人種主義の政治 アン・ゴマー・スナハラ 著

第8章市民権と賠償の獲得

潮の流れが変わった。日系カナダ人(以下、日系人)に生活を再建する時が来た。戦中、戦後に経験した精神的苦痛とトラウマ、経済的損失、日系人はカナダ国家の裏切り者だという意識をカナダ人に植え付けた虚言、これらの全てに賠償を求める時が到来した。カナダの日系人マイノリティは、戦時中の経験を無視したままにして置くことは出来ないと確信した。連邦政府に、日系人が連邦政府の政策で被った不正義を認めさせ、市民権を回復させ、損失を補償させなければならない。もしそれに失敗すれば、日系人は、戦時中に流布された、カナダに対する忠誠心を欠く人種的マイノリティ、という虚偽の通説を将来も背負っていくことになる。

1947年1月当時、連邦政府は日系人にただちにカナダ人としての全ての権利と特典を与えたり、いかなる形の賠償をする意図もなかった。公的には、日系人に対して何も不正なことはしていない、という立場を堅持していた。連邦政府は、日系人が太平洋沿岸地域に居住することから生じた戦時非常事態を回避する処置をとったに過ぎない。したがって、日系人が被った損害を賠償する義務はない、という立場を堅持した。1

連邦政府は、日系人問題が自然消滅することを願い、まだ残っている問題を矮小化しようとした。1947年1月24日、キング首相は連邦議会で次のような答弁をした。日系人のブリティッシュ・コロンビア州(以下、BC州)への移動制限とBC州内の移動制限がまだ続いているのは、BC州から他の州への分散計画を順調に進ませるためである。また、キング首相は次の主張を繰り返し述べた。連邦政府は日系人の資産が適切な価格で売却され、総額が連邦政府の査定額を上回ったことに満足している。2 しかし政府は査定額が自分たちに都合の良いように低く見積もられていることは公表しなかった。

キングの連邦政府の政策を正当化する答弁は、協同連邦党(CCF)を満足させなかった。CCFは太平洋戦争が終了した今、日系人が太平洋沿岸地域に戻ることを禁止する理由はないと主張した。米国ではすでに2年前に日系アメリカ人が太平洋沿岸地域に戻ることが許可されていた。1947年4月、1945年の国家非常事態継続権限法(National Emergency Transitional Powers Act)をさらに1年延長する法案(C104法案)が提出された際、CCFは日系人のカナダ移動を禁止している内閣令を廃止しようと試みた。C104法案の審議で明らかになったことは、連邦議会の日系人に対する姿勢が、微妙ではあるが、しかし重要な変化を生じていたことであった。CCFの主張に、BC州選出の議員は従来とは変わって慎重な対応をした。そして、戦後の自由主義的風潮に配慮して、注意深く次のように答えている。日系人の移動制限は人種差別に基づいたものではなく、BC州の治安維持のためである。2年前の日本送還希望調査で、送還を希望したものがいたということは、日系人はカナダではなく日本に忠誠心をもっている証しであり、これらの日系人がBC州に戻ることにより治安に問題が生じる。イアン・マッケンジーは、この後すぐに連邦政府内閣から追い出されることになるのだが、次のような持論を展開した。他の州がBC州の日系人政策に口出しすることは許されない。もし他の州がBC州の治安政策を決定する権利を否定すれば、それはカナダ連邦国家に対する重大な攻撃を意味する。3 労働大臣のハンフリー・ミッチェルも、連邦政府の立場を擁護して次のように答弁した。「日系人の移動制限は、日系人自身に利益のある政策である。そもそも連邦政府の日系人政策は、日本政府が戦時中に日本に残されたカナダ人に対して取った措置と比べれば、厳しいものではない4 」この答弁でミッチェルは、日系人が太平洋戦争の勃発で日本に取り残されてしまった白人カナダ人と同様のカナダ市民であることをまだ認識していないことを暴露してしまった。

BC州選出議員が慎重な態度をとった一方で、他の議員の反応は日系人を落胆させるものだった。2日間の審議の後、協同連邦党の動議は否決された。協同連邦党を支持したのは、保守党議員2名、自由党議員4名だけであり、107名の議員が欠席していた。5 そして日系人の追放騒動が収まってしまうと、追放の時の活発な議論は消え失せ、連邦議会と政府は日系人問題について、また以前の伝統的な偏見的な姿勢に戻ったかのようだった。


キング首相の自由主義は底の浅いことが、1948年の春にまたもや露呈した。この頃キングの政権運営は危ない橋を渡っていた。1945年の総選挙で、自由党は過半数の議席を獲得したが、野党連合の総数よりわずか5席多いだけだった。1948年、野党連合は協力して自由党に対抗していた。1947年末に議席が二つ空席になった。オンタリオ州選出の自由党員が一人亡くなり、BC州イェール選出の保守党議員が引退した。1月中旬、キングはついにイアン・マッケンジーを閣僚から外すことにした。マッケンジーのアルコール依存症が進んで、大臣の仕事もおろそかなになり、閣僚から尊敬されなくなった。6 大臣を辞めさせるには、上院議員に任命するのが一番摩擦のない方法だった。しかしマッケンジーが上院議員になると、バンクーバーの選挙区で補欠選挙をすることになる。マッケンジーの選挙区には強力なCCFの候補者がおり、前回の選挙でマッケンジーは辛くも当選していた。

