人種主義の政治 アン・ゴマー・スナハラ 著

前書き

1942年2月、カナダ連邦内閣はカナダ太平洋沿岸から100マイル以内に住む日系カナダ人(以下、日系人)22,000名余りをこの地域から排除する命令を出した。これが日系人が自分の家から追放され、収容所に拘留され、財産を没収されて強制的に売却され、カナダ全国に強制的に分散されるか、または第二次世界大戦直後の飢餓状態の日本に追放されることになる一連の出来ごとの始まりだった訳注。 訳注

カナダ歴史の汚点として記録される、1942年から1950年まで8年間続いた迫害の経験は、日系人にその後もずっと心的外傷として残った。この心的外傷は、時には性的暴行被害者の心的外傷とも比べられた。日系人は、自分達は何も悪いところのない被害者だと思っていたが、品位を汚される経験をして屈辱を感じた。その上、日系人の経験した迫害は、日系人自身にその原因の一部がある、とカナダ人が思っていることを、日系人は知っていた。このことが日系人の屈辱感をより複雑にした。性的暴行の被害者のように、日系人はカナダ社会の中で沈黙を守り、自分達の経験を他人と話し合うことを避けた。

時が心の傷を癒してくれるのは幸いである。この本が初めて出版された1981年までに、連邦内閣がブリティッシュ・コロンビア州(以下BC州)の日系人排除命令を出してから既に40年余りが経過していた。また、日系人が市民としての自由を完全に回復してからも、30年余りの月日が流れた。そしてこの間に、日系人は個人として成功し、カナダの人種差別は大幅に減少した。日系人はカナダ人マイノリティの優れた規範となった。静かで、勤勉で、高い教育を受け、裕福で、カナダ社会によく同化している、という評価を獲得した。また、この40年間で、迫害で一番被害を被った一世の大部分は亡くなった。もう日系人は沈黙を守る必要がなくなった。残された被害者たちは今、自分達の経験を話すことが出来るようになった。

1981年までに十分な時間が過ぎ、戦時中の連邦政府の記録が公開されるようになった。日系人の運命を決定した会議、会合、非公式の議論等の記録類が公開された。そして現在、我々は連邦政府の公式な立場の背後まで立ち入り、連邦政府の日系人政策決定の理由や、政策の作成に関与した人達の人間性まで探り、なぜ日系人は差別されたのか、という疑問への答を探すことが出来るようになった。

従来の本と比べると本著は、連邦政府の記録を使用して、第二次世界大戦中と戦後の7年間にもおよぶ長い間、なぜ日系人を自国内で追放するという政策を連邦政府が施行することが出来たかを、戦時中の連邦政府の表面的な言い訳を剥ぎ取り、連邦政府の観点から見た真の理由を解明する。BC州の政治家から始まった日系人排斥という歪曲した言動が、戦時中のウィリアム・ライオン・マッケンジー・キング内閣によって連邦政府の政策として採用され、カナダ軍部及び連邦警察上層部が反対し、一度は連邦議会が反対したにもかかわらず、戦時措置法の下で実行されるにいたった物語である。

ケン・アダチが『存在しなかった敵、日系カナダ人の歴史』3を調査していた1950年代は、まだ連邦内閣の日系人政策関係の記録は、30年間公開禁止規則(30年ルール)のために見ることが出来なかった4。アダチが依拠できたのは、個人の回想録、査問や王立委員会の議事録、公開されていた文書だけに制限された。その結果、連邦政府の政策の分析は、主にラビオレットの分析を更新しただけだった。アダチは連邦政府の説明をそのまま受け入れたのではなかったが、連邦政府の公式な説明と関係者の個人的な行動の間に食い違いがあることを証明することは不可能であった。それでアダチは日系人側の調査分析に力を注いだ。丹念に日系人の行動を探ることによって、それまでラビオレットや一般カナダ人が抱いていた日系人は連邦政府の政策に受動的に反応するだけで、自ら積極的に連邦政府の政策に抗議をしなかった、という誤った認識を打ち破ることが出来た。

バリー・ブロードフット著の『悲しみの日々、恥辱の日々』5も、どうして日系人が迫害されたのか、その理由は追求していない。ブロードフットの目的は「歴史の骨格に肉付けをする」6ことだった。ブロードフットは日系人と白人の双方に、個人的な経験を語らせた。その結果ブロードフットの本は読みやすい。しかし、忘れてしまいがちな個人の記憶に頼っているので、歴史的事実と食い違っていることも多い。日系人のいろいろと複雑な側面が書かれているところが特徴である。ブロードフットの本で一つ明らかになったことは、日系人はなぜ自分達が迫害されたか未だ理解出来ず、とても知りたがっているということだった。

