人種主義の政治 アン・ゴマー・スナハラ 著

結論:抑圧の根源

日系カナダ人(以下、日系人)への虐待は第二次世界大戦と共に始まったものではない。日系人のブリティッシュ・コロンビア州(以下、BC州)からの排除、拘留、財産没収、分散、日本への追放計画は、カナダ人が持つ「アジア系カナダ人はカナダの二級市民である」という通念に基づく長年の差別の帰結であった。アジア系カナダ人は政治的な権利を剥奪され、政治的に骨抜きにされた人達であり、BC州の政治家が、自分たちの州で起きる問題の責任を取らせるために格好なスケープゴートであった。第二次世界大戦は抑圧の種に花を咲かせる絶好の機会を与えたに過ぎなかったのである。

実際、抑圧の種が花開くには12週で十分であった。BC州の政治家は、日本軍の真珠湾攻撃でBC州住民の間で不安が増大すると、アジア系カナダ人に不寛容な人達と、これを自分たちへの政治的支持拡大に利用しようと考えた政治家は、今まで日系人に対して言われてきたありとあらゆる人種差別的な非難を総動員した。その中でも特に、日本はBC州の日系人の支援を得てBC州を侵略しようとしている、という非難を強調した。ここで注目すべきことは、このように日系人を非難するカナダ人は、日系人の大部分が居住するBC州大陸側〈バンクーバー島のような島嶼ではなく〉には住んでいなかったことである。また彼らは非難の根拠をなんら示すこともなかった。ただし、これらの人達はBC州協同連邦党(CCF)以外の政治家の支持を受けていた。BC州の政治家は、声高に日系人を非難する人々の偏見が、BC州住民全員の意見だと考えた。そして直ちに日系人の太平洋岸地域からの排除を要求した。日本との戦争はBC州から日本の「経済的脅威」を永久に一掃する絶好の機会を与えたのである。

しかしBC州の政治家は、カナダ軍高官、カナダ連邦騎馬警察(RCMP)、連邦政府高官の反対にあった。RCMPは、日系人社会は日系人のリーダーによってコントロールされているので、破壊工作などありえないと確信していた。オタワのカナダ軍関係者も、長年の経験から日本軍がカナダの太平洋沿岸を侵略することは不可能だ、と確信していた。

オタワの連邦政府では、アジア系カナダ人は長い間カナダの二級市民と見られており、したがって連邦政治家にとって、政治的に全く関心を示す必要のない二次的な存在であった。当時の自由党政府の政治家は、白人カナダ人から嫌悪されているアジア系カナダ人を、野党の保守党の反対を押し切ってまで擁護するのは、自分たちの役目ではないと考えた。アジア系カナダ人はBC州自由党にとってだけの政治的な頭痛の種に過ぎないので、BC州選出のただ1人の内閣閣僚で、アジア系カナダ人問題の「専門家」の狂信的アジア人排斥主義者イアン・マッケンジーに任せておけばよいと考えた。

オタワの自由党政府内閣は、進行中の第二次世界大戦の問題に没頭していて、カナダ軍部、連邦警察、連邦政府の日系人問題の専門家の忠告に逆らって、日系人に対してあまりにも単純な、政治的に安全な解決法を選んだ。徴兵制度導入の危機を避けたい自由党政府は、日本軍によるカナダ太平洋岸侵略の危惧は事実無根であるというカナダ軍の意見を認めたくなかった。そして内閣は、BC州住民のヒステリー状態を鎮めるには、日系人を太平洋沿岸地域から排除するしかない、という閣僚内の日系人問題の専門家(イアン・マッケンジー)の意見を受け入れ、潔白な、しかし嫌われ者の日系人の排除を決めた。そして同じころ、米国大統領が日系アメリカ人を太平洋沿岸地域から排除するという政策を取ったことで、カナダ連邦政府が20,881人の日系人男女と子供を排除することは易しく妥当なものになった。

「国家の安全」のためというのが、BC州からの日系人排除を正当化する連邦政府の理由であった。しかしこのために、日系人はカナダ国家の裏切り者というレッテルを貼られ、他のカナダ人に自分たちの汚名を晴らし、不正を正すための支援を頼むことができなくなり、孤立無援になってしまった。日系人は、カナダ軍部が連邦政府の日系人政策に反対していたということを知る由もなく、むしろ自分たちが抵抗すれば軍が介入してくるのではないかと恐れた。