注意深く勝算を考慮した後で、キングはマッケンジーの議席の補欠選挙に賭けることにした。補欠選挙に敗北する危険を最小にするために1948年1月25日に、キングはBC州の自由党首相バイロン・“ボス”・ジョンソンに相談した。もし日系人が太平洋沿岸地域へ戻ることを禁止している内閣令を廃止したら、この補欠選挙にどのような影響があるか、とジョンソンに聞いた。ジョンソンはもしそうしたら、マッケンジーが辞めた後の補欠選挙は、確実に自由党候補者が負けて、保守党候補者が勝つだろうと答えた。キングは日系人の人権より、自由党の1議席の方を優先して、日系人移動制限閣令の延期を内閣に求めた。

しかし内閣の了承は簡単には得られなかった。法務大臣のJ・L・イルスレイは「歴史は日系人移動制限閣令を延長した政党を非難するだろう。」とキングに告げた。キングは「歴史は政権を維持出来るのに、その努力をしないで反対党に政権を渡す政党を非難するだろう。〔中略〕我々は大きな視野から物事を判断しなければならない。」と答えた。7 政治においては政権を維持することが政治的信条より大切だ、とするキングの考えがよく表れている返答だった。

キングは、自由党内のイルスレイのような自由主義者の意見を無視することは出来なかった。しかしまた、米国政府が日系アメリカ人の移動の自由を許可したように、カナダ政府も日系カナダ人に移動の自由を許可することは、政府としては不本意であるとする政治的理由も公にはできなかった。結局、妥協策が生まれた。連邦政府は1949年3月31日を以て日系人移動禁止内閣令を廃止する新内閣令を発令した〈1948年3月2日閣令第804号〉。日系人の自由な移動を連邦議会が審議してから1年後、日系人がBC州から追放されてから7年後に、日系人はようやくBC州に戻れることになった。8 しかしここで忘れてならないのは、1948年3月に廃止令が可決されても、日系人のBC州への自由な移動は、まだ1年先のことであり、連邦補欠選挙が行われる時にはまだ日系人の移動制限は有効であった。イルスレイと内閣の自由主義者は移動制限が1年先ではあるが撤廃されることで満足するしかなかった。

新しい内閣令を発令するために、キングは先ず自由党幹部会を説得しなければならなかった。1948年2月18日の幹部会で、キングはこう告げた。「勿論、マイノリティの権利は守らなければならない。しかし諸君、日系人マイノリティとBC州の自由党連邦議員マイノリティのどちらが大切か考えて欲しい。BC州選出の自由党議員は全員、日系人に直ちに移動の自由を許可することに反対している。もし許可すれば、BC州の自由党は大きな被害を受けるだろう9 」キングにとって日系人政策は、日系人の利益を先にするか、自由党の利益を先にするかの問題であり、答えは常に自由党の利益を先にすることであった。自由党幹部会はキングの提案に賛成した。キングは新内閣令が、連邦議会で問題なく承認されるように、出席者の少ない土曜日に議会に提出した。議会はCCFの反対だけで、73対23で動議を可決した。しかし、キングが日系人の移動禁止令を1年伸ばしてまで、自由党候補に有利にしようとしたバンクーバーとイェールの連邦議員補欠選挙で、自由党候補者はCCF候補者に敗れた。10 キングの日系人の移動の自由を1年間犠牲にして、選挙を有利に行う目論見は失敗に帰した。


1948年には、BC州の議員達も、BC州住民の日系人に対する態度が変わってきたことを知る苦い経験をした。州首相ジョンソンは、キング首相に日系人の移動制限続行を助言した3日後に、BC州住民からその人種主義を厳しく避難されることになった。ジョンソンは州の製材業が日系人を雇用することを禁止する規則を復活しようとした。戦時中は労働不足から日系人を雇用して戦時の生産を維持していたが、戦争が終了したのでまた禁止に戻そうとした。11 当時、BC州の製材業には800名余りの日系人が働いていた。雇用主は労働者不足のBC州内陸部の小さな製材所所有者が多かった。もし日系人雇用禁止規則を復活すれば、800名余りの日系人が失業し、これら日系人を雇用する製材所は破産した。