従来の本と比べると本著は、連邦政府の記録を使用して、第二次世界大戦中と戦後の7年間にもおよぶ長い間、なぜ日系人を自国内で追放するという政策を連邦政府が施行することが出来たかを、戦時中の連邦政府の表面的な言い訳を剥ぎ取り、連邦政府の観点から見た真の理由を解明する。BC州の政治家から始まった日系人排斥という歪曲した言動が、戦時中のウィリアム・ライオン・マッケンジー・キング内閣によって連邦政府の政策として採用され、カナダ軍部及び連邦警察上層部が反対し、一度は連邦議会が反対したにもかかわらず、戦時措置法の下で実行されるにいたった物語である。 戦時措置法 カナダ軍部及び連邦警察上層部が反対し、一度は連邦議会が反対したにもかかわらず、戦時措置法の下で実行されるにいたった物語である。

また本著は日系人が連邦政府の弾圧政策にどのように反応し、対応し、そして最終的に勝利した物語でもある。日系人がどうして、カナダ国民に社会の最下層に属するマイノリティと見なされるようになったのか。そして日系人はどのようにして、個人としてグループとして、この根拠の無い固定観念に挑戦し、ほんの少数の白人の協力を得て、最終的にはBC州の排日政治家の野望を打ち砕いていったかの話でもある。特に重要なことは、本著は最終的な勝利が法律上の勝利ではなく政治的な勝利である、ということを示している。

政府の記録文書は、従来言われてきた話とはまったく異なることが実際にあったことを明らかにした。戦時措置法(War Measure Act)の下で発令された日系人に関する内閣令(日系人の太平洋沿岸地域からの追放、強制収容、財産没収、分散、日本への追放)は、人種差別に基づいた政治的判断によって決定された。当時、人種差別は政府の枢要な部署を占める人たちによって受け入れられており、むしろ助長されていた。これらの記録文書は、戦中、戦後の7年間を通じて、日系人がカナダの安全の脅威になるようなことは、一度もなかったことも証明している。それどころか、カナダ連邦騎馬警察(Royal Canadian Mounted Police : RCMP)や軍部高官、そして連邦政府外務省極東アジア局の官僚全員が日系人政策のほとんど全てに反対した。これらの日系人に関する知識が豊富で、事実に基づいて判断出来る専門家と、排日人種差別を自分の政治的利益のための用いるBC州の政治家との間で、何度も意見が対立した。そして、連邦内閣は常にBC州政治家の側についた。

政府の記録文書は、日系人の運命を決めた人種差別には二つの種類があったことを示している。BC州の政治家のあからさまで積極的な人種差別と、連邦内閣の受動的な、しばしば内閣自体も気づいていない人種差別であった。

多くの場合、連邦内閣の受動的人種差別が、BC州政治家の積極的人種差別よりも、日系人に害をもたらした。BC州の政治家は声高に日系人弾圧政策を推進したが、これらの政策に何も言わずに実行に移したのは連邦内閣であった。BC州の政治家が要求したとおりに日系人は追放され、収容所に送られ、財産を没収され、カナダ各地に分散され、日本に追放された。そして連邦内閣の誰一人として、これらBC州政治家の要求の内容に疑問を挟むものはいなかった。受動的人種差別が内閣の基準になっている限り、日系人の自由は危険にさらされていた。

人種差別は第二次世界大戦という大惨事中に、日常的に見られた現象であった。これに較べれば、本著の日系人の受難は小さな出来事かも知れない。しかし日系人に起きたことは、ヨーロッパやアジアで起きたことと異なるところがある。カナダは第二次世界大戦に、世界の正義と平等を守るために参戦したにもかかわらず、国内では日系人の差別を行っていた。ドイツ第三帝国の人種差別政策に比べれば規模は小さいが、カナダの政治家も人種差別を自分達の政治的利益のために利用した。そしてカナダの政治家が使った手段は驚くほど偽善的であった。カナダ政府は自国民である日系人を裏切っただけでなく、ヨーロッパやアジアの戦場で戦う同胞を裏切った。なぜなら、これらのカナダ人が自由と平等の原則を守るために、ヨーロッパとアジアで戦っていたにもかかわらず、政府は自国内でこれらの原則を愚弄していたからである。