系人男性は1時間25セントから40セントの賃金を得て、これを家族の生活費に当てた。しかし女性の仕事はさらに限られていた。教育を受けた二世の女性には、BCSC のタイピストや商店の店員、社会福祉サービスの仕事があったが、それ以外の女性は、時たまの裁縫や近隣の農家の農作業しかなかった49。ドゥホボール派の人達が訳注iii 野菜やその他のものを、町から収容所に売りに来る商人たちより安く日系人に売ってくれた。収容所の生活費は、太平洋沿岸地域で暮らしていた時より高くなった。収容所ではいままでの生活費を削減するような手段がなくなってしまったのもその一因であった。収容所では家庭菜園が無く、魚の缶詰工場から出た不要な魚を安価で買うこともなくなり、バンクーバーのイングリッシュベイ湾で捕るエビやカニもなく、フレーザー河流域の友達の果樹園から果実を貰って冬に備えて瓶詰めにすることもできなくなった。すべての食料を、1時間25セントという安い賃金で稼いだ収入で賄わなければならなかった。仕事のない人には政府から食料補助金が出たが不十分だった。収容所の福祉サービス従業員によれば、少なくとも55パーセント増額しなければ基礎的な食事をとることが出来なかった50。農閑期になり農作業がなくなり、収容所の住居建設も終了して仕事が無くなり、生活補助も十分でなく、日系人は生活必需品の購入に貯金を取り崩し始めた51。1942年の夏と秋にチヨ・ウメザキが夫への手紙で述べたように、日系人は乏しい資金でどんな住居に住むか、どうやって食べ物と衣服を手に入れるかを心配ばかりしているので、子供の学校、レクレエーション、収容所の日系人の組織のことまで考える余裕などなかった52

1942年の冬が近づいてくると、収容所の生活はますます厳しくなった。BC州内陸部の冬は、太平洋沿岸地域に住んでいた日系人がそれまで経験したことのないような厳しいものだった。寒気が断熱材の無い住居に染み込んできて、家の中のものまで凍らせた。毎朝、家の内側の壁から氷を掻き落とし、氷の着いた毛布とマットレスをストーブのそばに吊り下げて乾かし、夜寝られるようにした。4人の子供がいた二世のジューン・ヒライ・タナカは、今でも収容所での最初の冬の事を鮮明に覚えている。

スローキャンの私達の家の窓は、氷が凍りついて冬中開けられませんでした。家の暖房は薪ストーブだけで、薪は外側に氷がついているので、燃やす前に凍った薪の氷を溶かしました。それでも湿っていて、火をつけてもくすぶるだけでなかなか燃えません。年上の二人の子供は、夜になると湿ってくる藁のマットレスで寝ていたので、百日咳にかかりました。家の床は板一枚で地面から離れているだけだったので、床に直接置いたマットレスはずぶぬれになってしまいました。〔中略〕私の毎日の仕事はマットレスを乾かすためにストーブが十分熱いように保つことでした。これは一日仕事でした。〔中略〕生き延びるために、夜寝られるために、生活の最低条件を満たすために、一日中忙しかったのです。最初の頃は、水も家の近くになく、でこぼこ道を1マイルも歩いて水を汲みに行きました。子供のそりの上に容器を乗せて家まで運びましたが、でこぼこ道を帰る途中で、水は半分こぼれてなくなりました。毎日毎日こんな生活を収容所でしていました。53

断熱材のない家で暖房は薪ストーブ一つだったので、昼間は8人以上の人が居間のストーブを囲んで暖を取り、炊事をし、食事をし、その他の家事をした。二家族が暮らした住居では、それぞれの家族が違った流儀、規則、好き嫌いを持ったまま同じ場所で生活するので、住居の中の混乱はひどかった。そのうえ、BC州政府は収容所の子供たちが公立学校に行く権利を拒否したので、子供たちは天気の悪い時は外に出て遊ぶことが出来ず、狭い住居に一日中押し込められていた。収容所で奉仕する女性宣教司会(WMS)の人達も、日系婦人と同じような重労働を強いられていた。WMSの会員の一人が報告書に次のように書いている。