BC州住民の大反対にあって州政府は驚いた。BC州住民は静かに納得すると思っていたが、大声で反対された。アメリカ国際林業労働者組合は、製材所の雇用主がジョンソンの提案する規則で日系人を解雇するのは、雇用者が労働組合と結んだ契約に違反すると非難した。製材所の所有者も、個人的にまたカナダ製造業協会を通じてジョンソンに抗議した。カナダ市民権組合のバンクーバー支部、日系カナダ市民協会(JCCA)BC州支部、野党のCCFもこの規則を批判して州政府内閣との会見を求めた。他にも、バンクーバー労働組合協議会や、他の産業の労働組合も日系人を支持した。そして多分一番重要なことは、BC州の以前は排日的だった新聞までが、この規則は人種差別の典型だと批判した。12 BC州政府は住民の支持のないことを知り、日系人の製造業就労禁止規則を取り下げた。13 自由主義的な住民の圧力が増加して、ついにBC州の伝統的に人種差別的な雇用政策を変更することに成功した。

1948年1月の製材業の日系人雇用問題の結末と5月の連邦議会補欠選挙の敗北で、BC州の自由党は、これ以上日系人排斥政策を続けても政治的な利益にならないと認識した。1948年6月に、BC州の日系人に連邦議会の選挙権を許可する法案(C138法案)が提出された時、これに反対したBC州選出の連邦議会議員は1人しかいなかった。その議員も、ほかの議員の支持が得られないとみると反対を取り下げ、この動議は1948年6月15日に満場一致で可決された。14 州首相ジョンソンも、これ以上日系人に選挙権を拒否することは政治的に利益がないと判断して、1949年3月7日に同じような法案を州議会に提出した。ほとんど反対はなく法案は通過し、1949年3月24日に日系人に州議会選挙権を与える法律を成立させた。こうしてBC州では法律的に日系人を差別する根拠がなくなった。15


1949年春までに日系人に残された問題は、戦時中の被害の賠償だけになった。この問題も解決の糸口が見えてきた。連邦政府は当初、日系人が損害を被ったことを否定していた。しかし、1944年当時からこのような作り話は維持出来ないと知っていた。そのうえ、敵性外国人資産管理局(CEP)が、フレーザー河流域の日系人の農地の 「退役軍人土地法」 事務局への一括売却は、公正だったかどうかを疑い始めた。土地の所有権が複雑だったために一括売却を免れた農地が、1944年までに、退役軍人土地法(VLA)事務局への売却価格よりずっと高く売れ始めたからである。1946年6月までに65件のこのような農地がカナダ人個人に売却されたが、売却価格の平均はVLA事務局の提示価格の2倍以上であった。この差は戦時のインフレだけでは説明出来ないほど大きかった。16 日系人は自分たちの資産が適正な価格で売却されたかどうかを判断する詳細なデータをCEPほど持ってはいなかった。しかし、日系人農家は既に、VLA事務局が市場価格よりずっと安く自分たちの農地、家屋、商店を購入したことを知っていた。1942年に強制的に立ち退かされた時、近隣の農家が自分達に売ってくれと申し出た価格が、VLA事務局の提示価格よりずっと高かったからである。そのうえ、売却額から日系人が受け取った生活保護費を差し引かれたので、手元に残ったのは少額だった。そのため、日系人は農地の売却過程のどこかで誰かが不当な利益を得たとか、賄賂を受け取ったか、政府の管理がいいかげんであったとかいう噂を信じた。17

1946年の秋、トロントの「日系カナダ人デモクラシー委員会(Japanese Canadian Committee for Democracy:JCCD)」は、日系人の資産売却価格が適切ではなかったという噂を検証するために、トロントに再定住した198家族の資産売却による経済的損失の調査を行なった。これらの家族に、全ての経済的損失を出来るだけ正確に、しかし控えめに推定することを依頼した。また出来るだけ正確を期すために、これらの家族の資産について詳しい一世や同じ商売をしていた人に助力を要請した18

調査結果は自分たちの資産が安く売られたと一番強く疑っていた人達も驚かすものであった。198家族の戦前の資産の総額は160万ドルであった。このうち1946年までに130万ドル相当が売却された。しかし198家族が受け取った金額は50万ドル余だった。売却額と資産の市場価値の比率は資産によって異なった。資産のうち、当時の市場価格と比べて一番売却価格が高かったのが自動車で、市場価格の55パーセントだった。商店、個人の持ち物、フレーザー河流域の農地が市場価格と比べて実際の売却価格が一番低かった。商店の売却価格は、日系人所有者自身が、BC州からの追放中またはすぐあとに売却した物件が一番高く、時間がたつにつれて低くなった。持ち主が追放されて無人のまま放置されたり、CEPが多忙で商店の面倒をみられなかったりしたためである。個人的な所有物は、追放が決まってすぐに売却したほうが、バンクーバーに戻ることを予想して教会などに保存しておいて、CEPが後に売却したより、すこし値段が高かった。これと対照的にトラックや乗用車は、日系人が1942年の春に追放が決まった時に急いて売り払った価格の方が、後にCEPが売却した価格より少し低かった。日系人が一度に大量のトラックや乗用車を売り払おうとしたので、価格が下がったためだった。日系人が個人で、日系人の売却物で溢れた市場で売却した資産は、全体の資産価値の16パーセントで、残りの84パーセントはCEPが売却した。日系人漁師の漁船は日系人漁船処分委員会が売却した。

これら198家族の経済的損失は驚異的であった。資産の経済的損失が80万ドル、その他の経済的損失が30万ドルあった。これは、行方のわからなくなった資産、盗まれた資産、壊された資産から生じた。これに強制追放のために失った収入、賃銀、その他を入れると、198家族の損失は1942年から1946年の5年間で400万ドル近くになった(別表5, 6, 7 を参照.)