排除を止める手立てがない日系人は、自分たちの現在の苦境を少しでも和らげることに専心した。ある者は政府に協力して、政府の社会サービスを仲間の日系人に普及する支援をした。またある者は家族が一緒にいられるようにと、アルバータ州とマニトバ州の砂糖大根農家に労働者として行くことを志願した。また家族、友人と共にBC州内陸部の自活キャンプに、自分たちで費用を負担して移動した人達もいた。家族から引き離されることに抗議して道路建設キャンプに行けという命令を拒絶した人たちもおり、そのほとんどは既婚の二世と帰化二世だった。この抗議運動をした者の中には親日派もいたために、その抗議運動を損なう面もあったが、後に彼らの不服従運動のおかげで、日系人男子既婚者が家族と一緒に住めるようになった。

BC州内陸部の収容所や、アルバータ州とマニトバ州の砂糖大根農家で、日系人は当面の問題を解決するために皆で一緒に努力した。粗末な住居、不十分な砂糖大根農家との契約と救済手当、日系人の境遇に同情しない他の農業労働者や農場主との軋轢、子供の教育機会の欠如などの問題があった。日系人は自分たちの組織を作った。これは戦前の地域社会のつながりがそのまま残っていたから容易であった。日系人が強制移動させられた時に、同じ組織やコミュニティーの人達はグループで移動したので、社会的つながりが移動先でも残った。オンタリオ州では成人になっていた二世たちが中心になり、日系人に同情的な白人も組織に入れて抗議活動のための基盤を作っていった。

20,881人の日系人を太平洋沿岸地域から排除した連邦政府は、日系人を排除したために生じた地域の経済的損失を補い、12,000人の日系人を収容所に拘留しておくための費用を捻出しなければならなかった。内閣はフレーザー河流域の日系人農家の土地を、カナダ軍復員兵に売り渡すことを思いついた。連邦政府は日系人農家が自主的に農場を売却することを禁止し、排除された日系人の資産を没収し、日系人農家769の農場を復員兵へ売却するために保留した。日系人は資産の強制売却の収入から、売却にともなう手数料を払い、今までに受け取った社会福祉支援金を返済した。そして残りを収容所生活のための日常品の購入にあてた。

日系人の資産の剥奪は政治的な動機によるものであった。資産を没収することで、日系人が再びBC州に戻ることを抑制し、他の州への分散を加速した。BC州の自由党の政治家たちは、このようにしてBC州から日系人を一掃すれば自分たちの功績になると考えた。またフレイザー河流域の日系人農家の土地を買った復員兵からは、次の選挙で自由党への投票も期待できた。その上、日系人に資産の強制売却から得た収入を収容所生活の費用として使わせれば、日系人の拘留に必要な費用を日系人が自ら負担することになり、連邦政府の支出を軽減出来るという利点もあった。

日系人のロッキー山脈以東への自主的な再定住が遅々として進捗しないので、連邦政府は日本への追放政策を実行した。1945年4月と5月、連邦政府は収容所の日系人に、直ちにカナダ東部のいつまでいられるか分からない土地に移住するか、それとも近い将来に日本へ送還されるか、のどちらか一つを選択することを強制した。追放までの仕事を確保したい、東部での不安定な定住は望まない、敵対的な白人からの逃避したい、絶望、混乱、無知など、様々の理由で6,884名の16歳以上の日系人が、日本への送還申請書に署名した。これらの人達の家族3,500名を合わせると、日本送還に該当する人は実にカナダの日系人マイノリティの43パーセントになった。

1945年8月の日本の降伏とともに、連邦政府は日本への送還申請書の署名を拘束力のあるものにしようとした。1945年11月、自由党内閣はカナダ市民の誰でも国外追放出来る権限を、カナダ連邦議会に求めたが拒否された。それから6週間後、ちょうど 戦時措置法 があと2週間で失効するという時に、内閣は 戦時措置法の下で内閣令を発令し、10,000名近くの日系人に日本への追放を命令した。

この最もあからさまな 戦時措置法 の乱用は、誰にも気づかれず反対もされずに実行されたわけではなかった。それまでカナダ市民は、日系人の太平洋沿岸地域からの排除はカナダの安全のためだ、という連邦政府の説明を信じていた。そのうえBC州以外の大部分のカナダ人は、連邦政府が日系人の資産を勝手に売却したことを知らなかった。しかしこのことを知り、また10,000名近くの日系人が日本追放に直面していると知ると、カナダ市民は政府に追放停止を要請した。

