人種主義の政治 アン・ゴマー・スナハラ 著

第3章排除

全ての日系カナダ人(以下、日系人)を、太平洋沿岸地域から排除するという1942年2月26日付けの公示〈内閣令第1486号〉は日系人を驚愕させた。日系人の中で一番悲観的な人でさえ、この様な極端な政策を連邦政府が実施するとは思っていなかった。1942年2月の時点で、二世の成人男性と一世でカナダ国籍を持つ人は、民間サービス部隊に入れられて、危険な公共工事に従事させられるとの噂が広がっていた1。人種差別過激派は日系人女性、子供、高齢者も追放しろと要求していたが、日系人は誰も真剣に受け取っていなかった。戦争が始まって以来、仕事を失い、男性日本国籍者は強制移動させられるという不安でいっぱいだった日系人は、連邦政府が自分たちをブリティッシュ・コロンビア州(以下、BC州)の人種差別主義者の馬鹿げた要求から守ってくれる、と信じていた。日系人は、白人カナダ人人種差別主義者との緊張を緩和しようとした。日系人だからいう理由で仕事を失っても、仲間内で助け合い、また連邦政府の戦費を補助するために戦勝公債を30万ドルも購入した2。にもかかわらず、自分たちの政府が、日系人はカナダに対する裏切り者だ、と宣告するに等しい政策を発表したので大変な衝撃を受けた。

ショックはすぐにやり場のない怒りに変わった。理想主義は冷笑主義に取って代わられた。キング首相が日系人の太平洋沿岸からの排除命令を発令してから5日後の1942年3月2日に、『ニュー・カナディアン』紙の記者ムリエル・キタガワは、弟のウェスリー・フジワラに次のような手紙を書いて自分の気持ちをあらわにした。

ウェスリー、ここで起こっていることは言葉に出来ません。

私達は家から強制的に追い出されます。どこへ行くのかわかりません。二世は憤慨しています。あまりにも憤慨しているので、自分たちのためにならないばかりか、カナダにとっても良くないほどです。立ち上がって戦うべきだとというのが皆の気持ちなので、トム・ショーヤマのような冷静な人でも、興奮した人たちをなだめられません。ここへ来てみんなの顔を見てください。やつれて生気が無く、不安でいっぱいです。もし夫のエディーが銀行をやめさせられたら、私と子どもたちはどうやって生きていけばよいのでしょう。食べ物、衣服、家賃、税金、諸々の維持費、保険、非常時に必要なものに使える現金は僅か39ドルです。〔中略〕そしてこの39ドルは、エディーがイアン・マッケンジーの提唱している民間サービス部隊に入らなければもらえません。「自主的に参加すること」を強制されているのです。政府の責任逃れの言い訳です。イアン・マッケンジーが「自主的に参加しない時は」と言っているのはこんなことでしょう。〔中略〕民主主義がどんなに良いかという話をいとも簡単に信じた二世が、どんなに深く傷ついているか、想像できますか?

白人カナダ人は自由のために戦争をしているはずなのに、自分たちでその自由を壊すような行為を日系人に行って、恥ずかしいとは思わないのでしょうか? 最近、一人の白人が私に近づいてきて帽子をとり、まるで気が狂ったように身を捩りながら、「本当にごめんなさい」と言葉に詰まりながら私に謝りました。このように親切な白人も、ハルフォード・ウィルソンとその仲間に裏切られているのです。ウィルソンは地獄に落ちるべきです。白人の中には私達を虐待はしないが、日系人のことを知らず、気にも掛けない人たちがいます。この人達は、日系人はカナダで身分不相応な好待遇を受けてきたと思っています。こんな人達がいると思うと、怒りで息が詰まりそうになります。3

政府の仕打ちに怒り、失望し、ムリエル・キナガワは、夫が強制的に家族から引き離されることに怯えた。4人の子供の世話をどうしたらよいか心配した。キタガワの気持ちは当時の一世と二世の気持ちを代弁している。キング首相の公示は、家族から引き離されないような手段を考えていた日本国籍者の希望を打ち砕いた。ヨーロッパのユダヤ人は、賄賂や少しの妥協で、ナチドイツの反ユダヤ人政策を緩和させられるのではないかと思った。同様に、日系人も何百人かの日本国籍者、できれば独身者が防衛地域から追放されるだけで、BC州の排日政治家を満足させ、家族から引き離されることから免れるのでないかと考えた。そして、多くの日本国籍者は排日の嵐が吹き荒れていた1942年2月の時点でも、サービスを提供したりビジネスの関係を利用すれば、個人的に防衛地域から追放されずに済むのではないか、というわずかな希望にすがっていた。4

日系人総移動令が公示され、日系人にとってカナダ国籍の有無は関係なくなった。日系人は一世でも二世でも、日本国籍者でもカナダ市民でも、すべて敵性外国人になってしまった。そしてドイツ系敵性外国人、イタリア系敵性外国人と同様の規則に従うことになった。連邦警察に登録し、2週間に一度出頭して報告をすることを義務付けられた。自宅から12マイル以上の外出も禁じられた。また連邦警察の許可なしに引っ越すことも禁じられた。しかもドイツ系カナダ人やイタリア系カナダ人と異なり、全ての日系人は、日暮れから翌朝まで外出禁止になり、自宅、農場、商店を放置したまま、行き先も知らされないまま、移動させされることになった。


今度は連邦政府は直ぐに動いた。イアン・マッケンジーからの相次ぐ電報に押されて、連邦政府は20,000名余りの日系人を、一人残らず太平洋沿岸地域から追い払う権限を持った「BC州保安委員会(British Columbia Security Commission:BCSC)」を設立した。委員会の責任は、日系人を太平洋沿岸地域から排除する組織をつくって管理し、移動させた日系人に仕事と住居を用意し、社会福祉サービスを提供し、バンクーバーのヘイスティングス・パーク(現在はパシフィック・ナショナル展示場、Pacific National Exhibition grounds、と呼ばれている)の仮収容所を管理し、BC州内陸地域に日系人のための収容所を建設することであった。5 重要なことは、この委員会はこのような責任分野で連邦政府に助言はできたが、政策そのものは「日系人問題内閣委員会(Cabinet Committee on Japanese Questions)」と連邦政府労働省と法務省しか決定できなかった。

BCSCは3人で管理されていた。実業家のオースティン・C・テイラー、連邦警察副長官のフレデリック・J・ミード、BC州警察副長官のジョン・シラスである。52歳のテイラーが委員長だった。実業家としての事務能力とBC州内陸部に知り合いが多いという理由で委員長になった。彼はこれらの人たちと、自分の石油、天然ガス、鉱山関係の事業で知り合うようになった。裕福な実業家であったので、1940年の戦勝公債の販売に協力し、今回もBCSCの仕事を手伝う余裕があった。

テイラーはぶっきらぼうで超然とした態度の人間で、自由党支持者だった。日系人はテイラーの過去の経歴から排日主義者だと予想した。テイラーは「市民防衛委員会(the Citizens' Defence Committee)」という、1942年2月に連邦政府に日系人の排除を要求した委員会に入っていた。この委員会はBC州の有力者を網羅しているといっていたが実は急ごしらえの委員会で、委員には過激な排日主義者から、日系人を白人の虐待から守るためには太平洋沿岸地域から移動したほうがよいと言う人まで様々な人たちがいた。テイラーは後者に属していた。6 テイラーは日系人に対して父性温情主義的な態度を取っていたが、日系人を高く評価していた。テイラーは部下への1942年4月の命令書の中で、次のように述べている。「日系人は品行方正で、信頼できる、勤勉な人達である。親切に対応すれば一番良い結果を生むだろう7 」テイラーは日系人の排除を、できる限り思いやりを持って遂行することを望んだ。日系人はBC州警察副長官のジョン・シラスも排日主義者だと推測した。BC州警察官に人種差別的な扱いを受けていた日系人が、シラスも人種差別主義者であろうと推測したのは当然であった。またシラスの上官のBC州警察長官のT.S.W. パーソンズが日系人に対して行ったことも、シラスの印象を悪くした。パーソンズは1月、BC州代表団の一員としてオタワの会議に行き、日系人は日本のスパイで妨害工作者である、というBC州政治家の主張に加担した。1942年2月にパーソンは連邦政府法務大臣のルイ・サンローランに手紙を書き「日系人はカナダ生まれであれ、カナダ国籍を獲得した移民であれ、信用することは出来ない。日本軍の侵略や妨害工作があるときは注意すべき人達である8 」と述べている。しかし、残念ながらシラスは自分の見解を述べた公式文書を残していない。

日系人にとって、連邦警察副長官のミードだけが信用するに値する公平な人間のように思えた。但し、ミードも移民に対しては厳しく接する警察組織の一員であったので、不信感は完全には拭えなかった。当時の日系人には分からないことであったが、ミードとその上司はそもそも日系人の排除に反対であり、BCSC委員長として連邦政府の日系人排除政策を杓子定規に解釈して遂行することを主張し、政策の背後にある日系人排斥主義は受け入れなかった。ミードはこのような術策を用い、イアン・マッケンジーをいらいらさせていた。マッケンジーは日系人を軍事的に重要な施設の周辺から排除しようとしたが、ミードは連邦政府国防大臣からの直接の命令が無ければ遂行することは出来ないと拒否した。国防大臣のJ・L・ラルストンは忙しくて、日系人排除の決裁がなかなか出来なかった。ミードはこのような術策を使って日系人の防衛地域からの排除を、内閣令が発令されてもはや不可避になるまで遅らせた。」9