「経済的損失調査」は、日系カナダ人デモクラシー委員会(JCCD)と白人カナダ人支援者が、日系人の資産の売却は適切ではなかったと主張する確固とした証拠になった。1946年当時米国では、日系アメリカ人の戦時中の経済的損失を保障する「強制移動補償法(Evacuation Claims Act)」が、米国議会に提出されていた。JCCDと日系カナダ人共同委員会(CCJC)は、経済的損害調査報告書と強制移動補償法を根拠として、連邦政府に日系人の経済的損失の調査を要請した。また、連邦政府が主張するであろう、「大量の日系人資産が一度に売却に出されたので、通常の適正市場価格を確保することが出来なかった」ことは認めたうえで、日系人資産の強制売却が行われた状況が、正義に反するものであることを、連邦政府が認めることを要求した。19

連邦政府はJCCDの要求にたいして政策を弁護した。日系人の資産売却時に不正が行われたと認めることは、戦時中と戦後の日系人政策のすべてが不正であったと認めることにつながると考えた。連邦政府はこれを認める用意が出来ていなかった。連邦政府は、日系人の経済的損失の賠償問題が世論と政治的議論で大きくなることを嫌ったが、一般カナダ人の間には、日系人にある程度の賠償をすべきだ、という考えが広まっていた。BC州の日系人排斥主義政治家でさえ、日系人がある種類の経済的損失を被ったことと、これらの損失は補償されるべきだと認めた。20 問題は、連邦政府が日系人のどのような経済的損失を認めるかに絞られた。直接的な損失だけでも6種類あった。(イ)敵性外国人資産管理局が日系人の資産を市場価格より安く売却した損失、(ロ)敵性外国人資産管理局が管理していた資産の盗難による損失、(ハ)資産を一斉に売却したために価格の下がった損失、(ニ)商売を止めたために生じた損失、(ホ)追放されたために受け取れなかったいろいろな保険金の損失、(ヘ)雇用を失ったことによる損失、であった。21 連邦政府がこれらの直接的な損害をすべて認めれば、補償金が巨額になるだけでなく、これらの損失を生じることになった政府の日本人強制移動政策そのものの不当性を認めることになった。連邦政府は、賠償をしなければならなくなった時の費用を最小限にするために、(イ)と(ロ)だけを調査することを、「日系人送還・再定住に関する内閣特別委員会」で決定した。そして、このための内閣令の原案を1947年4月21日に用意した。22

しかし、この内閣令は発令されなかった。内閣令案が準備されていた1947年4月に、協同連邦党は、敵性外国人管理局の業務を内閣会計委員会に監査させることに成功した。会計委員会は、資産管理局が日系人の農地を、 「退役軍人土地法」 事務所に売却した事例を審査した。そして、資産管理局に事務上の不正行為があったと結論した。1947年6月17日、会計委員会は王立委員会を設置して、日系人の資産の紛失と公正な市場価格以下で売却されたことによる損害を調査することを勧告した。23

会計委員会の勧告は、王立委員会を設置して日系人の経済的損失を調査するというものであったが、実際に1947年7月18日に設置された委員会は、まったく日系人には役に立たないものだった。それは1947年4月から7月までの間に、王立委員会の調査の内容を規定した内閣令案が、何の説明もなく書き換えられていたからであった。新しい内容では、日系人への賠償は、資産管理局が明らかに管理責任を無視したこと、または十分な管理をしなかったことを法律的に証明出来たときだけに賠償を払うというものだった。これは実際には不可能なことだった。24

日系人と支持者は王立委員会の調査規約の提案に怒り、1947年8月下旬にまたオタワに陳情した。日系人の代表は、カナダ政府は少なくとも米国政府の日系アメリカ人への補償と同様な賠償を、日系カナダ人に対してもすべきだと抗議した。調査対象が、内閣の会計委員会が勧告した対象より狭められていることも指摘した。日系カナダ人共同委員会(CCJC)の弁護士アンドリュー・ブルウィンは、もし連邦政府が日系人の要求を受け入れないならば、王立委員会への協力を拒否してその理由を公表する、と連邦政府に警告した。25 法務大臣イルスレイは、急いで内閣と相談すると答え、約束通り9月17日に内閣を説得して、調査の対象を、敵性外国人資産管理局(CEP)が売却したすべての日系人の資産およびCEPとその下請けが管理していた時に盗まれた資産に拡張させた。26 さらに調査の対象をCEPの事務の精査に限ることで、日系人資産の強制売却の責任をCEPの責任にして、政府の責任が問われないようにした。連邦政府は調査の対象を日系人の財産没収、売却の事務手続きに限定して、連邦政府の政策そのものを調査の対象にすることを防いだ。これで、調査で何が見つかっても、連邦政府が政治的に困惑するような事態にはならないようにした。

