人種主義の政治 アン・ゴマー・スナハラ 著

第7章日本追放との戦い

連邦議会を無視して日系カナダ人(以下、日系人)の追放を選んだキング首相とその内閣は、二つの大きな間違いを犯した。第一に、イアン・マッケンジーとそのブリティッシュ・コロンビア州(以下、BC州)の仲間の日系人追放の声高な要求に注意を奪われて、日系人の運命を左右するのが、最早BC州だけの問題ではなくなっていたことに気付かなかった。第二に、1945年の日系人マイノリティは、1942年、1943年とは非常に異なった環境にいることにも気付かなかった。1942年、1943年当時の日系人は、誰も擁護者がなく、社会の除け者として、カナダ国家の裏切り者のレッテルを貼られていた。しかし、1945年には日系人には確固たる擁護者がいた。

キング首相と内閣は、日系人擁護の急先鋒である協同連邦党(CCF)議員28名の存在は承知していたが、トロントで「日系カナダ人共同委員会(Cooperative Committee on Japanese Canadians: CCJC訳注i」を中心にして地道に日系人擁護と支援のためのロビー活動を行う人たちが増えていることを過小評価していた。このグループは1943年に独身日系人女性のトロント移住を支援するために、「キリスト教女子青年会(Young Women’s Christian Association:YWCA)」が始めた計画が発展したものだった。1  この計画が策定されてから数ヶ月以内に、YWCAの役員は幾つもの宗教グループと一緒になって、トロント地域に移動してくる日系人に社会サービスを提供するためにCCJCを作った。CCJCの委員は個人的に活動して、日系人が東部カナダの生活に適応するのを助けた。2

日系人がロッキー山脈以東のカナダに分散することは、移民はカナダ社会に同化するのが良いと信じるCCJCの委員たちに受け入れらた。現在の多文化主義の考え方がカナダで主流になるまでは3 訳注ii、大部分のカナダ人は、非アングロ・カナダ人はアングロ・カナダ人社会に完全の同化することが望ましいだけでなく、必要であると考えた。文化的同質性は国家の安定に必要であり、新移民は母国の文化を棄てるものと期待された。当時のカナダの自由主義者と人種差別主義者との違いは、前者が移民はカナダ社会に同化出来ると信じているのに対して、後者は同化出来ないと信じていることだった。4

また自由主義者は、移民マイノリティはカナダ社会に同化するために、地理的に分散して生活しなければならないと信じていた。移民が一ヶ所に集中して生活すると、母国の価値観と生活様式をいつまでも継承する。そしてこの移民集団の特殊性が目につくので、白人カナダ人の人種差別を引き起こす。したがって人種主義と差別の責任は、主としてカナダ文化に同化することに失敗して差別される非白人マイノリティ自身にある。彼らがカナダに分散して生活すれば、人種差別はなくなる。自由主義者はこう考えた。日系人も、早くアングロ・カナダ人の価値観に同化して、自らの努力で「日系人問題」を解決する義務がある、と考えた。後に社会学の専門家は、社会悪の原因を被害者の責任にするようなプログラムを「被害者を非難する」論理だとした。5 しかし1940年代のカナダの多くの自由主義者は被害者が社会問題を解決する責任を負うのは当然のことと信じていた。

そしてここで大切なことは、被害者が自由主義者の主張に同意したということである。同化主義はカナダの公立教育制度、メディア、教会関係者などによって両大戦の間に積極的に促進された。1930年代、二世の指導者と一部の一世達は同化運動を推進した。そしてこの人達は、野心的な二世に中部カナダ、東部カナダへ移動することを奨励した。これらの地域では人種差別が少ないと考えられていた6。太平洋戦争の勃発とともに、日本的なものはすべてが糾弾の対象になった。日本の伝統文化を破棄せよという社会的圧力も強くなった。このような状況下で、BC州から移動した日系人の多くが、とくに二世が、カナダ各地への分散とカナダ社会への同化が、日系人問題の解消に必要だと信じたのも無理ないことだった7

1944年までにトロントのCCJCと二世の顧問は、日系人をカナダ各地に分散させるには一層の努力が必要だと気が付いた。さらに、収容所の日系人の状況がますますひどくなっていると感じ、急いで収容所から出て、カナダ各地に分散再定住する必要があると思った。収容所で日系人は主に日本語を使い、日本の習慣に従って生活し、日本国粋主義者の影響を受け、日系人以外との接触を絶たれ、ますます貧困に陥って、生活が投げやりで無気力になっており、今すぐ解決策を出す必要があると思われた8。そのために、1944年、CCJCは連邦政府に対して、収容所の日系人をただちにカナダ各地に分散させて、公民権とくに不動産の取得権利の回復を要求する請願運動を始めた。