BCSCの三人の委員を補佐するために諮問委員会が設けられた。諮問委員会は自由党員、マッケンジーと意見を同じくする保守党員、ただ印だけの1名の協同連邦(CCF)党員で構成された。無論、イアン・マッケンジーが連邦政府の日系人政策を円滑に遂行出来るように人選した。諮問委員会委員の人選とBCSCの設立は、イアン・マッケンジーにとって、自由党の恩恵をばらまく機会であった。諮問委員会の大部分の委員、全ての事務員と契約弁護士も自由党員であった。事務員に付いては、自由党員以外の締め出しはタイピストにまで及んだ。家族が保守党に投票したという理由だけで解雇されて悔しがる事務員までいた10。BCSCの諮問委員会に保守党員を数名加えたのは、当時のBC州が自由党・保守党の連立政権であることを考慮してのことだった。マッケンジーは日系人問題を審議した連邦政府の「アジア系カナダ人に関する常任委員会」にBC州代表団として参加したBC州選出の保守党議員が、連邦政府の日系人排除政策は自分たちの手柄だと吹聴するのが我慢できなかった。そのため、この諮問委員会に保守党党員を参加させるときには、保守党員が諮問委員会で活躍しないように気を配った。諮問委員会の事務局長にCCFのグラント・マクニールが任命されることをマッケンジーは嫌った。それでも任命したのは、マッケンジーが連邦政府CCFが日本人排除に反対なのを知っていて、わざわざBC州のCCF党員を事務局長に任命して嫌がらせをしたのかもしれない11

CCFのマクニールが諮問委員会に参加していたことと、その前にはBC州CCF党首のハロルド・ウィルソンと共に市民防衛委員会に参加していたことは、1942年春の時点でCCFの内部が分裂していたことを示していた。当時、CCFの全国組織書記だったデービッド・ルイスは、次のようにBC州のCCF党員の行動を回想している。

BC州CCFの党員は、日本軍の攻撃よりも「日系人をBC州沿岸に置いておくことはできない。白人のデモや日系人との争いが始まる」と議論した。〔中略〕そして日系人の排除は急に家から追い出すのではなく、穏やかに行うのが良いと思った。〔中略〕実際は日系人は乱暴に排除されることになったが、今から思えば社会主義者といえども人間であり、他の人と同様に、当時の政治環境の影響から逃れられなかったのだろう。

CCF内で日系人に対する見方は三つに分かれていた。先ず、カナダ市民である日系人が不正に人権を侵害されていることに抗議するグループがあった。東バンクーバー選出のCCF連邦議員アンガス・マッキネスはこのグループに属していた。BC州のCCFの大部分は、このような見方をしていた。次に、日系人は危険だとヒステリックに騒ぐグループがあった。この人たちは不思議とマルクス主義者が多かった。また、白人と日系人の間で紛争がおきるのではないかと心配するグループもあった。12

ルイスによればマクニールは三番目の見方をする党員であった。マクニールは平和主義者で、日系人が正当に扱われる事を確認するために、諮問委員会に参加した。

1942年3月4日にはBCSCは活動を始めていた。3月9日までに全ての成人男子日本国籍者は連邦警察に出頭して登録を行い、道路建設キャンプに移動する日を確認するようにと命令された。3月16日までに太平洋沿岸地域の漁村とパルプ工場町から、怒りと不安でショック状態の日系人の第一陣が、バンクーバーのヘイスティングス・パークの家畜展示場に到着した。


ヘイスティングス・パークの家畜展示用の柵の中に、家畜の代わりに日系人が入った。ヘイスティングス・パークは3月初めに持ち主から没収されて、わずか7日間で、家畜から人間のための施設に改造された粗末な施設であった。以前の女性用建物と家畜小屋に、何列も二段ベッドが並べられた。ベッドには藁のマットレス、三枚の軍隊用毛布が置かれ、かたい枕がついていた。一つの二段ベッドと次の二段ベッドの間は、僅か3フィートしか離れていなかった。コンクリートの床は家畜の臭いが染み付いていた。トイレには細長い桶のような容器が置かれ、隣とのしきりはなかった。48のシャワーが急遽取り付けられた。そのうちの10は男子と13才以上の男の子供を収容した建物に、残りは女子と子供が収容された家畜小屋に取り付けられた。食事の施設も粗末だった。軍隊用の野外調理施設が、以前の家禽用の建物に中に作られた。強壮な男子兵士用の施設と食事だったので、乳児と高齢者の食事の用意が出来なかった。特に高齢の一世は、カナダ風の食事が口に合わなかった。しかし清潔好きの日系人にとって最もおぞましかったことは、家畜の臭いが建物に充満し、建物の周りには蛆虫であふれた汚ない泥が放置されていたことであった。13

ヘイスティングス・パークの仮収容所の改良はすぐに始まった。バンクーバー市社会サービス課長のアミー・リーがBCSCに派遣されて、ヘイスティングス・パークの仮収容所と他の収容所での社会サービスを管理することになった。リーは収容所の日系人ボランティアと、戦時雇用斡旋サービスから白人の職員を採用した。リーは採用した日系人の仕事ぶりに満足した。「私が採用した人達は二人の例外を除いて、みんな一生懸命働きました。14 」とリーは後に語っている。CCFのグラント・マクニール諮問委員会事務局長と同じように、リーも日系人の強制収容は、日系人自身の安全を守るために必要だと思っていた。リーは続けて次のように言っている。

日系人は自分の家から避難するべきです。今は非常事態です。これを忘れはいけません。正常ではありません。〔中略〕私達は日系人になんの恨みも持っていません。しかし日系人はヘイスティングス・パークに避難する必要がありました。〔中略〕だれも日系人を避難させることが良いとは思っていません。しかし私達はこんな状況に遭遇しているので、そうしました。良かったとおもいます。私達は一緒に働いている日系人と友達になりました。〔中略〕私達がどんな事をしてあげても、今は日系人にとってとても辛い時です。日本人がショックを受けているのを知っています。〔中略〕私達は日系人にできるだけの事をしていると思います。日系人の追放と財産の没収は連邦政府の決めたことです。BCSCは出来る範囲で、日系人におもいやりの心を持って、最良の仕事をしています。15

リーは日系人のヘイスティングス・パークでの生活を、できるだけ耐えられるものにしようと試みた。リーの指導の下、家を追われ、夫や兄弟から引き離されて困っている人達へのサービスが開始された。16 3月18日に、BCSC医療アドバイザーのリアル・ホッジンズ医師の下で働いていた公共衛生看護士トレナ・ハンターが、ヘイスティングス・パークに衛生関連施設の設立を始めた。最初に作ったのが洗濯場、乳幼児用のミルクを用意する台所、そして簡素な病院であった。病院は2つ作らなければならなくなった。最初にハンターは閉鎖になったバンクーバーのショーネシー病院の器具を使って、60床の病院を作った。しかし、この病床は完成するとすぐに、バンクーバーの結核専門病院の日系人患者で埋まってしまった。結核専門病院の院長が、白人患者を収容する病床を確保するために、真っ先に日系人患者をヘイスティングス・パークの埃っぽい仮設病院に移送したからである。その後ハンターは新たに180床の病院を作った。この病院は日系人職員で運営され、子供のための伝染病病棟、新生児と母親のための病棟、男子用、女子用の病棟を備えていた。17 一時は3,000人も収容したヘイスティングス・パークでこの病院は大切にされた。この病院の伝染病病棟と、カーテンで区切られた病室だけが、ヘイスティングス・パークでプライバシーを保てる場所だったからである。18

ヘイスティングス・パーク改良の大部分の仕事は、収容されていた日系人自身がおこなった。もうすぐ家族から引き離されることを知っていた成人男子は、進んで改良の仕事を受け持っ た。19 新しく到着した人達の荷物を運び、部屋を仕切り、新しい居住施設を作り、臨時の学校のための机を作り、リクリエーション活動を組織した。この間にも日系人が続々とヘイスティングス・パークに到着していた。日系人は、ヘイスティングス・パークで働く日系人とそれぞれの宿泊施設の代表からなる「ヘイスティングス・パーク日本人委員会」を設立して、ヘイスティングス・パーク所長のE・C・P・ソルト(RCMP副長官ミードの同僚だった連邦警察官OB)と交渉して、食事を改善し、トイレに仕切りを作り、13歳から18才までの男子のための宿舎を整備した。また、日系人作業員に非同情的な白人作業員の解雇を交渉して実現した。20

二世はカナダ社会で自分たちの学歴と能力に見合った仕事を得ることは出来なかったが、ヘイスティングス・パークではその能力が必要になり、急にいろいろな仕事を頼まれることになった。しかし時には、一世の両親とBCSCの間に挟まれて苦労した。両親は自分達の置かれた環境を苦々しく思っていたが、どうしていいのかわからず、その不満を二世の子どもたちにぶつけた。BCSCで仕事をしていた二世の女性は、保安委員会で働くことで両親と対立して、次のように嘆いている。「私の家族は私がBCSCで働くことは、私が政府のスパイ、犬になることだと思って動揺しています。もし私が社会サービスの仕事をすることが、政府に私を売ることになると思うなら、もう家族は私と関係ない人達です。私は社会サービスの仕事は、私が現在出来る大切な仕事だと思っています。」21