この王立委員会の新しい調査対象の規定は、日系人にとって理想とはかけ離れていたが、すくなくとも資産を持っていた日系人の多くを対象とすることになった。また、たとえこの賠償の調査が限定されたものでも、あとでもっと広範囲の対象の賠償の要求を連邦政府に出し続けていけばよいと判断した。日系人は新たに「全カナダ日系市民協会(National Japanese Canadian Citizens’ Association:NJCCA)を設立して、CCJCと共に王立委員会の調査に協力することにした。調査の中で損害を証明する証拠が出てくれば、王立委員会はもっと広範囲の調査が必要なことを納得するだろうと、日系人は期待した。27


BC州判事のヘンリー・アービング・バードが、王立委員会の委員長に任命されると、CCJCとNJCCAは、カナダの歴史に前例のない司法手続きを始めた。司法問題に関する政府委員会が補償問題を調査したことは以前にもあったが、これほど大量のしかも種類の異なる請求を審査したことはなかった。賠償の請求者はカナダ全国に分散していた。またそれぞれの請求が、戦時下という特別な状況のもとで売却された資産についてであった。大量のしかも種類の異なる損害の査定という実務上の問題の他に、法律的な問題も複雑だった。加えて、予期しなかった追放という状況で放棄され、1年から4年経過してやっと売却された資産の適正な価値を決めるという問題もあった。

王立委員会による日系人資産の調査は、日系人の協力とカナダ全国に分散した日系人間の連絡網があったことで可能になった。日系人全国連絡網は、日系人が強制的に全国に分散させられたときに、主にトロントに移住してきた二世が、日系人の利益を代弁するために作った。1947年までに、カナダ各地の日系人組織は、日系人が戦後カナダ人としての平等な権利を獲得するためには、皆で一緒になって努力する必要があることを認識していた。1947年9月に日系カナダ人デモクラシー委員会(JCCD)は解散して、その委員はNJCCAトロント支部に合流した。カナダ各地で同様なことが起こり、地域の日系人組織が州の執行委員会、全国執行委員会に合流していった。全国執行委員会はトロントが基盤になり、以前のJCCD委員が参加した。そしてNJCCA執行委員長のジョージ・タナカが、王立委員会の日系人資産賠償請求の調整係になった。

全カナダ日系市民協会(NJCCA)は日系カナダ人共同委員会(CCJC)と一緒に、日系人が賠償請求をするための法律的、事務的、経済的な支援組織を作った。また法律事務の費用を削減し、全ての補償請求を十分に提出できるようにするための基金を作った。賠償請求をする人は、もし可能なら請求額の1パーセントを基金に寄付した。これで多額の請求をする人が、請求手続きの費用を捻出できない人を助けるようにした。基金が設立されると、NJCCAとCCJC は主要都市で弁護士を雇い、地域のNJCCA支部の支援を得て、賠償請求書を印刷して、カナダ中の日系人組織に配布、収集して王立委員会へ提出した。日系人追放、分散の危機の際に日系人の弁護士をしたトロントのアンドリュー・ブルウィンと、バンクーバーのロバート・J・マックマスターが、日系人との以前との関係を維持して、賠償請求手続きの法律面の仕事を受け持った。不動産鑑定士、統計専門家、農業専門家が賠償請求データ作成を支援して、賠償請求の根拠を確実なものにした。王立委員会は7,086件の不動産と個人所有物を含む1,434件の賠償請求を審査したが、この内1,100件はNJCCAとCCJC顧問団が準備した請求であった。ほかに200件が南アルバータ日系人協会顧問のグラドストーン・バーチュー弁護士事務所で準備された。南アルバータ日系人協会は、主に一世が会員の協会で、王立委員会が設立される前から賠償請求の準備をしていた。残りの賠償請求の大部分は、法人からの賠償請求で、その多くは法人の戦前の弁護士が賠償請求の準備をした28

BC州判事バードの王立委員会委員長への任命は、初めはCCJC を心配させたが、すぐにバードが日系人資産売却時の状況を、よく把握していることが分かって安心した。バードは日系人に厳しい判断を下し、また審査が長引くのを嫌ったが、判断には融通性があった。日系人が少数しかいない地域では、それぞれの地域で副判事が判断を下したが、融通の効かない人が多かった。1947年12月までに、法律的な審査は終了した。このときまでに、バードと賠償請求者弁護団との間には信頼関係が出来上がっていた。