しかし請願運動はすぐに困難に直面した。東部カナダの住民は、戦時中の日系人への差別の実態を何も知らないか、たとえ知っていたとしても、連邦政府は日系人に対して適切な対処をしている、と思っていることが分かった9。連邦政府が今まで日系人に何をしてきたのか、現在何をしているかを知る人はほとんどいなかった。

カナダ東部における日系人に対する無知をなくすために、委員会は広報活動を始めた。教会関係とバンクーバーの「戦時下カナダ市民権問題協力委員会(Consultative Council for Cooperation in Wartime Problems of Canadian Citizenship)」の支援を得て、日系人の現状を説明した小冊子『愛国主義と政治指導者への挑戦』(A Challenge to Patriotism and Statesmanship)を1万部配布した。この小冊子は、日系人に対する誤解を解き、収容所の現状を伝え、日系人のカナダ全土への分散を訴えた。連邦政府は日系人の資産をBC州で売り歩くことを中止すべきで、日系人の資産を買うカナダ人は、カナダが日本と交戦中だから、モーゼの十戒の一つの「隣人の家を貪るなかれ」を日系人に対して一時停止してもよいと思っている、と主張した。10 小冊子は連邦政府は日系人がカナダ中に分散することを、「経済的に可能にさせるだけでなく、魅力のあるものにすべきだ」と訴えた。11 連邦政府は日系人の資産を没収して、公正な市場価格で日系人に代わって売却し、日系人が不動産を取得する権利を回復し、カナダ各地で生活の基礎をつくるための基金を創設すべきだと訴えた。日系人がカナダ各地に分散して不動産を取得すれば、戦後BC州に大挙して戻ることもなくなり、バンクーバー以外の土地で、再び日本人街を作ることもないと結論づけた。12

1944年6月、この日系人の現状をカナダ人に知らせる運動は、連邦政府から予期していなかった助力を受けることになった。13 カナダと交戦中の敵国を母国とするカナダ人の選挙権を剥奪しようとして、連邦政府は図らずも、日系人の窮状を一般のカナダ人に知らせてしまった。 「カナダ兵士選挙権法」の論議で、日系人に対する明らかな人種差別があることがわかってから一ヶ月もしないうちに、キング首相は、日系人はカナダに対するいかなる不忠誠な行為も犯したことはない、と認めた。この二つの出来事に自由主義的な新聞と、新しく設立された「オンタリオ州市民権協会」は動揺した。そして1944年になって、自由主義的な新聞と市民の自由主義活動家は、ようやく日系人に罪はないこと、日系人の人権がどれほど蹂躙されたかを理解した。しかし両者とも、連邦政府による日系人の市民権の蹂躙にたいして抗議する用意はまだ出来ていなかった。先ずは進行中の戦争に勝利することが優先で、日系人問題は戦争が終わってから対処すればよいと考えた。

兵士選挙権法に関連した論争は、トロントの日系人に新しい指導層を生み出すきっかけになった。1944年までトロントの二世は新しい生活に順応するのに忙しくて、日系人社会で指導的立場になるつもりはなく、自信もなかった。二世は、もし自分たちが白人カナダ人に良くない印象を与えれば、これからトロントに落ち着こうとしている日系人の努力を無駄にするかも知れないと恐れていた。1944年以前のトロントの二世は、自分達にカナダ人が注目することを極端に惧れていた。同じ道路沿いに集まって住まないよう注意し、同じ商店や工場で働くことも避けた。公衆の面前では英語だけを話した。またカールトン街合同教会の二世社交グループに参加しない者もいた。二世が集まって自分たちだけで固まって、何か良からぬことを相談していると白人に思われるのを避けるためだった。

しかしながら1943年には、トロントの二世は日系人の人権に関心を持つカナダ人と協力して、日系人の定着と市民権の回復を達成するための組織を作る必要があると考えた。日系カナダ市民連盟(JCCL)の旧会員数名がトロントで「日系カナダ人デモクラシー委員会(Japanese Canadian Committee for Democracy:JCCD)を設立した。JCCD結成後、二世は自信を取り戻し1944年6月に連邦政府にカナダ兵士選挙法の中の日系人の選挙権を否定する条項の削除を求める要望書を提出したが、失敗に終わった14。JCCDは小さな組織で日系人の大多数にその存在すら知られていなかったが、1944年にはもし将来機会が到来すれば日系人の声を代表する組織として活躍する準備が出来ていた。