日本追放の合法性がカナダの裁判所で争われている最中に、日系人は新たな種類の追放に見舞われた。カナダ東部への再定住である。日系人で失業中の人、およびBC州以外に移動可能な人は、BC州で仕事を得る権利を奪われた。この人達には二つに一つの選択しかなかった。戦争で飢餓状態の日本に行くか、またはカナダ東部への再定住かであった。4,000名が日本を選び、4,700名がアルバータ州以東の州へ再定住した。1947年1月に連邦政府が漸く日本追放の脅迫を撤回した時には、BC州にはわずかに6,776名の日系人しか残っていなかった。

日系人に生活を再建する時が来た。日系人は1949年に完全な市民権を獲得した。そして、太平洋沿岸地域から追放されてから7年目に、やっと太平洋沿岸地域に戻ることになった。実はこの日系人に対する最後の差別の撤廃は、BC州の連邦議員2名の補欠選挙で自由党候補者を有利にするために1年延長されていたのであった。結局、補欠選挙で自由党候補は落選したのみならず、BC州の新聞と住民は、BC州政府が1948年に人種差別的雇用政策を導入しようとした際、これを激しく非難した。多分、BC州の住民は政治家が思っていたほどの人種差別主義者だったことはなかったのであろう。

日系人にとって、完全な市民権の獲得は、正義のための戦いの終わりを意味するものではなかった。一世の築き上げた資産はすべて内閣命により競売で売り払われてしまった。資産の没収、売却による日系人の被った直接の経済的損害は甚大であった。しかし、社会的損失と苦痛、悲哀、恥辱、精神的な苦悶などの方がはるかに大きかった。日系人にとってこれらの損害の補償を得ることだけが唯一の正義であった。

連邦政府は日系人の損害を、経済的な損害であろうと社会的な損害であろうと、認めたくなかった。これを認めることは、連邦政府の政策が誤っていたと認めることだったからである。しかし、ある種の損害は認めざるをえなかった。そして損害は認めるが損害額を最小限度に抑えることにした。最小限度の賠償は、連邦政府の政策に最小限度の不正しかしなかった、ということを意味した。連邦政府は「日系人の損害賠償に関する王立委員会」(バード委員会)を設置したが、賠償は、敵性外国人資産管理局(CPE)が日系人の資産を「適正な市場価格」以下で売り払った時と、日系人の資産が盗まれた時に制限した。連邦政府はバード委員会の目的を、CPEの行政上の落ち度を明らかにすることだけに限定し、強制没収・売却政策そのものが世論の批判に晒されるのを避けた。連邦政府はこのような策略を用いて、日系人の賠償問題を120万ドルの少額な賠償にとどめ、日系人賠償問題を効果的に封殺してしまった。


第二次世界大戦中の日系人虐待の歴史には、さまざまな悪人とヒーローが登場する。際立った悪人はイアン・マッケンジーとBC州の政治家ハルフォード・ウィルソン、ハンフリー・ミッチェルとその仲間たちである。これらの悪人は日系人虐待に成功したが、別に特に賢かったわけでも、政治的影響力が強かったわけでもなかった。日本人虐待の最後の段階にいたるまで、連邦政府内閣に反対されなかったからである。連邦政府内閣こそ日系人政策を議論し最終的に決定した機関である。イアン・マッケンジー達は単にアイデアを出しただけである。イアン・マッケンジーについて言えば、政策を決定する様々な過程でアイデアを熱心に売り込んだ。しかし、日系人虐待政策の最終責任は連邦政府内閣にある。もし内閣全体としての暗黙の同意がなければ、BC州の人種差別主義者の提案は法律にはならず、日系人の虐待政策が実施されることもなかったのである。