バードは賠償請求者弁護団に敬意を払ったが、弁護団の法律解釈を受け入れたわけではなかった。弁護団は資産の公正な市場価格として、日系人が自分の家から追放された時の資産の状態に基づく市場価格を主張したが、バードは受け入れなかった。バードは資産の公正な市場価格は、実際に資産が売却された時の資産の状態に基づいた市場価格とした。もし資産が1年から4年のあいだ放置されたり、貸借人に乱用されて市場価値が下がれば、それが公正な市場価値だとした。弁護団は商店の「のれん価値」と、CEPが回収しなかった商店の売掛金も、補償の対象に入れることを要求したが、バードはこれらは王立委員会の調査対象外のものだとして、賠償の対象から外した。しかしバードは日系人の資産で行方知らずになったもの、盗まれたもの、壊されたものについては、資産管理局がその記録を持っていなくても賠償の対象にするべきだという弁護団の主張を受け入れた。弁護団は賠償の対象に法人の経済的損失と、CEPが資産売却費用として差し引いた金額も入れるようにと、法務大臣イルスレイに要請したが、バードはこの要請も支援した。そしてこの二つは賠償に含まれることになった。29

日系人の弁護団はバードが賠償を認めなかった損失に落胆した。しかし一方で、連邦政府国務省は弁護団が王立委員会に賠償を認めさせたケースに困惑した。1948年1月、連邦政府はCEP元バンクーバー支局長G・W・マクファーソンを、カムループスで開かれていた王立委員会の審査会に派遣し、連邦政府弁護士J・W・G・ハンターを連邦政府の意図に従わせた。ハンターは正直で公平であるとして日系人弁護団から好意をも持たれていた人物だった。マクファーソンは、1942年に連邦警察副長官のF・J・ミードが「日系人憎悪者」として烙印を押した人物であった。彼は当時のままの排日主義者であった。日系人弁護団の一人のロバート・J・マックマスターは、マクファーソンについて次のように言っている。「マクファーソンは連邦政府の弁護者で、この審査が公正を期すかどうかより、審査結果の政治的影響の方に関心を持っていた。」また、「連邦政府国務省は王立委員会の調査で、敵性外国人資産管理局の行なった売却を正当化する意図をもっていたが、かえって日系人の経済的損失の賠償を正当化してしまうことを恐れていた30。」 とも言っている。30

1948年を通じて審査はゆっくり進んでいた。しかし、それぞれの請求を審査していくと、全ての請求の審査を終了するのに、数年かかることが明らかになった。日系人弁護団もバードもこのようにはしたくなかった。バードは早く本来の仕事のBC州裁判所の判事に戻りたかった。日系人弁護団も審査が長引けば、日系人の申請者が負担する審査費用が増加して、賠償金を受け取っても多額の審査費用を差し引かれることを心配した。また申請者の中には高齢の人が多く、賠償金を受け取る前に亡くなる危惧もあった。

1948年中を通じて、審理を早く終了させる方法がいろいろ討議された最初に提案したのはバードだった。1948年3月にバードは、請求権が無いとバードが判断した賠償請求のリストを作り、連邦政府弁護団がこのリストを使って請求権の有無を審査して、請求権の無いものを審査対象から除外すると提案した。日系人弁護団は、証拠の審査の始まる前に請求権の有無を判断するという提案に驚愕して、この提案に強く反対した。提案は取り下げられた。31 このような提案が出されたことで日系人弁護団は、審査を短縮したほうが望ましいという意見に傾いていった。

1948年6月までに、この問題解決の糸口が見つかった。バードはそれまでに、日系人が経済的損失を被ったことを認めていた。バードは 「退役軍人土地法」 のために売却された農地については、全ての農地について売却価格の一定のパーセントの賠償を提案した。日系人弁護団はこのような単純な賠償方式は阻止しようとしたが、損失の種類別の賠償方式には興味を持った。8月、バードは自分の提案を拡張して、損失の種類別にサンプルをとって一定の賠償率を決定するという提案を出した。この提案に全カナダ日系市民協会(NJCCA)執行委員会は疑いを持ち反対して、あくまで個々の事例に対しての審査を要求した。バードは1948年9月、以下の最終提案をした。全ての損害賠償請求を綿密に査定する。しかし、政府弁護団と日系人弁護団が同席して審査するのではない。日系人弁護団はそれぞれの種類の損失について、幾つかの申請を選んで審査の場で議論する。この審査の結果を踏まえて、バードがそれぞれの損失の種類別に、一括した賠償方法を提案する。弁護団はそれぞれの種類の損害賠償について、バードの提案した賠償の決定方式を使って全ての申請につき審査する。その結果をもとにして、連邦政府弁護団と日系人弁護団が共同で、両者が同意した申請の分別と賠償額をバードに勧告する。特殊な損害の賠償については、日系人弁護団がバードに申請して、個別の公開審査を行う。32

日系人弁護団はこの提案を、NJCCAとCCJC の賛成を得て受け入れ、それぞれの種類の賠償請求の正当性を弁護する作業に入った。賠償請求が日系人に有利になるかどうかは、日系人弁護団の技術的議論如何にかかっていた。弁護団が一番強く賠償請求を主張できたのは、 「退役軍人土地法」 (VLA)のために売却された農地であった。最も弱い主張しか出来なかったのがバンクーバー市内の不動産であった。前者について日系人弁護団はバードに次の事情を納得させた。VLA事務局の不動産鑑定士は、事務局が日系人の農地を安値で買い取りたいことを不動産の鑑定前に知っていた。鑑定人は、農地鑑定の経験が不足していて農地の農業価値についての知識に乏しかった。日系人弁護団は日系人農地の実際の市場価値を証明する確固とした統計を持っており、その内の幾つかについては白人農家の比較できる農地の販売価格も手に入れていた。南アルバータのレスブリッジではグラドストーン・バーチュー弁護士事務所が、住宅地に隣接した農地には将来も住宅地としての価値があったことをバードに納得させた。33