そのような機会が1945年の春に訪れた。連邦政府が日系人の日本への送還調査をBC州の収容所で始めてから数日もしないうちに、連邦政府が日系人に日本送還を希望するように強要しているというニュースがトロントに届いた。送還調査申請書に署名して日本に行くか、それとも署名しないでBC州での現在の仕事を失い、家族と別れて東部カナダに行くか、の二者択一を迫られている、とBC州の収容所の友達から知らせてきた15。連邦政府の意図を疑って憂慮したJCCDと白人同志は、直ぐに組織化に向けて行動を開始した。

1945年5月下旬、JCCDと20の白人組織代表が「日系カナダ人共同委員会(Cooperative Committee on Japanese Canadians:CCJC)」を全国的組織にするために一堂に会した。この委員会は6月19日に正式に発足し、すぐに30余りの組織が参加することになった。参加した組織は、カナダ中の主要な教会、労働組合、市民の人権団体、専門家団体、「女性のための全国連盟」、「カナダ・ユダヤ人連合」16 などであった。CCJCはカールトン街合同教会牧師のジェームズ・フィンレイが委員長になり、全てのカナダ人が反日ではないこと、多くのカナダ人は、戦時中の連邦政府による日系人の虐待に困惑していること、をカナダ人に広く訴えた。CCJCは、政府の日系人に対する送還調査やさまざまな抑圧的制限を強く非難する嘆願書を配布した。7月にはオタワへ代表団を送り、日系人の送還政策を中止して、日系人が不動産を購入できるように連邦政府の説得を試みた。またカナダ人の教育活動を拡大して『市民から難民へ、今カナダで起きていること』(From Citizens to Refugees —It's Happening Here!)という小冊子5万冊を配布した。カナダ中の同様な団体に呼びかけて、それぞれの団体が日系人の現状について、地元メディアによる啓蒙運動を始めることも依頼した。17

日系カナダ人デモクラシー委員会(JCCD)も日系人社会の中で活発に活動した。収容所と平原州の既存の日系人組織と連携して、日系人からどのような理由で日本送還希望書に署名せざるを得なかったか、詳細な証言を集めた。18 またJCCDは新しい雑誌『二世問題』(Nisei Affairs)を発刊して、カナダ全土の 二世 を結びつけようとした。主に二世のために発行されていた 『ニュー・カナディアン』紙は、カスロー収容所で発行されているために検閲を受けなければならなかったが、トロントで発行された『二世問題』は、比較的自由に日系人問題を議論することができた。

JCCDの活動には制限があった。委員会のあった場所がトロントで、日系人の大多数がいたBC州や平原州から地理的に遠いことや、1945年に委員数が減少したことであった。1945年春、ようやく連邦政府は僅かな二世のカナダ軍入隊を許可した。アジアに展開する英国軍およびオーストラリア・ニュージーランド軍の日本語通訳としてであった。JCCDの委員はこぞって入隊した。最初に入隊を志願したのは、JCCDの主力委員であった。これらの二世には1940年にカナダ軍に志願して拒否された日系カナダ市民連盟(JCCL)出身で戦前指導的立場にあった会員が多かった。そのためJCCDの仕事は、委員長のキンジー・タナカひとりに重くのしかかった。タナカは日本国籍者だったので志願できなかった。

JCCD以外にも、日本送還に抗議を始めたグループがあった。スローキャンバレーの5収容所(ニューデンバー、ベイファーム、レモンクリーク、スローキャンシティ、ポポフ)の日系人委員会は合同して、バンクーバーの弁護士デニス・マーフィーに依頼して、連邦政府の送還調査は無効であるとしてBC州保安委員会(BCSC)をBC州最高裁判所に起訴した。しかしマーフィーは根本的な間違いをしていた。どの内閣令が現在でも有効であるか調査していなかった。マーフィーはBCSCが日系人を送還するのは、その権威外であると主張したが、BCSCは1943年2月にすでに解散していて、その業務は連邦政府労働省が受け継いでいた。被告がいないので起訴は却下された。19

裁判の失敗に失望したものの、カナダ各地の日系人委員会は運動を推進した。タシミ日系人委員会は、1945年8月にカナダ合同教会調停委員のJ・H・アーナップ牧師がタシミを訪問した時に、牧師から日系人支持の確約を得た。また、連邦政府へ請願運動を始めた。同時に 『ニュー・カナディアン』紙の編集者の勧めで2回目の訴訟を起こす時のための資金募集を始め、最後の頼みとして「がんばり(gambari)」精神による大規模な消極的抵抗運動を考慮した。編集者はこの運動が政府による強制的な日系人国外追放を阻止できなくても、カナダ国民に日系人に何が起こっているのかを知らせることができると考えた。20 ウィニペグでは日系人委員会が連邦政府への請願活動に力を入れていた。ウィニペグで影響力を持つ『ウィニペグ・フリー・プレス』紙は、日系人追放反対の立場を鮮明にしていた。一方トロントでは、新聞は一般的に日系人の抗議活動に好意的であったが、あまり積極的な立場は取らなかった。トロントの委員会の 一世二世 は連携して資金作りを開始した。スローキャンバレー委員会は日本追放反対運動を継続して、キング首相へ日本送還調査書に署名したが送還を望まない2,010名の嘆願書を送った。この請願書は奇しくも1945年12月15日、キング内閣が日系人強制追放の内閣令を発令した日にキング首相に届いた。21