いくら一生懸命働いても、ヘイスティングス・パークの生活は、日系人に忘れることの出来ない深い精神的な痛手を残した。生活水準は今までの生活とまるで違っていた22。そしてヘイスティングス・パークの厳しい生活と今までの正常な生活を比べて、BC州の住民が日系人をいかに軽蔑していたかを思い知らされた。ヘイスティングス・パークは品位をおとしめる経験だった。いままでに築いた財産を、大人は一人150ポンド以内でスーツケースにまとめ、子供は一人75ポンド以内にまとめるという仕事で疲れ切ったまま列車でヘイスティングス・パークに到着すると、成人男子でまだ手続きの終わっていない人は、その場で家族から引き離され、上半身裸になって身体検査を受けた。道路建設に適した人を選出するためであった。そのうえ、資産を急いで売り払わなかった人は、家に残してきた財産を「敵性外国人財産管理局(Custodian of Enemy Property)」が管理して良いという文書に署名させられた。ヘイスティングス・パークで道路建設用に選別された成人男子と13才から18歳の男の子は一つの建物に隔離され、成人男子は道路建設キャンプに送られるまで監視された。そのうえ、家族のいる建物に入ることを禁止され た23。道路建設キャンプに行くときも、更に家族はばらばらにされた。カナダ国籍を持たない一世の父親はアルバータ州ジャスパー近くに送られ、成人した二世の息子はBC州のホープとプリンストンの間、またはオンタリオ州のシュライバーに送られた。この時、今まで一緒に住んでいた13才から18才の男子は、ヘイスティングス・パークの男子用宿舎に母親の監督無しで残された24。母親は以前の家畜用建物に収容されていた。成人男子は、BCSCの仕事をするためにヘイスティングス・パークに残った人以外は、家族を混乱の最中のヘイスティングス・パークに残し、再会出来る保証もなく、道路建設キャンプに送られることになった。

 ヘイスティングス・パークの生活は、女性にとってもっと辛かった。道路建設キャンプに送られた成人男子は、粗末だが健全な宿舎に住み、十分な食事をした。しかしヘイスティングス・パークの女性は、泣き叫ぶ子供、疲労困憊した大人、赤痢、神経が高ぶった緊張、周囲の眼、家畜の臭いに悩まされながら生活していた。建物の一部に木造の馬舎があり、ここは家族の入る場所が三方壁で囲まれていて、少しプライバシーが保てた。しかし、このような場所に入れるのは病気の子供か幼い赤ん坊を抱えた母親だけであった。他の人達はすべて、隣と3フィートしか離れていない二段ベッドが「家」であった。そしてこの生活が数日から数ヶ月続いたのである。『ニュー・カナディアン』紙記者のムリエル・キタガワは、ヘイスティングス・パークに最初の日系人家族が到着してから5週間たった頃に、家畜用建物から弟に次の手紙を出した。

ここには動物の糞と蛆虫の臭いが充満しています。2日に一度消毒剤で床を拭いていますが、馬、牛、羊、豚、うさぎ、ヤギの臭いを消し去ることは出来ません。その上ホコリでいっぱいです。トイレは金属製の長い桶があるだけで、便座も無ければ、隣との仕切りもつい最近までありませんでした。私達女性は抗議しました。その結果、仕切りと簡単な便座がつくられました。12才以下の男の子は母親と一緒に住んでいます。〔中略〕二段ベッドはなんとも言えない代物です。金属と木製の骨組みに、薄っぺらでごつごつした藁のマットレス、枕、軍用毛布が三枚です。〔中略〕シーツは自分の家から持参してきた人以外にはありません。これが女性にとってのホームです。〔中略〕二段ベッドには毛布、シーツその他ありとあらゆるものが掛かっています。まるで色とりどりの古ぼけて不衛生なジプシーのキャンプのようです。少しでもプライバシーを確保するためです。〔中略〕高齢の女性が、こんな所に押し込められるなら死んだほうが良かった、と泣いています。〔中略〕シャワーは1,500人の女性にたった10しかありません。25


ヘイスティングス・パークの家畜の臭いは、日系人をいらいらさせただけではない。カナダの政治家と政治家を支持した白人有権者が、日系人は家畜と同じに取り扱えば良いと思っている証明であった。26 家畜の臭いは日系人を心理的にますます気落ちさせた。多くの人が体重を減らし、頭痛をおこし、皮膚が荒れ、赤痢を起こし、短気になり、神経を高ぶらせた。日系人は、こんな状態で外の世界から遮断されたまま、悪臭の充満する環境で暮らし、次になにが起こるか不安をかかえて待っていた。

時々、心配でいらいらした日系人と、ヘイスティングス・パークの状況をよく理解できない白人管理者が衝突した。白人従業員はたとえ日本人に同情的であったにせよ、毎日、仮収容所の混乱に対処することで疲れていた。日系人は極度のストレスにさらされ、混乱し、怒っていた。このような状況で、衝突があまり起こらなかったのは、多くの白人従業員が経験豊かな人達であったことと、日系人が自分たちを良く自己管理したからにほかならない。A

1942年3月23日の夕方に、日系人と白人従業員の衝突が起こった。ヘイスティングス・パークの仮収容所が開いてから、まだ1週間しか経っていなかった時である。プリンスルパートとその周辺の海岸沿いの小さな孤立した漁村から到着した日系人の一団がいた。中には、カナダと日本が戦争状態になっていることを知らない人もいた。この人達は突然、数時間以内に荷物をまとめろと命令され、連絡船に乗船させられてバンクーバーに送られてきた。混乱したまま、まだ何の用意も出来ていないヘイスティングス・パークに到着した。これからどうなるか何も知らされず、ただ噂を聞くだけであった。

この日、ヘイスティングス・パークにはいろいろな噂が飛びかっていた。夕方、女性達は家畜用建物に収容されたが、その後にまた不吉な噂が広まった。一部の女性は噂を聞いて驚愕、狂乱してパニック状態になり、家畜展示場の階段から群れになって飛び出してきた。これを見て、監視に当たっていた連邦警察官が驚愕した。女性の群に割って入ると、警棒を振り回して女性達を叩き、「中に戻れ」と喚いた。二世でボランティアをしていたエイコ・ヘンミが、外の騒ぎを聞いて自分の事務所から飛び出してきた。連邦警察官が警棒を振り回しているのを見ると、直ちに連邦警察官に駆け寄り、小さな体で警察官の警棒を遮ると「警棒を納めて!何をしているの?あなたはこの人達は見下げた女達だから叩いて中に押し戻してもいいと思っているの?」と叫んだ。警察官は驚いて我に返り、そのまま監視所に戻っていった。ヘンミと同僚は女性たちを落ち着かせて、家畜用建物の厩舎に戻らせた。女性たちはこれからどうなるのか不安のまま待機した。27


「BC州保安委員会(BCSC)」委員長オースティン・テイラーは日系人の強制排除の当初から、女性と子供をどう取り扱えばよいか頭を悩ませていた。委員長の職を引き受けたときは、日系人は家族単位で移動させられるものと思っていた。しかし委員長としての最初の日に、健常な成人男子を家族から引き離して道路建設キャンプに送るということは、日系人の強制排除の政策が決定される以前から計画されていたことを知った。その上、BC州の排日感情を鎮めるために、連邦政府は成人男子を直ちに道路建設キャンプに送る計画であることもわかった。イアン・マッケンジーの保安委員会に対する指示は明確だった。「日本国籍者成人男子は、沿岸の既存の設備に収容した後、直ちに道路建設キャンプに移動させる28 」、「女性と子供は最終的な解決策が決定するまでヘイスティングス・パークに収容する」であった。テイラーはバンクーバーの不動産業者E・L・レン・ボールトビーに依頼して、BC州内陸部の寂れた鉱山町に女性と子供用の住居を建設する可能性と費用を検討させた。また他の人にプレイリー州〈アルバータ州、サスカチュワン州、マニトバ州〉にある先住民子弟のための寄宿舎学校の利用を調査させた。家族が一緒に移動できる手段を見つけるために、アルバータ州とマニトバ州の砂糖大根農家からの、フレーザー河流域で農業に従事していた日系人を家族単位で砂糖大根農場労働者として雇用したいと、いう要請も調べさせた。29

バンクーバー島と太平洋沿岸の小さな村の日系人が、最初にヘイスティングス・パークに収容された。これが1942年3月いっぱい続いた。バンクーバーとフレーザー河流域の日系人は自分たちの順番を待っていた。日本語新聞は休刊になっていたので、『ニュー・カナディアン』紙が唯一の新聞であったが、この新聞は厳しく検閲されていた。他にはパウエル街の日本人街の掲示板が情報源であった。パウエル街以外に住む日系人は、噂だけが頼りであった。悪い噂だけでなく、中には排日人種主義者のウィルソン市議がぶたれた、という溜飲の下がるものもあった。しかし大部分の噂は将来を不安にさせ、パニックを起こすものだった。1942年3月の噂には次のようなものがあった。道路建設キャンプは食べものに乏しく、作業員は山の中でこごえている。オンタリオ州の道路建設キャンプに行った二世は、もう太平洋沿岸地域には戻れない。ヘイスティングス・パークの食糧事情が悪いのは、ヘイスティングス・パークで働く白人と日系人が食糧費のピンハネをしているからだ。しかし一番恐ろしい噂は、ヘイスティングス・パークの13,000人の日系人女性と子供は、戦争が終わるまでここに収容される、これは日本軍の空襲を避けるための人質になるためである、というものであった。30