住居は生乾きの壁板で外側を囲われていた。やっとストーブで生乾きの木を燃やすと、熱で壁板から出た水蒸気が壁板や窓に付着して氷になった。

春が来るまで私の一番重要な仕事は家事をし、ストーブの世話をし、食材を確保することだった。54


冬の訪れとともに、収容所の日系人は団結心を思い出した。カスローで住宅係をしていたカツコ・ヒデカ・ハーフハイドは次のように回想している。

日系人が収容所生活に耐えられた理由の一つは、〔中略〕日本の伝統的価値観であるグループで活動する、という事を知っていたからであった。〔中略〕日本の村には、どこでも隣組があった。〔中略〕隣組の意識は日系人に受け継がれ、日系人社会を安定させ、共通の価値観を助長した。〔中略〕勿論、隣組意識があっても、時には派閥争いや半目もあった。〔中略〕それでも隣組意識を持って、皆で一緒に問題を解決することで、日系人の収容所生活は少し楽になった。55

それぞれの収容所で住居建設の指揮をした人達が、収容所の指導者になった。BC州のホープの町から西に14マイル離れた所に建設されたタシミ収容所では、RCMPが「国民グループ」と呼んでいたエツジ・モリイのグループの残存者が指導者になった。モリイの影響力は既に低下しており、モリイ自身は1942年3月にはミント・シティーの自活キャンプに移動していた。モリイに代わりシゲタカ・ササキとフランク・S・シライシが、カナダ・アングリカン教会牧師のヨシオ・オノと一緒に収容所での仕事をまとめた。カスローとニューデンバーでは、日系カナダ市民会議(JCCC)が住居建設で指導的な立場に立ったが、国民グループと同様に住居の建設中に指導者層の入れ替えがあった。1942年5月に警察の情報提供者が、日系カナダ市民会議(JCCC)のスポークスマンをしていたクニオ・シミズが二世総移動グループ(NMEG)の本当の指導者だと密告した。日系人社会ではシミズはNMEGに強力に反対する人物として知られていたので、この密告は笑い飛ばされたが、政府はただちにシミズと他の数名を、オンタリオ州シュライバーの道路建設キャンプやBC州内陸部の自活キャンプに追放した。56 1942年7月までに、エイジ・ヤタベがJCCCの労働者グループをまとめる役目に就いた。また7月までにBC州保安委員会(BCSC)はNMEGを正式に認めた。NMEGはシゲイチ・ウチボリの指導の下に、スローキャンシティー、レモンクリーク、ポポフの収容所の建設工事を受け持った。57 連邦政府はエツジ・モリイの「国民グループ」、JCCC, NMEGの三つのグループを承認した。三つのグループを、実質的な権限を与えずに収容所の建設に利用できると考えたからである。58 グループは三つの収容所建設に別々に配置されたので、それぞれのグループが仲間を呼び寄せた。その結果、連邦政府ははからずも、各収容所毎にまとまりのある日系人社会を形成するのを助けることになった。

日系人の太平洋沿岸地域からの追放は、地域ごとのグループを単位として行われたので、追放先の収容所で追放前に住んでいた隣人と一緒になり、以前の社会的絆を維持できた。追放はまずプリンスルパート周辺と太平洋岸の漁村から始まり、バンクーバー島、フレーザー河流域へと続き、最後がバンクーバーであった。ヘイスティングス・パークに同じ時に到着し、ここから各地の収容所へグループ単位で移動したので、行き先の収容所には、追放前の同じ地域の日系人がいた。そのため収容所での近所付き合いは楽であった。自分の家から地域の人達と一緒に直接収容所に向かった人たちは、移動先で社会的つながりを維持するのがもっと易しかった。スティーブストンの日系人の場合を、日系カナダ市民連盟(JCCL)の社会福祉士ケン・ヒビは次のように述べている。「自分でどのゴーストタウンに行くか選べなかった。我々は自分たちの属する団体ごとに異なる収容所に行った。」合同教会の信者はカスローに行き、仏教会の信者はサンドン、そして自費で移動した人はミントに行った。59 グループごとに移動した人達は、収容所でもグループとしてまとまっていた。カツコ・ヒデカ・ハーフハイドは次のように言っている。「グループで収容所に到着した人達は、その時までに完成していた住居にグループとしてまとまって入った。〔中略〕収容所ではいろいろなことを自分たちで組織しなければならなかったので、同じグループの人達がそばに住んでいるのは便利だった。60 」同じ地域の住民が同じ収容所に移動したので、移動前の地域で指導者だった人が収容所でも指導者になった。その結果、大部分の収容所の日系人委員会は、収容所施設の建設工事を指揮した人と、戦前の日系社会の指導者で自活キャンプに行かなかった人が占めることになった。61