JCCDとCCJC、そして各地の連盟は、日本送還阻止の目的を果たせなかった。抗議運動は1945年秋の日本追放政策の内容を少し緩和したものの、内閣には快く思われなかった。内閣はイアン・マッケンジーとハンフリー・ミッチェルの喚き立てる日系人追放に耳を奪われて、送還政策の緩和を求める嘆願を無視し、日系人1万人の追放を決定した。


日系人追放内閣令はCCJCに衝撃を与えたものの、予想されていたことだった。CCJCは1945年7月に労働大臣のハンフリー・ミッチェルに面会した際に、ミッチェルが日系人問題について、政府はBC州の住民の要求に従う、と明白に言明したのを聞いていた。22 日本送還の第一船は1946年1月半ばに予定されていた。CCJCとバンクーバーの戦時下カナダ市民権問題協力委員会は日本追放を止めるにはただちに行動しなければならなかった。そして、カナダ最高裁判所で争いたいと思ったが、これには連邦政府の承諾が必要であり、また最高裁での係争中に日本への送還が始まってしまう危惧があった。23 日系人追放反対ロビーグループは、目的達成のためには、連邦政府を強制的に自分たちと協力させる手段を必要としていた。

しかし連邦政府は協力することなく、直ぐにあらゆる手段で日本追放反対運動の妨害を始めた。日本追放が発表された翌週に、連邦政府日系人再配置局の責任者 T・B・ピッカーズギルは、おそらくオタワの連邦政府の命令により、BC州ホープ近くのタシミ収容所への、日本送還を拒否する日系人を支援する部外者の立入禁止を命じた。1945年12月28日、同盟国から戦時中のカナダの日本人の人権を保護する役目を担っていたバンクーバーの戦時下カナダ市民権問題協力委員会の弁護士ロバート・J・マックマスターが、タシミ収容所にいる依頼人に面会のためにタシミを訪れると、収容所に入ることを拒否された。マックマスターはいままで自由にタシミ収容所に出入りできたので、このピッカーズギルの妨害に驚いた。24

しかし、最終的に勝ったのはマックマスターだった。1945年12月31日に彼はついに政府の日系人「送還」を阻止する法的手段を発見した。日本「送還」は二つの段階を踏まなければならない。第1段階が「送還者」の「拘留」であり、第2段階が実際の国外追放であった。第2段階についての法律的な抗議は、連邦政府の承諾がなければ出来ない。しかし第1段階の拘留についての法律的な抗議は、連邦政府の承諾がなくても出来る。 戦時措置法 は起訴手続きなしの拘留を戦時だけに認めている。しかし太平洋戦争が終了した現在では、起訴なしの拘留は無効であると、人身保護の観点から裁判で争うことが出来た。25 もし裁判で負けたとしても、人身保護手続き(habeas corpus)により、裁判中は国外追放は出来ない。日系人の国外追放のための輸送船舶の予定はぎっしりと詰まっているので、国外追放を拒否する日系人の一人ひとりが裁判を起こせば、人権保護手続きにより国外追放政策は完全に中断してしまう。

何百人という日系人が、人身保護を裁判に訴えるということを知り、連邦政府はトロントの日系カナダ人共同委員会(CCJC)と交渉することに同意した。CCJCから依頼を受けた弁護士のアンドリュー・ブルウィンは、1946年1月4日に連邦政府法務大臣のサンローランに会い、CCJCの要求を提示した。「日系人の国外追放閣令はカナダの市民権に反する行為であり、CCJCに協賛する団体の精神と正反対である。さらに、日系人追放内閣令は憲法違反である。連邦政府の権限は敵性外国人の国外追放に限定されている。」またブルウィンは、カナダ市民の国外追放は国際法に違反するだけでなく、最近創立された国際連合において、自国民の追放は戦争犯罪とされた、とサンローランに釘を刺した。そして日系人の国外追放を決めた内閣令が合憲か違憲かをカナダ最高裁判所に付託することを要請した。26