日系人は不安の源泉である連邦政府を攻撃することが出来ないので、「日本人連絡委員会(Japanese Liaison Committee:JLC)」に非難の矛先を向ける人もいた。日本人連絡委員会はBCSCに任命された3人の一世で構成され31、BCSCと日系人との連絡に責任を持っていた。非難はJLC委員長エツジ・モリイ〈森井悦治〉に集中した。モリイはパウエル街にクラブを二つ所有していたが、パウエル街の日系人の元締めとして、連邦警察副長官フレデリック・J・ミードの信頼を得ていた。ミードはモリイとの過去の交際から、日系人はカナダにとって安全な人達であり、モリイは日系人社会を平穏に保つ能力を持つ人物だと信じていた。ミードはモリイが良からぬ過去を持っていることを知っていたが、それはモリイの現在の役割には関係ないことだと思った。ミードはモリイが約束を守る人物であり連邦警察に協力的であることを、モリイとの過去の経験から知っており、これで十分であった32。ミードは1942年1月、日系人をBC州の防衛地域から追放するという嫌な役目を引き受けたときに、白人が日系人に暴力を振るうのを未然に防ぐためには、日系人が冷静に協力してくれることが不可欠だと思った。ミードはモリイならば、日系人の移動を白人と摩擦を起こさずに遂行できると確信していた。モリイも多くの一世と同様に、ごく僅かな数の、形だけの日系人の移動で問題は解決すると信じていたので、ミードに協力を確約した33

多くの日系人は1942年1月にモリイがJLCの委員長に任命されたことに納得した。また少数の日本国籍者がBC州防衛地域から立ち退かされるのは仕方がないとおもった。そして大部分の日系人は、自分は立ち退きには関係ないと考え、日系人社会とBCSCとの交渉をモリイに任せ、何も言わなかった。一世の一人が次ように述べている。

二世と帰化日系人は自分たちは連邦政府の政策から安全であると思っていたので、モリイが委員長として動き回っていても何も言わなかった。〔中略〕BCSCとの交渉はモリイに任せておけと思った。モリイはよく仕事をした。戦勝公債販売促進委員会委員長として活躍した。もし私がBCSCの委員や連邦政府の役人だとしたら、知っている人で仕事の出来る人を選ぶ。こんな大切な役目をティーンエージャーの二世に頼むようなことはしない34


不幸なことに、事態はモリイと連邦警察の望んでいたように順調には動かなかった。強制移動で仕事を失った日系人を民間で雇用しようという計画が、1942年2月半ばまでに失敗だったとはっきりすると、連邦政府は日系人を道路建設キャンプに送る計画をただちに実行することにした。モリイはBCSC から、1942年4月1日の正式の日系人太平洋沿岸地域退去期限前までに、道路建設キャンプへの志願者を集めてほしいと頼まれた。しかし大部分の日本国籍者は、日系人に対する憎悪感情が高まっていることを知って志願する気はなかった。また残された家族の生活の保証もないまま、退去期限前に沿岸地域から離れる気はなかった。

2月22日にモリイは日系人を集めて開いた会合で、道路建設キャンプ行くように懇願した。モリイは日本人は皆の利益のために自分を犠牲にすることを厭わないと強調した。この会合に出席した一人が後に次のように言っている。

モリイはこう言って皆を説得しようとした。『もし皆が道路建設キャンプに行くことを志願すれば、多分、私は二世とその家族、他の日系人がBC州から排除されないように出来る。〔中略〕行って欲しい。あなたが行けば他の人が助かる。』しかし、モリイにこう質問する人がいた。『あなたはどれだけ大変なことを私達に頼んでいるか分かっているのか? もし私がカナダのために兵隊になって戦えば、政府が私の家族の面倒を見てくれる。だけど私が道路建設に志願しても、〔中略〕誰が私の家族の面倒を見るとも、道路建設が終わったら私がどうなるともあなたは言っていない。』モリイは『もし失敗したら、私は腹を切る』と答えた。〔中略〕モリイは日本人の感情に訴えたが、話し合いは堂々巡りで、なんの結論も出なかった35

道路建設に志願する人がいないことに失望したモリイは、強硬手段を取った。モリイはJLCの他の二人の一世の委員に、2月23日にBC州レインボウの道路建設キャンプに行く100名の名簿を作らせて発表した。しかし2月24日にレッドパス行きの汽車に乗るために鉄道駅に現れたのは、100名のうちのわずか50名であった。36 そして2月25日、連邦政府は全ての日系人の太平洋沿岸地域からの排除を発表した。モリイの言っていた少数の日本国籍者が日系人全体の犠牲になって道路建設キャンプに行くという議論は間違っていたことがはっきりした。この時からモリイの権威主義者的なリーダーシップに対する不信感が日系人の間に芽生えた。ミードは3月5日、モリイに正式な連絡委員会の設立とヘイスティングス・パークの治安を維持する権限を与えたが、ミードは、この時すでに、パウエル街の日系人の間に日系人代表をモリイから他の人に変えようという動きが始まっていたことを知らなかった。

モリイの指導に最初に異を唱えたのは、二世の指導者の一人で「日系カナダ市民連盟(Japanese Canadian Citizens’ League:JCCL)」の書記をしていたクニオ・シミズと『ニュー・カナディアン』紙の英文編集長のトーマス・ショーヤマだった。2月中旬までに二人は、二世とカナダ国籍を取得した一世〈帰化一世〉も日本国籍者と同様に、強制移動の対象になると確信していた。二人は自分たちの運命のかかった日系人代表に二世も加えることを、声高に唱えるようになった。二人はモリイのやりかたに不満であった。モリイはあまりに日本的価値観と行動様式を強調して、二世がカナダの学校教育で身につけた英国風の価値観と行動様式を無視していると思った37。2月22日の会合で、日本とブリティッシュ・コロンビア大学で教育を受け日本語の流暢なシミズは、日本語で、日系人の運命を決めるような会合には二世の代表も加えてほしいと懇願したが、モリイに拒絶された。3月7日にシミズとショーヤマは再びモリイに、二世代表を日本人連絡委員会(JLC)の委員に加えてほしいと要請した。モリイは二世代表としてジョージ・イシカワ医師だけを認めたが、イシカワは、自分は二世全体を代表することは出来ないと言って断った。しかし3月15日にバンクーバーで一世と二世の合同会議が開かれ、JLCは25名に拡張されて、二世も加わるようになった38。拡張されたJLCは委員の数が多くなりすぎて機能せず、実際にはモリイが決めたことをただ追認するだけであった。

1942年3月半ばまでに、モリイの影響力が弱まっていることが明らかになった。いままでモリイの役割を我慢していた人達がはっきりと、モリイはBCSCの協力者だ、と非難するようになった。それから日を置かず、モリイに対する以前の非難がまた出てきた。そして新しい非難も加わった。モリイは道路建設キャンプに行きたくない人から賄賂を受け取って便宜を図っている、ヘイスティングス・パークの管理でも何か良からぬことをしている、ヘイスティングス・パークでモリイの部下は権限を悪用しているだけで、収容されている日系人の環境が良くなるようなことは何一つしていない、などの非難であった。39

3月の第3週までにショーヤマとシミズは、モリイに反感を持つ帰化一世グループと合流した。そしてモリイと行動することを断念して、自分たちの新しい組織を立ち上げて、政府に日系人政策の変更を働きかけた。1942年3月半ばに「カナダ日本人会(Canadian Japanese Association:CJA)と「日系人製材業労働組合(Japanese Camp and Mill Workers Union)」を含む38の団体の一世が、モリイ反対を旗印に新しい団体「帰化日系カナダ人協会(Naturalized Japanese Canadian Association)」(帰化人会と呼ばれた)を結成した。代表には「カナダ日本人会」のブンジ・ヒサオカ〈久岡文治〉がなった。同時に「日系カナダ市民連盟(Japanese Canadian Citizens' League:JCCL)の指導者は、自分たちが日系人全体を代表してはいないことを知っていたので、53の二世の団体と会って「日系カナダ市民会議(Japanese Canadian Citizens' Council:JCCC)を創立した。そしてBCSCおよび帰化人会と協力して日系人のための社会サービスを組織し、日系人排除に関連して起きた問題を軽減しようとした。40

3月29日に帰化人会とJCCCはモリイに反対の立場を明らかにした。保安委員会に手紙を送り、「JLC委員長E・モリイはBC州の日系人を代表していない。」と訴えて、政府が日系人を代表するような組織を作ることを要請した。これと同時に、帰化人会は日系人の移動は自分たちで管理するという提案をした。すなわち、政府に住宅建設資金180万ドルと連邦政府の土地を要請し、帰化人会がそこに日系人の収容施設を建設して運営し、全ての日系人が収容施設で安定した生活ができるまで食事も含めて面倒を見るというものであった。41

モリイ非難の決議と帰化人会の提案は、4月1日にオースティン・テイラーに届けられた。テイラーはモリイに対する非難は無視したままにして、帰化人会の提案を直ちに拒否した。テイラーは自分には15,000ドル以上の経費を決裁する権限はなく、また政府の土地で近隣の住民が文句も言わずに、20,000人もの日系人を収容できる場所はないというのが理由であった。42

テイラーはBCSCは既に日系人の移動先を決めていると帰化人会に告げた。移動先は次のとおりであった。BC州の寂れたゴーストタウンのグリーンウッド、スローキャン、ニューデンバー、サンドン、カスローの5ヶ所である。これらの町を再生して、ここに全部で5,000人の女性と子供を収容する。残りの日系人を収容する施設はそのあとに用意する。次に5,000人をアルバータ州とマニトバ州の砂糖大根農家に収容する。ここは家族単位で収容するが、フレーザー河流域で農業をしていて、扶養家族一人に対して4人または5人の働ける人のいる家族を優先する。さらに、自分たちで生活を維持できる日系人は沿岸の防衛地域外の場所に移動することを許可する。ただし、これには移動先の自治体の許可が必要である。