追放前の地域社会の指導者がそのまま収容所の指導者になったので、住民は安心した。西海岸に帰るまでの収容所生活で、以前の社会的経済的関係を維持できることで、収容所の生活が正常な生活になったような雰囲気が生まれた。指導者が収容前から継続していたので、収容所内のいろいろな委員会の仕事は経験豊かな人が担うことになった。時には政府の政策を説明したり、収容所の日系人同士の争いの仲介や、日系人と収容所の管理官の間に入って仲介をしたり、戦勝公債の販売を手伝ったり、ある収容所では収容所内の仕事を日系人に割り振ったりした。経験豊かな人たちなので、日系人と収容所の日系人委員会の間の軋轢を最小限に抑えることができた。指導者は追放前の地域社会での実績や収容所の住居建設の実績があったので、日系人に課せられた制限を実施しても恨まれることはなかった。長年、地域社会で自分たちの指導者だった人を、政府と結託していると非難することは難しかった。62

1942年に、日系人は組織を作ることを禁じられていたが、BCSCが許可せざるをえない例外的なものもあった。例えば、1942年10月にスローキャンバレーの日系人は、戦勝公債販売運動を組織した。この運動についてBC州ナクスプの『アロウ・レイクズ・ニューズ』紙は次のような記事を掲載した。「多くの日本人はカナダ生まれで、カナダ人であることを誇りにしている。収容所の日系人は戦勝公債販売運動で頑張れば、白人の自分たち対する印象が良くなることを知っている。〔中略〕収容所の日本人は、与えられた状況の下で最善を尽くしている。そしてこのような機会が出来たことを喜んでいる。63 」戦勝公債販売運動は収容所内の日系人の組織づくりに役立ち、また地域の白人との関係を作ることになった。そしてこのような関係は改善していった。教会は日系人を受け入れ、教会の地下室や地域の集会所に、宣教師が日系人子弟のための学校を開いた。また基金募集のためのバザーが開かれ、日系人と白人が一緒に参加した。収容所のある地域の商店は特に喜んだ。客が少なく細々と商売をしていたが、収容所ができてからは日系人が常連になり、商売が大きくなった。そして日系人と商店の関係は、良好な社会的な人間関係を育むことになった。64 地域の白人からの反対もなく、収容所の管理にも役立つので、BCSCは収容所の日系人が組織を作ることを正式に許可した。この組織は、生活の改善のためにBCSCにいろいろな要請をした。生活保護費の増額、住居を冬の寒さに耐えられるようにするための材料の支給、上水道と電気の敷設、捕虜収容所の日系人の解放、日系人に同情的でない収容所の白人職員の解雇、レクレーション設備の改善などを陳情した。しかしもっとも重要な陳情は学校の開設であった。65

収容所生活の改善交渉は難しかった。ほとんどの収容所の管理官、特にスローキャン・シティー(後にタシミ)のウォルター・ハートレーとカスロー(後にニューデンバー66 )のヘンリー・P・ローヒードの2人の管理官は収容所の改善に協力的だったが、ほかの収容所の管理官はそれほど協力的ではなかった。例えば1942年と1943年にBC州内陸部収容所住居マネージャーだったE・L・レン・ブールビーは、1943年に日系人配置委員会委員長のジョージ・コリンズへ、「収容所の施設を改善すると、日系人住民の居心地が良くなり、政府が望んでいる収容所から他の土地への移動が難しくなる。〔中略〕もうこれ以上の施設は必要なく、現在の施設でどうにか生活してもらうのが良い」と言って施設の改善に反対した。67