バンクーバー市内の日系人不動産売却に係る損失賠償請求の主張は、VLAのために売却された農地の損害賠償に比べると証拠物件が弱かった。日系人の不動産売却に先立って、バンクーバー地区諮問委員会は綿密に不動産価値の調査を行なっていた。委員会は、当時バンクーバーにいた不動産鑑定士で経験豊富な人のほぼ全員を使って、日系人の不動産価値を査定した。バードはこれらの不動産鑑定士を知っていて、信用できる人物と考えていた。このため日系人弁護団は、バンクーバー地区諮問委員会の雇った不動産鑑定士の技量について、議論することができなかった。それで自分達で雇った不動産鑑定士の意見と、賃貸していた不動産は人為的に10パーセント低く査定されたという議論を駆使した。実際、バンクーバーの日系人は不動産を信用できる人に市場価格より安く貸していた。また戦時中は賃借人を不動産から追い出すことは禁止され、賃貸料をあげることも禁止された。このような事情があるので賃貸されていた不動産の市場価格が安く査定された、と弁護団は主張した。バードは日系人弁護団の主張を拒否した。日系人弁護団が雇った不動産鑑定士による不動産査定価格も高くなかったこともあり、バンクーバーの日系人の不動産売却による損失の賠償額は少なかった。結局、賠償額は不動産売却の手数料だけになった。連邦政府弁護団は、売却手数料を不動産売却額の10パーセントとしてバードに勧告したが、バードは5パーセントに引き下げた。34

1949年2月までに、バードは暫定的な賠償額を提案する準備が出来ていた。バードの賠償額の判定は、高いものでは、BC州ミッションの農家資産への賠償額が、申請額の125パーセントだった。しかし、低いものでは、競売で売却された家財道具の賠償額が、申請額の10パーセントであった。バードは特別な種類の損害も賠償した。法人の損害請求には全額で30万ドルを割り当てた。またバードは、日系人弁護団の弁護費用の一部を連邦政府が支払う、という提案をするつもりであった。日系人弁護団が審査に協力的で、審査の時間を短縮したというのがその理由であった。35

バードの提案には、日系人に有利になるものも含まれていた。例えば、VLA事務局に売却した農地と漁船、漁網と漁のための道具類は、日系人が申請した証拠書類に基づいた価値が認められた。賠償のパーセントが低いものもあった。バンクーバー市内の不動産の賠償金額は非常に低かった。しかし、日系人弁護団はこれに反論する証拠を集めることが出来なかった。バードの賠償提案には、王立委員会の審査権限外とするものまで含まれていた。バードの見解によれば、バンクーバー市内の不動産、漁船、家財道具の売却は正当に行われたので、市場価格を反映していた。そしてこれらの賠償請求についてバードが提案した賠償額は、物件の売却を取り扱った不動産業者、入札業者に対して日系人が払った手数料だけだった。36

日系人にとって、バード提案の一番の利点は、損害賠償審査が短時間で終了することと、証拠が弱い事例まで賠償に含まれていたことだった。申請を一つ一つ審査するには数年かかり、結局は賠償額が少なくなる可能性があった。日系カナダ人共同委員会(CCJC)の弁護士ブルウィンの推定によると、申請の25パーセントは、法的には正当ではあるものの精細な審査をすれば、証拠不十分で賠償の取れない事例になった。これらのことと、日系人弁護団の弁護費用の一部を連邦政府が肩代わりするというバード提案、一世の高齢者で亡くなるものが多いことなどを考慮して、NJCCAとCCJCはバードの提案を受け入れる他に選択の余地はないと判断した。

NJCCAとCCJCはバードの提案を受諾したが、いくつか留保があった。日系人の賠償問題を、バード委員会で終了するつもりはなかった。またバードの提案に満足していたわけでもなかった。特に、バンクーバー市内の不動産の損害賠償が、売却価格の5パーセントということと、バード委員会の損害審査の範囲が限られていたことに不満だった。バード委員会の審査中に、日系人組織は会としてもまた会員個人としても、バード委員会の審査の範囲を広げることと、バンクーバーの不動産の賠償金額を増加することを連邦政府に働きかけた。具体的には、次のような損害賠償をバード委員会が審査するように、連邦政府とバード委員会に手紙や要望書を出した。適性外国人資産管理局(CEP)が管理していた日系人の預金の利子の返還、通常の売却ではなく強制売却による損害、強制的に中止された保険金の損害、法人の未回収の売掛金、漁船売却委員会によって売却された漁船の損害賠償などであった。38