大部分の家族が分かれて移動することが不可避だと知った帰化人会は、4月4日、第二の計画を提案した。男子は道路建設キャンプに行くが、それは家族が安全にゴーストタウンに移動した後のことにする、モリイは性格、過去の所業、信条が日系人の代弁者としてふさわしくないので、男子が道路建設キャンプに行った後の家族の世話を任せることは出来ない、そして民主的な方法で新しい日本人連絡委員会を設立して欲しいという提案である。43

4月7日に帰化人会はBCSCがこの提案を拒否したことを知り、これ以上の交渉を断念した。そして日本語学校で開かれた会合で、このことを皆に知らせた。この会合にはスペイン領事館に顧問として配属されていた42歳の帰化一世、ジタロー・チャーリー・タナカが出席していた。スペイン領事館はジュネーブ条約で、カナダ在住の日本人の戦時中の安全を守る役目を持っていた。タナカは後にこの会合の記録をまとめて次のように言っている。この会合で帰化人会会長のブンジ・ヒサオカは、「帰化人会はBCSCと家族単位の移動を交渉したが拒否された、これ以上交渉するとかえって悪い結果になると思って交渉を断念した、今はもうこれ以上BCSCに何も要請出来ないので、自分たちで家族単位の移動を考えて欲しい。」と言った44。タナカによれば、JCCCのクニオ・シミズもヒサオカの見解に同意して「男子が道路建設キャンプに行けば賃金を支払われ、残された家族も生活費を貰う、もし道路建設キャンプに行くことを拒否して監獄に入れられてしまえば、家族は生活費を貰うことができなくなる。」と述べた。会の出席者から「帰化人会はまだ一週間しかBCSCと交渉していない、もっと交渉を継続して、少なくとも最善を尽くして欲しい。」という要請があった。しかしヒサオカもシミズも返事をしなかった。また出席していた他の帰化人会の委員からの返答も無かった。それでこの会合に出席していた人達は皆、帰ってしまった。……もう帰化人会を信用する人はいなかった。中には、「帰化人会は自分たちの家族だけについてBCSCと交渉していたんだ。」という人もいた45

帰化人会はBCSCとの交渉で一つだけ目的を達した。モリイの権威を弱体化させたことだった。BCSCは帰化人会のモリイにたいする非難をただの中傷活動と見なした。それでもモリイの日系人に対する影響力は弱くなり、4月始めまでにはモリイを支持する人は、主に町に住む一世でモリイを個人的に知っている人に限られてしまったことを理解した。46。4月9日にBCSCは次のような発表をした。正当な日系人団体ならどのような団体の意見も聞く、ただし、どの団体も正式な連絡委員会としては認めない、またモリイの日本人連絡委員会(JLC)は主に日系人の強制移動の事務管理に関する連絡委員会として継続する47、しかしBCSCと連絡する唯一の委員会ではなくなる、という内容であった。この時までに日系カナダ市民会議(JCCC)はヘイスティングス・パークの仮収容所で、レクリエーションと教育活動をしており、JCCCと帰化人会がモリイの日本人連絡委員会と同じような役割を担う団体になった。

モリイと反モリイ派の対立はもう一度起こった。1942年10月、C.J.A.キャメロン判事は日系人のグループから、モリイはファシスト組織の一員であるなど訴訟をうけて、23日間の審議をした。この審議の間、モリイについてのいろいろと派手な話が飛び交い、興味本位の新聞記事になったが、審議は訴訟理由のどれも証拠が無いか、ただの噂だと結論した。この審議は日系人社会の内輪の恥をさらけ出し、BC州白人社会の注目を惹いたが、日系カナダ社会への影響は殆どなかった。1942年4月以後、モリイの日系人社会への影響は、ほとんど残っていなかったからである。48

1942年4月、モリイの権威は失墜し、日系カナダ社会には指導者がいなくなった。帰化人会のリーダー達はモリイの権威を失墜させるのは成功したものの、政府と交渉して日系人政策を変更させることに絶望して、他の事に精力を向けた。資金を持っているものはBC州内陸部のクリスティーナレイク、ブリッジリバー、リルーイト、マッギリバリーフォールズ、ミントシティーなどの自活キャンプへ、自分たちで列車を調達して、家族や友人と一緒に移動していった。またフレーザー河流域やスティーブストンの帰化人会の指導者は、アルバータ州とマニトバ州の砂糖大根農場に家族単位で移動するプログラムに目を向けた49。フレーザー河流域の日系人農家はこの機会にと、我先にアルバータ州とマニトバ州に移動していった。1ヶ月もすると帰化人会の指導者の大部分はいなくなり、残ったリーダーは、日系人に個々の身の安全と日系カナダ全体のために、BCSCに全面的に協力するように促した50


帰化人会とJCCCが推進するBCSCとの協力に納得できない人達もいた。政府に裏切られ、つらい思いをして怒っている二世が、バンクーバーやスティーブストンにいた。この人達は1942年3月を通して、太平洋沿岸地域の日系人女子と子供がヘイスティングス・パークの仮収容所に放り込まれ、一世が家族から引き離されて、道路建設キャンプに連れて行かれるのをただ黙って見ていた。ムリエル・キタガワはこの様子を弟につぎのように書いている。

無知と恐れと不安が私達に覆いかぶさっています。なかには意固地に反抗するものや、大声で騒ぎ立てる人もいます。〔中略〕誰も正確に何が起こっているか知りません。しかし、いろいろなことが誰にでも起こっています。噂を聞いて他の人に話すと、また同じ話題なのに違った内容の噂を聞きます。こうして噂が野火のように収容施設中に広がっていきます。〔中略〕誰も連邦警察を信用していません。みんなパニックになっていますが、騒ぎたてるわけではなく、ただ何もわからずあれこれ推測しているだけです。51

3月最後の週から、それまでの「自分ではどうしようもないパニック」は、反抗的な態度に変わっていった。きっかけは3月23日に発表されたBCSCの声明であった。翌日の3月24日に、二世の最初のグループがオンタリオ州の道路建設キャンプに送られるという内容であった。これで二世はようやく、政府はやはり二世のカナダ国籍を無視して敵性外国人として扱うのだということが身にしみてわかった。オンタリオ州に行くことになった135人の二世は、道路建設キャンプでカナダ人として扱われることをBCSCに要求した52。その保証が無い限りオンタリオ州には行かないとこの135名の大部分の二世が言った。BCSCの命令に従わないと、投獄される危険も覚悟していた。彼らの自由な時間は短かった。BCSCは即座に対応した。大陸日報新聞の旧事務所に立てこもった86名は他の場所にいた17名と一緒に拘束され、バンクーバーの移民施設に拘留された。そして直ちに道路建設キャンプに行かない限り、オンタリオ州の捕虜収容所に収容すると告げられた。大部分の二世は捕虜収容所に行くことを選んだ。53

二世は法律的には「抑留」出来なかった。二世はカナダ国民であり、ジュネーブ条約では「抑留」は外国人にのみに合法的に適用されるものであった。このことをRCMP副長官ミードはすぐに連邦政府に指摘した。このため二世は法律的には決して抑留されるはずはなかったが「法務大臣(ルイ・サンローラン)の意のままに拘留」された。二世の立場は精神病の治療のために拘留された犯罪者と同じであった。二世は誰もこのことは知らなかったし、ましてや拘留後30日以内に拘留の取り消しを上訴出来ることも知らなかった。捕虜収容所に入れられて孤立し、味方もなく、怒りに満ち、法律顧問のいない二世は、自分達は収容所に「強制収容」されたと思った。政府、新聞、BC州の州民もそう思った。54

しかし、日系人に反抗の種が蒔かれた。バンクーバーとスティーブストンの二世は二つのグループに分かれ始めた。小さい方のグループは、政府が家族単位の移動に同意するまで、道路建設キャンプに行くのを止めるようにという文書を配布した。このような文書の配布は禁じられていた。家族単位の移動は、米国政府の日系アメリカ人総移動の政策であった。このような明白な抵抗運動に愕然としたJCCCは、日系人全体のために政府の政策に協力するように促し、道路建設キャンプに行くことを選んだ二世を称賛する文書を配布した55。皮肉にもRCMPは後にどちらの文書も同じタイプライターでタイプされていたことに気づいた。

二つの二世グループには、同じタイプライターを使ったという他にも共通点があった。どちらも日系人の強制移動は避けられないと思っていた。そしてあからさまな抵抗は、日系人に対しての過激な反動を生む危険があると分かっていた。また日系人は少数で、各地に分散しており、明白な抵抗運動をするには、あまりに敵対的な雰囲気に囲まれていることも認識していた。意見の相違は、連邦政府に日系人の強制移動の方法を変更させるにはどうしたらよいか、ということだけであった。抵抗派には家族を持ち、小さな子供のいる二世が多かった。これらの二世にとって、抵抗して収容所に入れられるのは、家族から離れて道路建設キャンプに行くのと大差なかった。どちらにしても、家族から引き離されることに変わりがなかった。それに、収容所に行くほうが見栄えが良かった。皆のために犠牲になるという大義名分があり、積極的な行動で自分たちの怒りを表明するチャンスだった。ただ従順に道路建設に行って、政府の方針が変わるかもしれないと、消極的に待っているのとは違っていた。多くの人が、連邦政府は成人男子を家族から引き離すという大きな間違いをしたと感じた。建設現場に行くことを拒否しても、何も失うものは無く、かえって収容所に行けばなにか得るものがあると思った。56