またヒーローも登場した。ヒーローは日系人虐待劇のさまざまな場面に登場したが、大体は負け戦さを強いられた。日系人虐待政策反対の努力が完全に無に帰する危機もあった。日系人擁護の立場が広く知られていたヒーローには、ヒュー・キンリーサイド、ヘンリー・アンガス、フレデリック・J・ミードがいた。彼らは上司が聞きたくない日系人擁護を、はばかることなく唱えた。キンリーサイドはこのために、自分の仕事を失いそうになった。日系人を支援した弁護士アンドリュー・ブルウィンとロバート・J・マックマスターは、これらのヒーローグループとは別のところで、長い間日系人擁護の戦いを続けた。このために、マックマスターは個人的に経済的損失を被った。また行政レベルで日系人を擁護した人達もいた。エイミー・レイ、ウォルター・ハートレー、ヘンリー・ローヒードは、強制移動と強制収容中の日系人の苦境をすこしでも和らげようとした。女性宣教師会(Women’s Missionary Society)、社会福祉関係機関、それに個人も、収容所の日系人を支援し、カナダ東部への移動を支援した。しかし日系人を最も助けたのは、名もない何百人というカナダ人男女で、1946年に日系人の虐待政策を止めるようにと連邦政府に抗議した人達であった。

だが、この虐待劇の一番のヒーローは日系人自身であった。カナダ国家から裏切り者の汚名を着せられ、自分たちではコントロールできないさまざまな虐待を受け、仲間から引き離され、混乱し、怯えながらも、最終的には勝利を勝ち取った人達であった。勝利の代償は大きかった。一世の知るかつての日系人社会は消滅した。日系人が40年の年月をかけて築いた社会関係と安定した経済基盤は消え去った。しかし諦めなかった。日系人は一群の竹に比べられる。嵐の中ではしなやかに風を受け流し、嵐がおさまればまたまっすぐに立ち上がる。嵐で折れた竹に代わって新しい竹が芽を出して成長した。竹のように日系人も虐待の痛手をやり過ごした。自分の家から追放され、資産を没収売却され、カナダ各地へ分散させられ、カナダ人から拒否され、中傷され、虐待されたが、この一連の嵐が過ぎ去るとまた立ち上がり、ヨーロッパでホロコーストの虐待をうけた人々が逆境から立ち上がったように、また生活の再建を始めた。


連邦政府の日系人虐待政策を擁護する人は、日系人が1930年代と比べて1960年代にどれだけ経済的に向上したかを指摘して、「戦時中の経験は日系人にとって、不幸に見えても結局は幸福だった。すなわち、『禍を転じて福となす(blessing in disguise)』だった」と言う。そして、戦時中に日系人が経験した強制排除、資産の没収、強制分散が、戦後の経済的な地位向上の要因であったと言う。しかし、この議論は肝心なことを見落としている。戦前の日系人と1960年代の日系人は、二つの異なる集団であった。戦前の日系人は、満足な教育を受けられなかった一世が主で、英語が不自由で、人種差別を受け、経済的には1930年代の世界恐慌の影響を受けた人々であった。これに反して1960年代の日系人は、十分な教育を受け、英語を話し、人種差別も大きく減少した社会に住む二世であった。一世と二世の経済的な成功を比べることは、リンゴとオレンジを比べるに等しい。

日系カナダ人は、戦争のおかげでユダヤ系や中国系カナダ人に次いで高学歴で裕福なマイノリティになったわけではない。日系人が成功した理由は、ユダヤ系カナダ人と中国系カナダ人が成功したのと同じ理由による。日系人が戦前と戦時中の経済的な損害を克服したのは、日系人の文化的、道徳的な強さによるものであった。二世はカナダで受けた教育を存分に活かし、戦後のカナダの経済発展の波に乗って、日本文化に根付く勤勉と倹約を武器に、努力を重ねて経済的に成功したのである。そして戦後に生活の再建に努力したのは日系人だけではない。1950年代、戦火に追われてヨーロッパからカナダに移民してきた人たちや、ハンガリー動乱の被害者たちも同様な努力をした。中国系カナダ人が戦後、日系人より経済的に成功していることを考えると、戦時中に一世が財産のすべてを失ったことは、日系人の戦後の経済的な成功に負の要因として働いたのである。

日系人は表面的には生活を再建したように見える。しかし日系人は今でも戦時中の経験の傷を抱えながら生きている。一世の貧困、二世の社会的な沈黙、そして三世脚注の日本文化に対する無知はすべて戦時中の経験の傷跡である。一世は資産をすべて失って貧乏になった。二世は自分たちは「善良なカナダ人」であり、学校教育でカナダ政府は英国風の公正を守護すると習ったので、連邦政府が不正を行うことはないと信じている。それゆえ社会問題に声をあげて抗議することはない。二世はカナダ政府に裏切られたと思いたくない。連邦政府はきっと確かな理由があってこのような政策をとったに違いないと思いたいのである。