収容所の管理官の中には、ブールビーに同調するものもいた。1942年にローヒードの後を継いでカスローの管理官になったのは退役軍人だった。この管理官は収容所を軍隊のように管理しようとして、日系人の男性と女性を出来る限り分離した。道路建設キャンプから収容所に戻ってきた既婚男性を、家族と一緒の住居に住むことを許さず、別の二段ベッドのある宿舎に住まわせた。この処置に怒った二世数名は、自分たちでこの問題を解決しようと抗議することにした。先ず管理官以外の白人職員に予め、「今夜起こることは、君たちとは何の関係もないことだから心配しないように」と伝えておいてから、夜になって、管理官宿舎の窓を壊した。この事件後数日内に既婚者は家族と一緒の住居に住めるようになった。68

レモンクリーク収容所管理官のJ・S・バーンズも、狭量で協力的でないと日系人に嫌われた。バーンズはブールビーやコリンズと同様に、日系人が収容所の施設を改善することに反対した。1943年の夏、レモンクリーク収容所の日系人委員会は、学校に使われていた建物の一つをレクレエーション施設にするために、消防署の規則に適応するように改善することを要請した。日系人委員会はバーンズとブールビーに、もし保安委員会が150ドル相当の材料費を出してくれたら、建物の改造は自分たちで行なうと提案した。しかしこの提案は拒否された。委員会は改造した建物で映画会を開いて、その売上で150ドルを返済すると提案した。この提案は政府の支出が後で返済されるので許可された。バーンズの態度は次の件によく現れている。バーンズはレクリエーション施設のために必須の150ドルの支出は拒否したが、収容所と周辺の道路との間に建てる柵の材料費300ドルを支出した。バーンズは柵を建てる理由を、ドゥホボール信者が収容所に農産物を売りに来るのを防ぐためだとした。また、彼らは泥棒であり、放火魔なので、収容所に放火して焼き払ってしまうと主張し。69

収容所内の日系人委員会だけでは解決できず、収容所外の支援が必要な問題があった。それは収容所の日系人子弟のための学校であった。1942年9月、BC州政府は収容所の学童の教育に対する責任を拒否した。連邦政府も教育は州政府の責任だとして、この問題に介入することを拒否した。それで収容所の学童の教育問題は行き詰まってしまった。事態を憂慮した教育に熱心な日系人は、強制収容が始まった当初から臨時の学校を設置したが、誰もこれで満足とは思わなかった。カスローの収容所で働いていたカツコ・ヒデカ・ハーフハイドは、学校が始まった時のことを次のように回想している。

私達が初めてカスローに着いた時(1942年5月)、子供たちはただその辺で遊んでいました。するとケイ・オダが子供たちを集めて、湖のほとりの公園に連れていきました。公園には幾つかのピクニックテーブルがあったので、オダは子供たちを幾つかのグループに分けて、テーブルのベンチに座らせました。そしてケイは子どもたちを教えるのに必要な最小限の準備をしました。〔中略〕年上の女の子に子どもたちの世話を頼みました。年上の女の子は勉強に必要なものを頼み込んで借りたリ、ときには持ち主に断らずに借りて来たりしました。まだ高校生の女の子がいろいろなことが出来るのを見ていて、とても興味深かったです。70


女性宣教使協会(WMS)の指導のもとで、高校生の女の子が急場しのぎで小中学校生徒の勉強の面倒を見ているあいだに、日系人は教会、協同連邦党(CCF)、政府に助けを求めた。しかしBC州のCCFは沈黙を守ったままだった。東バンクーバー選出CCFの連邦議員アンガス・マッキネス夫人のグレース・ウッズワース・マッキネスだけが、BC州内陸部の市町村を巡回して収容所学童の支援を求める講演会を開いた。71 カソリック教会、アングリカン教会、合同教会が呼びかけに応え、収容所に臨時の学校を開設することを支援した。また同時に、BCSCに対して、正規の学校教育を収容所の学童に提供するように圧力をかけた。72 ヘイスティングス・パークの臨時学校で1942年の夏にボランティア教師をした経験を持つバンクーバー教育機構の教師たちも、BC州政府が収容所の学童に正規の教育を拒否していることを非難し。73