日系カナダ市民会議(JCCC)はもっと冷めた見方をしていた。JCCCの指導者達は政府を信用していなかった。しかし反日でヒステリーになっている一部のバンクーバー市民よりは、政府の方が少しはましだった。連邦政府が日系人の強制移動を発表してから、排日感情はますます高まり、日系人に対する憎悪と被害妄想が町に充満していた。こんな環境ではJCCCは慎重に行動せざるを得なかった。JCCC代表クニオ・シミズは後に次のように述べている。「このような状況なので、物事はもっと悪い方に動くと仮定して行動するよりなかった。市民を裏切るような政府を相手にしている日系人は、自分達の行動によって、連邦政府が日系人の行動を規制するためにカナダ軍を動員するような口実を与えてはならないと考えた。」白人で公然と日系人を擁護していた人達もシミズと同じように考えていた。「戦時下の市民権問題協力諮問委員会(Consultative Council for Cooperation in Problems of Wartime Citizenship)」のノーマン・F・ブラックやハワード・ノーマンのような人達も、もし日系人が組織的に立ち退きに反抗したらバンクーバーに排日暴動が起きると思っていた。」とシミズは後に語った。JCCCにとって連邦政府の政策がどんなに馬鹿げていても、これに従順に従うことが日系人がカナダに忠誠であることを示す手段であり、連邦政府から譲歩を獲得する唯一の方法であった。57

しかし、4月第2週にシミズの方針に反対するグループが結成された。JCCCから除名されたフジカズ・タナカとロバート・Y・シモダは、「二世総移動グループ(Nisei Mass Evacuation Group: NMEG)」を作り、その要求をBCSCと日系人社会に公表した。NMEGは「私たちはBCSCの命令は、どんなに理不尽のものでも全て従ってきた。しかし、成人男子を家族から引き離して道路建設キャンプに送るという命令には従うことは出来ない。」という公開書簡を1942年4月15日にBCSCに送った。

私達が家族から離れることを拒否するのは、次の理由がある事を考えて頂きたい。

私達二世は、カナダで出生した英国臣民である、そして他のどのカナダ人にも負けずカナダに忠誠である。私達は家族が恣意的に分離させられるようなことは何もしていない。私達は法律を遵守するカナダ市民である。私達は家、商店、漁船、自動車、ラジオ、カメラなどを保持する市民権の一時停止も受け入れようと言っている。

次のことも考えてほしい。私達は強制移動を拒否していない。私達の国カナダのためになるのなら、私達は国が要求するどこへでも移動する。

書簡は続けて次のように言っている。「家族を分離することは、カナダの戦争遂行努力に役立たないばかりか、私達にとって最低限の人権である家族と暮らす権利を取り上げるのはまったく不必要な行為である58。」58


BC州保安委員会(BCSC)委員は難しい立場にあった。テイラーとミードは個人的にはこの反抗派〈訳注:「がんばり組」とよばれた〉の意見と同様に、当初から家族単位の移動を支持していた。しかし、連邦政府が決定した政策を変更することは出来なかった。その上テイラーとミードは、日系人が明白に反抗的な行動をとれば白人からの反発があると危惧した。テイラーは反抗派から公開書簡を受け取った時に、反抗派の要求を拒否して次のように告げた。「もし家族から離れて道路建設キャンプに行くことを拒否すれば、反抗者は監獄に収容され、他の日系人は戒厳令の下で移動させられるであろう59 。」ミードの無愛想な態度を見て、反抗派はテイラーは個人的に家族単位の移動に反対であり、BCSCが家族を分離して移動するという政策を推進する元凶だと思った。

家族単位の移動を拒否された反抗派は次の手段を考えた。BC州住民の支持を期待して自分たちの立場を広く伝えようと、シモダはバンクーバーで日系人に同情的と思われる新聞社を選び、公開書簡を新聞に掲載して欲しいと要請した。『バンクーバー・デイリー・プロビンス』紙は、一旦は支持したが、この様な公開書簡はかえって排日感情を煽るという理由で、掲載を拒否した。『ニューズ・ヘラルド』紙は、このような書簡の掲載をBCSCが戦時検閲条例により拒否したという理由で拒。60

新聞社に公開書簡の掲載を拒否された二世総移動グループ(NMEG)は、次に連邦政府に働きかけた。バンクーバーの弁護士ポール・マーフィーに、日系人に代わって連邦政府に質問することを依頼した。オタワでマーフィーはわずかな希望を見つけた。労働大臣のハンフリー・ミッチェルはマーフィーに、労働省は日系人家族の住居を建てる予算を持っている、しかし土地を持っていないと告げた。ミッチェルはすでに進行中の、BC州内陸部のゴーストタウンを日系人の移動先にするという計画を知らなかった。マーフィーは連邦政府内で誰が日系人政策の最終決定権を持っているか知らなかった。もしBCSCが要請すればゴーストタウンに日系人を家族単位で移動することに同意するかもしれないと考え、二世の反抗派に引き続きBCSCに圧力を加えることを勧めた。61

反抗派の道路建設キャンプ行きを拒否する運動は功を奏してきた。4月末までに140名の二世が道路建設キャンプに行くことを拒んで身を隠した。空き家になった建物に住むか友達や親戚の家に身を隠し、夜間に紛れて動いた。ときには中国系カナダ人が付けている「私は中国人だ」というバッジをもらったりもぎ取ったりして、身につけて歩いた。また二世とカナダ国籍を獲得している帰化一世で、自ら選んで監獄に拘留された人もいた。4月25日に、66名のスティーブストンとバンクーバーの若い二世がバンクーバーの移民施設に行き、800名の支持者の見守る中で拘留されることを要求した。オースティン・テイラーによって拒否されると、この中の4名が事務所に押し入った。銃を持った守衛が居たが、予め銃には弾丸が装填してないことを知っていたので心配していなかった。連邦警察官は、連邦警察副長官でBC州BCSC委員をしていたミードを呼んだ。ミードは66名のグループの代表と話し合い、彼らの要求を受け入れた62。こうして前例が作られ、5月13日までに96名がオンタリオ州ペタワワ捕虜収容所に送られた。そして更に106名が移送を待っていた。63

5月13日、反抗派はついにバンクーバーの新聞の注意を引くことに成功した。バンクーバーの移民施設に仮収容されていた反抗派のところに、家族や友達が会いに来たり、食べ物を差し入れようとしたが、が会わしてもらえなかった。これに怒った反抗派の数人が責任者に面会して自分たちの意見を言いたいと要請した。午後1時半に守衛責任者が到着すると、反抗派は用意した陳情書を手渡した。陳情書は家族単位の移動を要求し、家族との面会を要求した。この時、収容者の数名が消火ホースを責任者に向け、他の収容者がいる隣室との間の壁も壊した。午後4時にバンクーバー守備隊隊長のD・R・サージェント大佐が到着して、反抗派の代表と面会すると述べた。反抗派はサージェントと移民仮収容所内での面会を要求した。サージェントは第1アイルランド射撃大隊の兵士80名を現場に呼び寄せた。兵士は警棒を用意していた。午後6時になると、サージェントは収容されていた人達に、部屋の中のガラスの破片などを片付けるように命じた。収容者が拒否すると、サージェントは、では今夜の夕食を出さないと回答した。ここでまた騒ぎが始まり、最後には兵士が催涙ガスで騒ぎを鎮めるまでになった。午後9時に兵士は解散した。オースティン・テイラーは、騒ぎは大したことはない、ただ収容者がふざけただけだ、と新聞社をなだめるのに奔走した。64

移民施設の騒動に軍隊が出動しても、反抗派の勢いは収まらなかった。5月26日までに、道路建設キャンプ行きを拒否した99名の二世と帰化一世が拘留された。この他にまだ300名余りが身を隠していた65。徐々に反抗派を支持する人達が増えてきた。理由はいろいろだった。政府にあれこれと理不尽に命令をされるのを嫌がり、政府に嫌がらせをしようという人もいた。夜間外出禁止令を無視してオーカラ監獄で6ヶ月の禁錮が決まっている人は、自ら志願して収容されたほうが、禁錮刑で監獄に行くより、日系人社会にとって意味があると思った。また太平洋戦争に日本が勝利すると信じていた人達は、自ら志願して捕虜収容所に収容されることは、日本への忠誠心を示すことになると思った。そして、日本が勝利した暁には、自分たちの苦労は日本からの報奨で報われるだろうと考えた。これらの人たちは主に日本で教育を受けた帰加二世であった。しかし、一番多かったのは、成人男子を妻や子供から強制的に引き離すという非人道的な政策に対して、正当な抗議をしたいという理由であった66

日本に忠誠を示すために自ら捕虜収容所行きを選んだ人達は、バンクーバーの日本領事館三浦〈屯治〉副領事に影響された。スペイン領事館顧問のジタロー・チャーリー・タナカは次のように言っている。

カナダはこのような戦争の経験がなかったので、バンクーバーの日本領事館の取り扱い方を知らなかった。連邦政府は領事を領事館から外出禁止にしたが、他の館員の行動を制限しなかった。〔中略〕三浦は国粋主義者で、〔中略〕以前は満州で勤務していた。〔中略〕彼は主に帰加二世や一世と盛んに話した。〔中略〕「戦争は半年で日本の勝利に終わる。なぜ君たちはカナダ政府にまるで犬のように扱われるのに甘んじているのか。戦争が終われば君たちは日本から優遇されるのだ。」三浦はカナダ政府に害になる宣伝をした。〔中略〕そして多くの一世が戦争は半年で終わると信じて、自ら収容所に行った。B 67