二世がこのように沈黙しているのには、1950年代に白人カナダ人に言われたことに原因がある。日系人が追放、資産の没収、強制収容された理由は、日本文化の伝統を放棄し、カナダ社会の主流であるアングロ系カナダ文化を身に着けて、カナダ社会に同化することが出来なかったからであると言われた。日系人はカナダ太平洋岸の数カ所に固まって住み、文化的に異なった目立った社会を構成していたので、カナダ太平洋岸に住むカナダ人の人種差別に基づく恐怖心の対象になった2。1950年代に二世は、カナダ太平洋岸地域のカナダ人は自分達を虐待する悪人で、連邦政府はただ悪人から自分たちを保護しようと努力しただけだと思った。

1950年代の二世は自分達の運命を説明する理由を他に見つけることが出来なかった。戦後の理想主義とマッカーシズムの影響のもとでは、連邦政府の政策を詳細に検証しようという人はほとんどいなかった。このような状況下で、二世が自分たちに起こったことは、自分たちに責任があると思ったとしても驚くに当たらない。性的暴行の被害者が、あなたがそこにいたのが悪かったと言われるのと同様である。二世は自分達の経験に困惑し、恥ずかしく思った。二世は虐待のトラウマから逃れるために、カナダ中流階級の文化と生活の中に身を置いた。公衆の眼に晒されることを避け、日系人とは社交的な付き合いだけにとどめ、表面的には社会的に成功しているように見せることに努力した。郊外の家に住み、中間管理職に就くというのがその典型であった。二世たちの組織は戦後も存続したが、活動は目立たず、社会問題に対しても、誰でも賛成するような人権問題や移民条件の緩和などについて、他の民族集団や宗教集団と一緒に発言するだけであった3。1950年代と1960年代前半、二世の関心は自分達のカナダに対する忠誠心を疑われるようなことを払拭し、二度と再びカナダ人の不安感の犠牲にならないようにすることであった。

二世の多くが「禍を転じて福となす」という諺を疑うことなく信じたが、これも驚くにはあたらない4。二世は自分たちが両親より経済的、社会的に成功していることを知っていた。そして自分たちと両親が直面した1930年代、1940年代に、両親や自分たちの活動を妨害していたあからさまな人種差別が、表面的にはなくなったことも知っていた。そしてBC州で受けた人種差別は、自分たちがカナダ人と異なる文化を維持した異質な集団を形成していたからだと告げられた。二世の成功の要因は、この文化的に異質な日系人社会が戦時中に破壊されたためだと結論づけた。しかし、「禍を転じて福となす」という言い訳を受け入れた二世は、自分たちの戦後の成功が、日本文化の伝統を無視したからではなく、実は一世から受け継いだ日本文化に内在する価値観に根ざしていることを見過ごしていた。「遠慮」、「我慢」、「仕方がない」という価値観が、日系人二世に戦時中の過酷な環境の下でも、絶望して未来を諦めきってしまわずに、頭を下げていろいろな制約をやり過ごす知恵を授けた。二世は1950年代、絶望せずにじっと機会が来るのを待っていた。そして機会が訪れると、日本の伝統文化に根ざす勤勉と教育の重視を武器に、昇進と社会的地位を獲得していった。日系人二世を有能な中間管理職にしたのは、究極的には二世が受け継いでいた日本文化に他ならなかった5

「禍を転じて福となす」を受け入れた二世は、戦後の日系人に対する差別が減少したのは、二世の戦時中の経験によるものではないことも見落としていた。戦後、世界の自由主義国家では、伝統的な人種偏見や植民地主義は、少なくとも理論上は否定された。ナチスのユダヤ人収容所の歴史や、植民地の独立があって「白人至上主義」の欠陥が露呈された。カナダの声高な少数派によるあからさまな人種差別は、社会的、そして何よりも重要なことは政治的にカナダでは受け入れられないものになった。