しかしサンローランと法務次官のF・P・バルコーは、ブルウィンの法律論に動じなかった。 戦時措置法 (War Measure Act)が、内閣に「国家の安全、国防、治安、秩序、福祉を維持するため」にほとんど無限大な権限を与えていることを熟知していた。このような強大な権限を持つ 戦時措置法 に挑戦することは不可能であり、実際、過去に成功した例はなかった。ブルウィンの法律論も例外とは思えなかった。二人はブルウィンの法律的な挑戦は無視したが、CCJCを支援している人達の顔ぶれを無視することは出来なかった。支援者にはカナダ合同教会調停員A・W・アーナップ牧師、労働運動の指導者ジョージ・J・A・リー二―、出版業者B・K・サンドウェル、自由党上院議員A・W・ローバック及びケイリーン・ウィルソン、サスカチュワン州首相T・C・ダグラスなどがいた。このような影響力の強い人達が日系人を支援している以上、分別ある政府としてその要求を無視できなかった。バルコーは日系人追放閣令について、最高裁判所に急ぎ裁決を仰いでから、国外追放を本格的に実施するのがよいと内閣に進言した。27 内閣はこれを了承した。

今度はカナダ最高裁判所は速やかに活動した。日系人資産の強制売却の時の裁判のような遅延はなかった。連邦政府はこの問題を早く解決したかった。ブルウィンと憲法問題専門弁護士のJ・R・カートライトは、サンローランと会ってからわずか20日目に最高裁判所に召喚され、最高裁判所判事7人に意見を述べた。ブルウィンは、 戦時措置法は敵性外国人を「逮捕、拘留、排除、国外追放」出来ると規定している。そして、国外追放は「外国人を母国にもどすこと」と規定してある。しかし、カナダ市民である日系人は外国人でないので、日本へ国外追放できない。またカナダ市民の国外追放は、生命に関わる凶悪事件で有罪判決を受けたものに限定されており、それ以外は法律の人身保護の原則で禁止されている。人道的見地からも国際法に反するものであり、その上、国際連合で人類に対する犯罪と規定されている、と陳述した。連邦政府の弁護士は、連邦政府は 戦時措置法 が「国家非常事態継続権限法」(National Emergency Transitional Powers Act)第4条の下で延長されたことにより、カナダ市民及び敵性外国人を日本に追放出来る、また裁判所の介入無しに追放されたカナダ市民の国籍を剥奪する権限も与えられている、と反論した。28 最高裁での討議はわずか2日間で終わり、1946年1月25日判事は判決文を書くために閉廷した。

マックマスター、ブルウィン、カートライト達が、日系人の追放阻止のため法廷闘争を続ける一方で、CCJCとその支援団体は、新聞や教会を活用して日系人の支援を拡張していた。このグループは、日系人追放は政治的な決定であるから、カナダ人の中に日系人支援の輪を広げることが有効であると考え、1946年の1月から2月にかけて活動を続けた。それは、イアン・マッケンジーとその一派の主張を凌駕するような、大規模な世論を喚起することであった。カナダ全土で数え切れないほどの組織が、日系人支援の基金募集を始め、小冊子を配布し、集会を開き、教会で説教を行い、友人と隣人を説得し、キング首相と連邦議会議員に手紙を書いた。カナダの新聞界も日系人支持にまわった。追放反対グループのカナダ市民に対するメッセージは簡単なものであった。「カナダ市民である日系人の日本への追放は、カナダの民主主義にたいする攻撃であり、許されるものではない29 。」カナダ市民はこのメッセージに同意した。

それまで日系人のカナダ太平洋沿岸からの追放や資産没収などに無関心であったカナダ市民が、なぜ日系人の国外追放に反対の声を上げ始めたのか、その理由ははっきりしない。日系人の人権が侵害されると、自分達の人権や特権も侵害されるのではないかと恐れたのか、以前より日系人に対して寛容になったのか、ナチドイツによるユダヤ人死の収容所と日系人の虐待を結びつけたのか、理由はわからない。理由はともあれ、日系人団体とその支援者が展開した1946年1月と2月の日系人追放反対運動が、カナダ市民の間にウイリアム・リオン・マッケンジー・キング首相の長い政治生活の中で最大の自然発生的な抗議を引き起こしたことが重要であった。キングはこのようなカナダ市民の反応を無視できないことを分かっていた。30

日系人追放反対運動は、イアン・マッケンジーの政治力が1946年初頭までに弱まっていたことも幸いした。マッケンジーの政治力は要するにキング首相との親密な関係がその源であった。しかしキング首相との関係が、彼の虚栄心のために壊れてしまった。マッケンジーは1945年に英国に滞在していたが、1946年の新年の叙勲で英国枢密院の顧問官に任じられると確信していた。しかしそれが実現しないと分かると、責任をキング首相に転嫁して厳しく非難する手紙を書いた。これが二人の間に修復できない亀裂を作った。キング首相は、マッケンジーを神経の高ぶった、戦争に疲れた政治家だと見限り、もう閣僚の座にふさわしくないと判断した。31 それから数日の間に、キングのマッケンジーに対する評価は下落の一途をたどった。当時、マッケンジーの飲酒癖はますます深まり、頭が混乱していった。キングは日記にこう記している。「マッケンジーの印象は、溺れかけた人間が、必死に最後の藁にすがりついているようだ。生活は全く破綻してしまっているが、人前ではなんとか普通に振る舞おうとしている。〔中略〕しかし、マッケンジーの閣僚としての使いみちはなくなった。〔中略〕私はなるべく早くマッケンジーを閣僚から更迭するつもりだ。」32