これら日本びいきの一世がいたので、二世総移動グループ(NMEG)の抵抗運動に参加をためらう二世がいた。日系カナダ市民会議(JCCC)会長のクニオ・シミズは次のように言っている。「我々はNMEGの目的に賛同したが、同時にこの目的は達成不可能だと思っていた。そのうえNMEGの指導者には、我々が信じている民主主義に共感しない人がいた。〔中略〕帰加二世には英語が不自由な人が多かったので、〔中略〕彼らが何を言いたいのかを代わりに言ってあげたことが何度かあった68。」

NMEGは不法な地下組織で、日系カナダ市民会議(JCCC)から強く非難されていたが、それでも社会的に尊敬されていた人を団体の顧問にしており、協力者も持っていた。顧問のなかでジタロー・チャーリー・タナカが一番影響力を持っていた。タナカはカナダ国籍を取得した一世で、子供の時にカナダに来て、その後、家具製造業者として成功した。タナカの会社はカナダの大きなデパートと取引があった。タナカは戦前の日系社会でどのグループにも属さず、中立な立場を取っていた。このことから、太平洋戦争が始まるとタナカはスペイン領事の顧問兼代理人となり、ジュネーブ協定の下でカナダの日本国籍者の人権を監視する役目を担った。タナカはこの役目上、自由にBCSCに出入りすることが出来た。そしてこの立場を利用して、NMEGが家族単位の移動をBCSCに要求するのを支援した。タナカはミードに次のように言っている。「道路建設の代わりに日系人をゴーストタウンにいる女性と子供のための住居建設に行かせるのが良い。そうしないと冬が来る前に住居は完成しない。」またタナカは経験不足のNMEGの指導者に対して、どのように行動したらよいか助言し、グループのために弁護士を斡旋した69

1942年6月上旬までに、日系人の移動は滞ってしまった。日系人女子と子供のカスローとグリーン・ウッドのゴーストタウンへの移動は続いていたが、男子の移動は止まってしまった。バンクーバーでは、道路建設キャンプ行きを拒否した男子500名余りが、自由に日本人街を歩き回っていた。政府はこれら500名を拘留する施設を持っていなかった。移民仮収容所にはあと50人を収容する余裕しかなく、オンタリオ州の捕虜収容所も満員だった。70 そのうえ、捕虜収容所に日系人を収容する費用は、道路建設キャンプに収容するより高くなるので、連邦政府は日系人の捕虜収容所への収容に熱心でなかった。

6月2日、NMEGはチャーリー・タナカの助言に従って、バンクーバーの弁護士デニス・マーフィーの事務所で記者会見を開き、連邦政府との交渉が行き詰まっていることを発表した。会見でロバート・シモダは、現在バンクーバーには今までで一番日系人が集まっていると指摘した後で、「連邦政府は家族単位の移動に傾いているが、BCSCがこれを拒否している」と述べた71。シモダがこう言ったのは、弁護士のポール・マーフィーがオタワで外務省次官補のノーマン・ロバートソンに会った時に、ロバートソンがマーフィーに、「このような政策変更の要請は日系人からではなく、BCSCから出される必要がある。」と告げたからであった72。反抗派の二世は、BCSCのテイラー委員長が連邦政府に要請さえすれば、日系人の家族単位の移動が可能になると考えた。

連邦政府の政策を変更するのは、実際は簡単なことではなかった。そもそもBCSCは日系人の家族単位の移動を望んでいた。しかし連邦政府は成人男子を家族から引き離して、道路建設キャンプに送ることを選んだ。一番手っ取り早く日系人男性を保護地域から排除出来る上に、労働力としても活用も出来るので、オタワ政府は道路建設キャンプ案の方が都合が良かった。連邦政府の政策を変更するには、BCSCは道路建設に送られた成人男子を、また家族と生活できるようにする代案を用意する必要があった。連邦政府はすでに道路建設用のキャンプを作っていたので、この費用を考慮しても、家族単位の移動の方が良いということをBC州の州民に納得させる必要があった。連邦政府は世論に極度に敏感だった。

BCSCはNMEGが記者会見を開く3週間前から、この代案を具体的に検討していた。5月半ばに委員会のBSCS医療顧問ライエル・ホッジンズをBC州内陸部のゴーストタウンに派遣して、ゴーストタウンを収容施設にするという案に対する地域住民の意見と、離散家族がまた一緒になって住める住宅の建設費用を調査させていた。テイラーは、ゴーストタウンの施設を拡充して家族用の小さな家を建て、周囲に農園を作って食料を生産できるような案を考えていた。また、プレイリー州の先住民寄宿舎学校に日系人を家族単位で収容することと日系人を農業労働者として使うことも計画していた。73


BCSCの代案は道路建設プログラムが全くの失敗だったことで重要になってきた。連邦政府は短期間でできるだけ多くの日系人男子を太平洋沿岸から遠ざけたかったので、大勢の高齢者や、ティーンエイジャー、今まで肉体労働をした経験のない人なども道路建設に送った。道路建設キャンプには建設機械が少なく、日系人はほとんど肉体労働だけで仕事をした。その結果、道路建設に不向きな人は効率が悪く、肉体的に頑丈な人はやる気がなく故意にゆっくりと仕事をした。

道路建設キャンプは健全な生活環境を提供したが、そこで働く日系人男子にとって心理的、感情的に健全な場所ではなかった。連邦政府は日系人労働者は他のカナダ人一般の労働者と同じ労働者であって、囚人でも拘留者でもないと言っていたが74 、日系人もBC州の住民も道路建設キャンプの日系人は囚人だと認識していた。道路建設キャンプは連邦騎馬警察官(RCMP)によって監視され、日系人はキャンプから外に出ることを禁止されていた。その上、全てのキャンプには常時武器を携帯したRCMPの監視員がいた。RCMPは公には道路建設キャンプ近くを走る鉄道路線の警備に当たっていることになっていたが、BC州住民も日系人も道路建設キャンプの日系人の監視をしていると思った。BC州の州民は、RCMPによって監視されている日系人は妨害工作者に違いないと思った。

日系人道路建設労働者は自分たちは囚人だという心理的な重圧の他に、家計の心配とバンクーバーに残した家族の心配をしなければならなかった。道路建設の賃金は安かった。BC州内陸部の一般的な平均労働賃金は1時間60セントであったが75 道路建設キャンプでは、政府は25セントから35セントしか払わなかった。連邦政府は日系人は敵性外国人であるから、カナダ軍兵士の最低賃金以下の賃金が妥当だと考えた。そして、この少ない賃金の中から毎月22.50ドルを食事と宿泊費に取られ、既婚者はその上に毎月20ドルを家族の養育費に取られた。既婚者の賃金は1時間25セントだったので、1日8時間、1月に25日働いても、毎月7.50ドルしか手元に残らなかった。しかし1日8時間働く人は殆どいなかった。カナダ・ユナイテッド教会牧師W・R・マックウィリアムズによれば、1942年6月当時レベルストークの道路建設キャンプでは、日系人労働者は1日に2時間から4時間しか働かなかった。マックウィリアムズは道路建設プログラムを、生活貧困者を作り出すプログラムだと結論した。76

日系人道路建設労働者は稼ぎが少ないということで、ますます家族のことを心配した。多くの人は道路建設キャンプに送られた時に、家族を混乱真っ只中のバンクーバーのヘイスティングス・パーク仮収容所に残してきた。また他の人は自宅に家族を残したまま、家族のために何の準備も出来ないで道路建設キャンプに送られてきた。残された家族に生活の手段は無かった。そしてキャンプでは正確な情報から遮断され、ヘイスティングス・パークの劣悪な生活環境の思い出と合致するような噂にさらされ、道路建設にやりがいを感じず、ただ心配して落ち着けない毎日を過ごしていた。1942年5月には、キャンプは騒ぎを扇動する人に格好な状況になっていた。

道路建設キャンプにはどこにも騒ぎを起こそうとする人がいた。将来に悲観的でやる気をなくしたこのような人は、皆の不安を煽ってキャンプの日常活動を邪魔した。この人達が騒ぎを起こす動機は様々だった。日本が戦争に勝つと信じて皆を煽っている人や、やり場のない欲求不満を騒ぎを起こすことで発散している人などがいた。77 1942年6月になると、イエローヘッド高速道路沿いの道路建設キャンプでは、消極的抵抗運動が始まった。それまでは日本人保護の責任を担っていたスペイン領事館へ不平を述べ、道路建設事務所とBCSCへ陳情していただけだったが、次第に道路建設作業をわざと緩慢に行ったりストライキをするようになった。

1942年6月半ばにアルバータ州ゲイキーとデコイーネ、BC州のゴスネルで起きたストライキは、道路建設作業を止めてしまった。道路建設を管轄している連邦政府鉱山自然資源省は、日系人道路建設労働者の要求を受け入れることも出来ず、また解雇することも出来ず、連邦政府に窮状を訴えながら、ストライキが終わるのを待つほか手段が無かった。捕虜収容所に送ると脅しても効果が無かった。収容所で貰う賃金のほうが道路建設の賃金より高いことを、日系人はすでに知っていたからである。78 BCSCは、日系人道路建設労働者を収容所に送ると脅すことは、かえってストライキをしている人たちの団結心をたかめてストライキを長引かせることに気づいた。日系人の1人がオースティン・テイラーに言ったように、「騒ぎを起こした人達に同調したのは、自分達の運命は皆同じだと思っていたからで、ストライキを一人でやめる訳にはいかなかった。」79 6月までに明らかになったのは、家族と一緒になれるという希望が無ければ、道路建設プログラムは頓挫するということであった。