戦時中の経験を忘れるために、二世は三世の教育で日本的なものに重きを置く必要を感じなかった。そのため三世は自分たちの伝統文化を知らず、また気にもしないで育った。自分たちの両親や祖父母の戦時中、戦後の体験についても無知であった。二世も自分たちの体験を三世に伝える必要を感じなかった。二世は、三世が中流市民の強みを活用して、カナダ社会で成功することだけを願った。自分たちの体験を三世に伝えることは、かえって三世が自分たちは白人カナダ人と変わりないと思っている仮説を覆してしまい、三世のためにならないと考えた6。その上、三世に自分たちの戦時中の体験を伝えるには、自分自身でどうしてそのようなことが起きたのかを理解しなければならなかった。しかしそれは不可能であった。どうして日系人が差別されたかを理解するために、1950年代に納得した解釈に疑問を挟むことは、二世の生活基盤を支える信念を疑うことになった。「禍を転じて福となす」という弁明を拒否することは、自分たちの青春は、BC州の収容所の中で無駄に費やされたということを認め、自分たちの受け継いだ日本文化も、一世の持ち物と同様に競売で売られてしまったことを認めることになった。何にもまして、これはカナダ政府に裏切られたことを認めることになった。二世はこれをカナダ人として認めたくなかった。


暴行や性的暴行の被害者が表面的には被害から回復する能力を持っているように見えたとしても、だから暴行や性的暴行が無かったということにはならない。また犯罪の傷跡に絆創膏を貼っても、犯罪者を無罪にするものではない。犯罪者は反省もなく、更生したわけでもなく、また将来同じ犯罪を犯す可能性を持ったままで放置されている。日系人の虐待からこの本が出版された1981年までに、すでに40年近く経ったが、将来、同じようなこはもう起こらないという保証はない。いまだにイアン・マッケンジーのような恥知らずな自分の利益だけを追求する政治家が、「真に緊急な、または緊急に見える事態」に便乗して、政治的な目的を遂げることを阻止する方法はない。

この本が出版された1981年当時、 戦時措置法 (War Measures Act) は有効であった。この戦時措置法こそ、日系人を根こそぎカナダ太平洋沿岸地域から排除し、拘留し、資産を没収し、カナダ全国に分散し、大勢を日本に国外追放した元凶である。1981年現在も連邦政府内閣は、誰にも問責されること無く、国家の安全を守るという名目のもとに簡単に個人やグループの人権を拒否することが可能なのである。

現在までに、 戦時措置法の権限を抑制しようという試みは一回しかなかった。1960年に人権憲章が討議された時、当時の野党であった自由党の党首レスター・ピアソンが、人権憲章を 戦時措置法の上に置くことで人権憲章に実効力を持たせるように強く勧告した。ピアソンは特に、 戦時措置法 の下で連邦政府閣僚がカナダ人を拘留する時には、この権限を最高裁判所で検証することを要求した。しかしピアソンの要求は拒否された。与党保守党党首ジョン・G・ディーフェンベーカーは、国家の安全が脅かされるときには個人の人権は二次的な問題であるとして、ピアソンの人権憲章の修正案を、同僚の保守党政治家と一緒に拒否した。ディーフェンベーカーは、かつて日系人の国外追放を自由党が決めた時に、保守党の党首としてこれに反対した政治家であった。7

第二次世界大戦後、 戦時措置法 は1970年の「10月危機」の時に一度だけ行使された。謀反の恐れがあるいう理由で、ピエール・トルドー政府は 戦時措置法 を発動した。カナダ人の87パーセントが賛成したとされる。8 しかし謀反の恐れがあるという証明はなかった。1942年と同様に、日系人も含むカナダ人一般が連邦政府の言うことは真実であり、フランス系カナダ人が革命を企んでいるので 戦時措置法 の下に拘束されと鵜呑みにした。現在でも多くの人が連邦政府の主張は本当だったと思っている。しかし、拘束されたフランス系カナダ人で謀反の罪で有罪になったものは一人もいなかった。大部分のカナダ人は自分には何ら影響のないことなので、連邦政府が「10月危機」の誘拐事件に対処するのに、通常の刑法を用いず、 戦時措置法 発動の大鉈を振るうことを傍観した。

1981年現在、イアン・マッケンジーのような政治家が将来現れて、連邦政府の政策に影響力を与えることはない、という保証はない。このような人間の政治力を制限することは可能である。しかし、カナダ人はこのような権力の乱用から自分を保護する方法を持っていない。カナダ人の人権は、連邦議会の気まぐれで、一時的に剥奪されてしまうかもしれない。民主主義の伝統を標榜してきたカナダで、日系人が被ったような虐待のすべてが、1981年のカナダで法律の下で今でも可能なことは粛然たる事実である。

脚注 三世は二世の子供たちである。