1946年2月20日、マッケンジーの政治力が凋落し日系人追放反対運動が盛り上がっていく中で下された最高裁の判決は大きく分かれた。日本国籍者と帰化一世の追放は判事の全員一致で合法だと判断した。二世の日本への追放は合法が5人、違法が2人だった。しかし、日本へ追放される成人男子の扶養家族で、日本追放を望まない者の強制追放は合法が3人、違法が4人だった33

最高裁判事の意見が分かれたことに、連邦政府は困惑した。連邦政府は、法律上は送還調査申請書に署名した6,844名の成人を日本へ追放できるが、扶養家族3,500名は追放できないことになった。日系人追放にたいする反対運動はますます高まってきていた。またJCCDは、送還調査申請書の署名を無効にして日本行きを望まない4,527名の送還者について、弁護士が同席して法律的な証拠をもとにした公聴会を開いて欲しいと要求した。これらの事情を考慮して、連邦政府は日系人追放問題を「日系人送還・再定住に関する内閣特別委員会(Special Cabinet Committee on Repatriation and Relocation)」に委託することにした。1946年2月23日、委員会はイアン・マッケンジーの欠席のまま開かれ、この問題の審議を英国枢密院に上訴することを決定した。3月8日に内閣はこの提案を了承した。34 連邦政府は英国枢密院に判断を依頼して時間を稼ぎ、その間に今や明らかになった政府が犯した政治的な誤りを是正しようと考えた。

1946年4月には、連邦政府の閣僚の間で日本追放についての意見の違いが明らかになった。マッケンジーとミッシェルは依然として強硬路線を主張していたが、内閣全体の意見は急速に変化していた。キング首相自身がこの変化を3月26日のCCJC代表との会談で示唆した。この会合でキング首相は、ミッシェルが日系人を「黄色のろくでなし」と呼んだことを公然と叱責した。35 また、マッケンジーとその背後の物言わぬ多数派が日系人追放問題を混乱させたと非難した。週刊誌『マックリーン』のオタワ駐在記者は次のように報告している。

日系人追放問題の全貌が明らかになってくると、政府関係者は、日系人政策に対して批判するのが遅すぎた、という非難を口にするようになった。最終的には、日系人追放政策はイアン・マッケンジーが提唱していた「ジャップを全て追い出して、自由党がBC州の全議席を取る」というものから大分緩和された。〔中略〕閣僚の中の自由主義的な議員の中には、「イアン・マッケンジーが日系人問題で騒ぎ出した時に、現在の反対運動の半分でもよいから、声高に日系人の人権保護を叫ぶ人達がいたら、イアン・マッケンジーの主張に耳を貸す閣僚はいなかっただろう」と言う者もいた。 36

しかし、日系人追放の延期が、すぐに実現したのではなかった。キング内閣は日系人問題の解決を望んでいた。そのために、キング首相は1944年8月に提出した原案に戻り、日系人の自発的な日本送還と、加速化された再定住プログラムへの参加を奨励することにした。


政府のプログラムで奨励と強制の差は微妙である。1946年夏の日系人の再度の移動にはこの二つの要素が入っていた。日系人がロッキー山脈以東に分散して住むようにするために、連邦政府はいろいろな奨励策を決めた。東部カナダへの移動を容易にするために、アルバータより東の州に一時的な宿泊所(ホステル)を設ける、カナダ東部への移動費用の一部を連邦政府が負担する、BC州以外での不動産の購入許可証の取得をやさしくする、「追放対象」の日本国籍者にカナダ生まれの子供と一緒に家族でカナダ東部へ移動することを許可する、などである。すべて日系人が東部カナダへ再移住する際の具体的な問題の解決を易しくし、家族が分かれて暮らすという危惧を払拭するための奨励策であった。これらの奨励策にもかかわらず、日系人のロッキー山脈以東への移動は自発的ではなかった。BC州に留まることが出来るのは37 の州 、病人、障害などで就職が出来ない人、退役軍人などとその家族、および自活キャンプの日系人に制限された。その他のいわゆる「移動可能者」は、強制的にBC州から移動させられた。これらの人たちはBC州で仕事に就く事を禁じられていた。日本に行くことを拒否した移動者達はアルバータ州以東の仮宿泊所(ホステル)に行くことを義務付けられた。そして、そこで待機中に東部カナダの移動先と仕事を探した。あるいは連邦政府日系人再配置長官T.B.ピッカーズギルが移動先と仕事を割り当てるのを待った。38