連邦政府から見ると、収容所に学校を設立することは政府の日系人政策にマイナスになるものだった。1942年秋までに、連邦政府は戦後日系人を太平洋岸地域の家に戻ることを許可する意図をなくしていた。しかし、そのことを日系人に伝える準備はまだしていなかった。連邦政府は日系人を、少なくとも戦争の続いている限りカナダ全土に分散する計画の方に傾いていた。そして、日系人がカナダ各地で仕事に就けば、政府は日系人を収容所に収容しておく費用の必要がなくなる。収容所に学校を設けることは、この計画を阻害するものだった。その理由を収容施設総管理官のブールビーは上司に次のように述べている。「もし収容所に現在の学校を設置していなければ、日系人は子弟が学校に通えるような何処へでも移動していったことは確かです。」74

1943年春、連邦政府は、収容所の学校開設にこれ以上反対を続けると、教会組織から反目されることを憂慮して、不本意ながら収容所で正規の小学校教育をすることを認可した。中学、高校教育は通信教育と女性宣教師協会会員の個別指導に頼ることになった。

このようにして始まった収容所の小学校教育はきわめて初歩的なものであった。教師は収容所の日系人から選ばれたが、教育指導訓練は不十分だった。学校は収容所の他の建物同様に粗末なものだった。タシミ収容所では、以前独身男性が入っていた牧場の納屋が教室に使われた。また教科書は古くなって廃棄されたものを、バンクーバー教育委員会から譲り受けた。日系人で教員免状を持っているのは二人しかいなかったので、1943年と1944年の夏にバンクーバーの教員養成学校は、高校を終了した二世で収容所の教師をしていた人達に、短期の教員訓練プログラムを開発して提供した。BC州の教員免状を持っていたヒデ・ヒョウドウとテリー・ヒダカが監督して、小学校教育が始まった。クラスは20名以下と少人数に抑えられた。教師が未経験だったことと、教室に使用した部屋が小さかったからである75。140名もの二世が教師に志願したことは、連邦政府の日系人分散計画にはマイナスに働いた。教師は若い独身者が多かった。独身者は家族でただ一人の働き手でなければ、収容所のBCSCで働く資格が無かった。仕事に就けない独身者は、連邦政府がロッキー山脈以東に移動させたい格好の候補だったからである。


1943年初め、学校問題で勝利を勝ち取ったことは、収容所生活初期の危機を乗り越えた日系人達の気分を更に高揚させた。2月、3月と次第に日が長くなると、収容所の活動も活発になっていった。雪が溶けはじめ、やっと暖房の心配をする日々が終わり、誰もが家庭菜園の準備や、春のバザーの準備や、ひな祭りや端午の節句など、日本の伝統行事の準備にいそしんだ。日系人はこれで最悪の時期は終わったと確信した。もう1年収容所で過ごすかもしれないが、今年の冬はしっかり準備して迎えようと決心していた。山々に囲まれた収容所は荒々しい自然環境の中にあったが、ただ一時期を過ごすだけなら必ずしも我慢できないものではないと自分たちを元気づけた。1年以内に太平洋沿岸の自分の家に戻れるものとほとんどの者が信じていた。山に囲まれ外の世界から隔離された収容所の中で、自分たちの力で追放に伴う危機を乗り越えたことに興奮していた日系人は、間もなく自分たちには戻る家がなくなってしまうとは、夢にも思っていなかった。

訳注

I. 自活キャンプ(self-supporting communities)はBC州保安委員会の造語で、日系人がBC州の海岸線から100マイル以内の防衛地域から家族で移動できる選択場所の一つであった。BC州内陸部のクリスティナ・レイク、ブリッジ・リバー、ミント・シティー、リルエット、マッギルブレー・フォールズなどに約1,400人が移動した。自費で移動と住居の確保し、キャンプ地で農業、林業などの仕事で収入を得ることから、自活キャンプと呼ばれたが生活は厳しかった。ロイ・ミキ、カサンドラ・コバヤシ著、『正された歴史 ー日系カナダ人への謝罪と補償ー』(京都:つむぎ出版、1995年)、49頁;NAJC Japanese Canadian Legacy Committee, Japanese Canadian Highway Legacy Sign Project (Victoria: BC Government, 2018).(戻る)

II. MJJCの創設は1942年9月。Manitoba Japanese Canadian Citizens’ Association, The History of Japanese Canadians in Manitoba,1996. p.40(戻る)

III. ドゥホボール派とはロシア・ウクライナに起源を持つキリスト教の教派。神秘主義、絶対的平和主義、無政府主義の傾向が強く、共同農業生活を送ってきた。(戻る)76