NJCCAとCCJCは両者とも傘下の日系人グループから、バード提案を拒否するようにという圧力を受けていた。トロントではバンクーバー市内の175か所の不動産の所有者で構成される組織「トロント損害賠償委員会(Toronto Claimant’s Committee:TCC)が、バンクーバーの不動産の損害賠償がわずか売却額の5パーセントに設定されたことに不満を持っていた。この組織の人達は、損害賠償額が増額されなければ提案を受諾しないと主張した。TCC はバードに批判的で、自分達の立場を支援する人を集めるために 『ニュー・カナディアン』 紙への投稿や会合を開いた。しかしバード提案について日系人の世論調査を行うと、圧倒的多数がバード提案の受諾に賛成した。そして、バンクーバーの不動産の損害賠償については強い不満があったが、1949年5月半ばに、NJCCAとCCJCはバードの損害賠償提案を正式に受諾した。39

バード委員会は、特別な事例についての結論と最終報告書の作成に、更に一年かけた。1950年4月、ついにバード委員会の報告書が内閣に提出され、6月14日に連邦政府議会下院に提出された。その日のうちに連邦政府は損害賠償額1,222,829ドルを支払うと公示した。その後、特別な損害についての賠償15万ドルがバードの勧告で支払われた。その内訳は、CCJCのバード委員会参加費用に、法律手続き費用以外の費用として57,000ドル、最初に王立委員会に定めれた審査範囲以外の損害賠償に93,000ドルが支払われた。40 法人の損害賠償を除くと、賠償金は損害請求額の56パーセントになった。しかし日系人は、これから裁判費用を払わなければならなかった。日系人の裁判費用の一部を連邦政府が負担するというバードの勧告を連邦政府は拒否した。41


バード委員会を設置して賠償額を受け取ることに成功したことは、日系人の賠償請求問題を終了させてしまうことになった。1950年の春、バードの提案が連邦政府内閣に承認されるのを待つ間に、NJCCAはオンタリオ州人権委員会に日系人賠償請求を継続することを相談した。しかし人権委員会の反応は冷たかった。たとえ審査範囲が狭かったにせよ王立委員会がすでにこの問題の調査を完了したことで、カナダ人は日系人の資産売却の不正は正されたと理解するであろうから、これ以上の賠償を求めることは不可能とは言えないが、極端に難しいであろう、という返答だった。42

1950年6月に賠償額が公示された頃には、NJCCAとCCJCは会員が縮小して幹部だけになっていたが、再度、バード委員会で問題は終了したわけでないという主張を繰り返した。新聞に声明文を掲載して、連邦政府が資産を強制売却した時から現在までの損失利子訳注iを払うことを要求した。カナダで影響力のある新聞、『グローブ・アンド・メール』紙はこの主張に同情的であったが、カナダ人一般からの反響はなかった。43 1950年9月、NJCCAはもう一度内閣に要望書を提出して、バード委員会の審査は限定されたものだったとして、「賠償請求者が被った不正義を是正する」ことを要求した。44 具体的には、一般的な損害に対する補償、賠償金の利子の返還、強制売却による損害を調整する機関の設立、そして、その他いろいろな種類の損害に対する売却額のパーセントによる賠償を要請した。45

サンローラン首相の回答が、日系人資産売却賠償問題に幕を下ろした。サンローランはNJCCAに対するバード委員会の提案が、いまやカナダ連邦政府の負担になっている戦時中の日系人政策に終止符を打つものと考えた。サンローランは次のように述べた。「連邦政府はバード委員会の勧告を受諾し、日系人に賠償金を支払った。これで連邦政府は日系人およびカナダ人一般に対する義務を果たしたと考える46 。」連邦政府に関する限り、日系人資産の強制売却損害賠償問題は終了した。カナダ人一般の強力な要請がない限り、連邦政府には政治的駆け引きの犠牲となって無実な人種的マイノリティが被った被害を補償する必要性はなかった。しかし日系人による連邦政府の態度を変える努力は1980年代まで続いている(「その後:日系カナダ人補償問題(リドレス)の解決」の章参照)。日系人は賠償金を受け取った時に、連邦政府をこれ以上の賠償責任から免責するという条項に署名したが、カナダ最高裁判所はこの条項を有効と判断した47 これでバード委員会を通して連邦政府に賠償を求めた1,434名の日系人は、法律的に連邦政府に賠償問題を再考させることが出来なくなった。法律的ではなく道徳的に再考を求めることはできる。しかしカナダ人の圧倒的な支持がなければ、道徳的な理由だけでは正義を求めるには不十分である状況が現在まで続いている。訳注ii

訳注:

資産の強制売却の時に、この賠償金が上乗せしてあったら、賠償問題が解決するまでにこの賠償金にあたる金額が利子を稼いでいた筈である。(戻る)

「現在」とは、著者がこの本の第一版を出版した1981年までの状況である。その後の日系人と連邦政府の関係については「その後:日系カナダ人補償問題(リドレス)の解決」の章を参照のこと。(戻る)