仮宿泊所はサスカチュワン州ムースジョー、マニトバ州トランスコナ、オンタリオ州ネイズ、サマービール、フィンガル、ケベック州ファーンハムに設けられたが、意図的に粗末なものになっていた。連邦政府は日系人が仮宿泊所に長期滞在しないように、わざと粗末なものを作った。仮宿泊所は、カナダ空軍施設や捕虜収容所の施設を改造し、兵舎を衝立で分けて四つの部屋にしたものだった。ネイズの仮宿泊所では、冬季用のヒーターが設置されていたが、食堂、洗濯設備、トイレなどは共同使用で、人目を避けることは出来なかった。仮宿泊所の日系人は連邦政府の思惑通り急いで仕事と移動先を探した。

北部オンタリオ州では労働者不足だったので、日系人男性は鉱山や林業で仕事をすぐにに見つけることが出来た。そこには雇用者の家族用宿泊施設があったので日系人は出来るだけ利用した。東部カナダの他の場所では、再定住者の多くは先ず家政婦、農業労働者、工場労働者の仕事から始めた。家政婦や農業労働者は宿泊施設のある仕事場が多かったが、工場労働者は住居を探すのが大変だった。東部カナダでは都市化が進行していて、都市人口の増加に住宅の供給が追いつかず、そのうえ戦時中の住宅の建築は禁止されていた。

住宅問題はモントリオールで特に深刻だった。ここでは家賃の他に1,000ドルもの「鍵代」と呼ばれる手数料を要求されるのが普通だった。カスローに家族を残してモントリオールに仕事と住居を探しに来た二世で4児の父親のハーバート・タナカは、1945年秋に妻のジューンへの手紙にこう書いている。

ここでは家を借りる時に、大家から古い家具を高額で買わなければ、部屋を貸さないといわれる。新聞に、帰還した兵士が古い家具の購入に1,000ドル払えといわれたという記事が載っていた。

家賃自体は戦時中に価格統制令があり、低く抑えられているようだ。また「鍵代」にはこういうものもあった。部屋を見るために部屋の鍵を借りるのに250ドル払うのだ。部屋を気にいって借りようとしても、大家は鍵代だけをとって部屋を貸さないこともあった。39

日系人が住居を探す時には、二つの問題が待っていた。先ず、非白人に部屋や家を貸すか売ってくれる大家を見つけなければならない。そして次に、近所に日系人が住んでいないことも、確かめなければならなかった。日系人は近くに固まって住んではいけないというのが、日系人再配置局の政策だった。配置局員は、日系人が大勢集まって住んで、白人カナダ人の目につくことが、人種差別の一因と考えた。1946年を通して、連邦政府はウィニペグ、トロント、モントリオールに移動する日系人の総数を、都市ごとに制限し、また、それぞれの都市での住居の分布も規制した。

大半の日系人はこの二度目の移動政策に協力的であった。しかし戦時中の処遇に抗議して、BC州内陸収容所やサスカチュワン州ムースジョーの仮宿舎から出ていかない粘り強い人達もいた。40 大部分の日系人はこのような抵抗が無駄なことも知っていた。二度目の追放・分散に協力的だったのには様々な理由があった。東部カナダへの移動でBC州で起きたような人種差別を避けられる、日本への追放を避けることが出来る、制約から自由になり普通の生活が出来る、などであった。日系人は静かに新しい地域社会で仕事に就いていった。大部分の移動先で、現地の白人は日系人に無関心であった。これは予期していなかった喜ばしいことであった。41

日系人の再定住が問題になったのは、アルバータ州だけだった。アルバータ州はBC州と同様に移民排斥主義者が多かった。1942年日系人の受け入れに際して、アルバータ州だけが、戦争が終了したらBC州から来た日系人を追い出すということを連邦政府に要求していた。この人達にとって、BC州日系人は、カナダ社会に同化できない敵性外国人だった。そして社会信用党のアルバータ州首相マニングに、州政府との約束の遵守を連邦政府に要求するように圧力をかけた。移民排斥主義者にとって、日系人問題の解決は日系人全てを追放することだった。マニングもこの意見にほぼ賛成だった。キリスト教原理主義教会の牧師だったマニングは、日系人は日本に忠誠であり、この忠誠心は日系人が信じる日本の伝統的な宗教で強固になっていると考えた。