5月30日までにテイラーは、日系人道路建設労働者を少なくも冬の間は家族と再会させる、という考えに傾いていた。テイラーは連邦政府労働省次官補アーサー・マックナマラに、家族と再会できるように政策を変更するように働きかけ、日本国籍労働者のキンジー・タナカの手紙を、マックナマラに読むようにと言って送った。タナカは道路建設キャンプの状況を良く観察していた。タナカは母親が日本を訪問していた時に日本で生まれたので日本国籍を持っており法律的には外国人であった。しかし文化的には二世であり、日系カナダ市民連盟(JCCL)の副会長をしていた。タナカは外国人として道路建設キャンプに送られたが、一世の立場も白人管理者の立場も理解できるという、複雑な心境を持つ人物であった80。5月末にタナカはテイラーに手紙を書いて、道路建設キャンプの日系人は仕事をやる気がまったくなく、きっと何か騒ぎを起こすと忠告した。タナカは次のように手紙に書いた。

家族の一員を家族から引き離しておいて、仕事をしっかりしろと命令することは出来ません。〔中略〕男性を家族から引き離せば、男性は家族の事を心配します。心配しないならその人は人間ではありません。精神的に脅迫されている人に働けと言っても無理です。

〔中略〕砂糖大根農家に家族単位で行った人達を見て下さい。しっかり仕事をしています。砂糖大根の栽培が道路建設より楽だということでも、賃金が高いというわけでもありません。〔中略〕家族と一緒に生活しているからです。これが一番大切なことです。家族一緒に生活できないプログラムは、結局は失敗します。 81

既婚者は家族のところに帰すべきであり、若い人が正当な賃金を貰って道路建設に従事すべきだとタナカは強く要請した。

タナカの意見を取り入れたテイラーの提言に、連邦政府は聞く耳を持たなかった。連邦政府は、既婚者を家族と一緒に生活させるための新たな費用を必要と認めなかった。テイラーは一週間後にまた連邦政府に手紙を書いた。その手紙でテイラーは、「NMEGによって引き起こされた騒動が未解決であることからもわかるように、日系人道路建設労働者は家族と一緒になれるという希望がない限り働かない。道路建設プログラムは失敗するだろう。」とはっきり指摘した。オタワでは連邦警察長官のS・T・ウッドがテイラーの意見に同意した。「道路建設キャンプの騒動は、今後ますます悪化するだろう。〔中略〕建設現場の日系人はこの戦争がしばらく続くと思っている。」とウッドは連邦政府法務大臣のサンローランに1942年6月5日に手紙を出し、日系人の家族との再会をすぐにでも実現するよう要請した。82

6月10日、BCSCのミードとホッジンズ医師がオタワに派遣された。日系人家族の再会を連邦政府に納得させるのが目的だった。ホッジンズ医師は自らのゴーストタウン訪問時の経験に基づき、BC州内陸部のゴーストタウンにいる家族のもとに、家族から引き離された成人男子が戻ることについては周辺の住人の反対は全くないと連邦政府を説得した。ホッジンズは6月1日、日系人のゴーストタウン移住に対する周辺住民の反応について報告書していた。「BC州内陸部の白人はほぼ例外なく、日系人がゴーストタウンに移住してくることを喜んでいる、そして親切に対応すると言っている。唯一の批判は、BCSCは日系人を親切に扱っていない」というものであった。83 ホッジンズはこの報告書を連邦政府の説得に使った。ミードの議論は道路建設キャンプの騒動を中心に置いていた。ミードは6月半ばにゴスネルで起きたストライキについて触れ、「いま、日系人家族を一緒しなければ、このようなストライキがこれから他でも起きるだろう。これを我々はミッチェルとマックナマラに会って伝えたい」と訴えた。84

ミードとホッジンズは、今まで覚書や書簡で連邦政府の政策を変更しようとして失敗してきたが、今回、自らオタワに出向き、直接、面と向かって説得することで、政策の変更に成功した。連邦政府労働省は、プレイリー州の先住民寄宿舎学校に日系人家族を収容するという計画を破棄して、BC州内陸部のスローキャンバレーとホープの近くのA.B. トライツ牧場に、掘っ立て小屋を建てて収容所にする新たな計画を許可した。85 そして、もっとも非効率的だった幾つかの道路建設キャンプを閉鎖した。日系人道路建設労働者の既婚者は、スローキャンバレーとホープに移動して、収容所の掘っ立て小屋を建設することになり、独身者はキャンプに残って道路建設を続けることになった。

家族再会の決定はすぐには公表されなかった。BCSCは二世総移動グループ(NMEG)の抵抗が、家族単位の移住を始めることで終了するという保証が欲しかった。ミードはバンクーバーに6月28日に戻るとすぐに、チャーリー・タナカに連絡して、日系人の反抗派の指導者との会合を設定するように依頼した。この会合は6月30日に開かれた。NMEGの代表はシゲイチ・ウチボリとエツジ・ヨシダだった86。ミードは二人に、NMEGが抵抗を終了するために必要な条件を、箇条書きにして提出するように求めた。ウチボリとヨシダは翌日BCSCの三人の委員全員に会うことを約束して、条件をまとめるために退去した。チャーリー・タナカは7月1日の会合をよく覚えている。タナカは10時にウチボリ、ヨシダ、兄弟のフーバート・タナカと一緒に会合場所に到着した。ヘルベルト・タナカは英語の苦手な帰加二世のウチボリのために通訳した。タナカは次のようにこの会合のことを思い出している。

会合の初めにテイラーとシラスはウチボリとヨシダを叱責した。「今は戦争中なのだ。もし君たちが不注意な行動をすれば、私は直ちに君たちを捕虜収容所に投獄出来る」とテイラーが言った。〔中略〕「えっ!彼らはここから真っ直ぐに捕虜収容所に行くのか」と思って怖くなった。〔中略〕しかし、私はBCSCの連中は、日系人の移動が止まっているので困っており、〔中略〕また、RCMPも強制移動に積極的でないことも知っていた。15分ほどウチボリとヨシダを説教した後で〔中略〕2人(テイラーとシラス)は退席した。残ったミードが、「連邦政府から君たち(反抗派)の要求を受け入れてもよいと言われた。我々は君たちの要求を聞きたい。」と告げた。そこでウチボリとヨシダは7つの条件が記載された文書をミードに渡した。〔中略〕ミードは読んでから、条件の中に一つだけ受け入れられないものがあると言った。それは独身者の道路建設労働を止めるという要求だった。ミードは「JCCCの独身者は道路建設キャンプで今も働いてる。〔中略〕君たちNMEGの独身者だけを道路建設キャンプから外すわけにはいかない、君たちは政府から見れば問題児なのだから、〔中略〕よく考えて、他の条件が受け入れられたからといって、『我々はBCSCに要求を呑ませた。』などと吹聴しないように」と注意した。87

ウチボリとヨシダはしぶしぶミードの独身者の道路建設労働の継続案を受け入れ、抵抗運動を終了し、BCSCと協力してスローキャンバレーに仮収容所を建設することを約束し。88


家族との再会が公表されると、日系人で政府の命令に従わない事例はほとんど無くなった。まだ従わない人達もいたが、多くの人達は仮収容所での生活を少しでも楽にしようと努力した。7月半ばまでに、道路建設キャンプで抵抗していた人達もスローキャンバレーに移動して、12,000人の日系人のための住居を、冬が来る前に完成するために必死に努力した。

バンクーバーでも日系人は、収容所での生活のための準備を始めた。貴重品は教会に運び込んで鍵をかけたり、裏庭のベランダの下に埋めたり、友人に預けたりした。誰もが収容所への拘留は一時的なもので、またすぐにバンクーバーに戻って貴重品を取り返せると思っていた。暖かで丈夫な衣服、ベッドカバー、使い慣れた食器と台所用具などを、収容所生活のために用意した。ホープの近くに収容所が出来るというニュースが伝わると、夫がホープとプリンストンの間の道路建設キャンプにいる家族は、ホープの収容所に移動を希望する手続きに殺到した。他の場所で夫が道路建設をしている家族は、家族で一緒のところに移動出来るように夫や友達、親戚と必死に連絡を取った。また収容所では、16フィートx24フィートの住居に最低8人が一緒に住むことになる事を知り、親戚や親しい友人が一緒の住居に住めるように手配した。このような準備は簡単なことではなかったが、移動の準備に没頭することで、これからの生活の不安をつかの間忘れることが出来た。89


1942年11月までに、20,881人の日系人が自分の家から追放され、バンクーバーのヘイスティングス・パークに仮収容された後に各地へ分散していった。このうち12,000人は収容所の掘っ立て小屋かゴーストタウンの長屋に住むこととなった。4,000人がプレイリー(平原州)の穀物倉庫や養鶏小屋に家族で身を寄せ合った。残りの人達はBC州内陸部の自活キャンプに自費で移動したり、トロントやモントリオールに移動した。90 これで、カナダ太平洋岸地域の人種差別主義者達には、日系人問題は解決したように見えた。しかし、日系人にとって問題はまだ始まったばかりだった。