1945年に、マニングは日系人のカナダ全土への分散に賛成するプロテスタント派の集会で次のように言っている。

日系人の第一の忠誠心の対象は天皇である。これは日系人の宗教的伝統によるもので、日系人は天皇と精神的な絆を持つと考えている。この価値観を保持する限り、〔中略〕日系人が国家の危機の時に忠誠心を示すのは天皇であり、彼らの両親が移民してきた国ではない。〔中略〕私は日系人のカナダに対する忠誠心を、他の国からカナダに移民してきた人達のカナダに対する忠誠心と同じと考えることは出来ない。42

マニングの日系人に対する個人的見解は、労働組合、市民グループ、社会信用党の政治家からの圧力で補強された。アルバータ州市町村連合、アルバータ労働組合連合は、BC州の排日運動グループの宣伝を信じて、日系人はアルバータ州の労使関係の害になると考えた。ピースリバー選出の連邦議員でカナダ社会信用党の党首ソロン・ロウは、日系人は「日系人自身のためにも」日本に追放されるべきだと信じ、カナダに同化不能の移民マイノリティをカナダ社会が受け入れることはない、彼らはカナダでは本当に幸せな生活を送ることは出来ないから、本国に追放されことが最良の選択である、と論じた。43 1930年代、あからさまな反ユダヤ主義政党の党首であったロウが、BC州選出の連邦議員と同じ日系人排斥主義者であっても驚くには当たらない。

アルバータの教会と新聞が、移民排斥主義者に反対した。教会は、マニングの日系人に対する見解は正義に反しキリスト教の教えに反すると非難した。そして「我々キリスト教徒の義務は、日系人の忠誠心を天皇からキリストに変えることであり、これは我々がキリスト教の教えに従って、日系人に応対することで達成できる44 。」と述べた。アルバータの新聞は「我々に一片の良心があれば、我々は日系人を囚われの身から開放し、市民権を回復し、経済的損失を補償すべきである。」と論じた。45

BC州からアルバータ州に移動してきた日系人の運命を決めたのは、結局は経済的な要因だった。1945年まで、日系人の砂糖大根労働者が、アルバータ州の砂糖産業を戦時中の危機から救ったのは明らかだった。1946年にアルバータ州の砂糖大根労働に従事出来るのは日系人だけだった。1945年の砂糖大根の栽培にはドイツ軍捕虜とイタリア軍捕虜が手助けしたが、戦争終了とともに本国に送還されていた。またヨーロパで戦火の被害を受けてカナダに移民をしてくる人達は、まだ到着していなかった。南アルバータの砂糖産業関係者は、信頼できる農業労働者である日系人をアルバータに残すためにマニングに圧力をかけた。1946年3月、砂糖産業関係者は、マニングが自分達に同情的になっているのを知った。マニングは自分の個人的感情はともかく、他の州が日系人のカナダ全土への分散に賛成している以上、アルバータだけが反対しても意味がないと悟った。そして砂糖産業関係者に内密に、BC州も受け入れることを条件に日系人を受け入れると伝えた。しかし社会信用党の基盤である南アルバータで日系人の受け入れが問題になるのを恐れて、自分の立場を明らかにしなかった。マニングは日系人問題への関心が薄れるまで、公表を先延ばしにすることを決めた。46

砂糖産業関係者はマニングの真意を知っていたので、マニングがぐずぐず先延ばししていても気にかけなかったが、BC州から来た日系人の中には、アルバータに残れるという自信を失うものもあった。連邦政府の日系人分散計画を利用して、オンタリオ州南西部の果実と野菜栽培農家に仕事を求める人が出てきた。太平洋沿岸地域に戻りたいという人は少なかった。日系人移動禁止規則の廃止を求める請願書を書いた一人が次のように言っている。「人種主義者で溢れ、あらゆる差別を受けるBC州に大挙して戻るほど、われわれ日系人は愚かではない。〔中略〕我々は多くの人が思っているよりずっと賢いのだ。BC州に急いで戻ることはない。」47

1946年の夏を通して、日系人は東部カナダへ移動していった。BC州の内陸収容所からは4,700名余りが移動した。アルバータ州からは何百人もオンタリオ州南西部の果樹園地帯に移動した。日系人で東部カナダへ移動した人達の大部分が、オンタリオ州に移動したので、1946年12月にはオンタリオ州の方がBC州より日系人の人口が多くなった。


日系人が仮宿舎から東部カナダへ移動している時に、送還船5隻が日本へ出航した。3,965名が、表面上は「自発的に」日本に向かった48。実際は日本に行くより他に選択のない人達が大部分であった。高齢の一世は戦時中の連邦政府の処置で財産をすべて失い、カナダで生活を再建する気力を失って、日本にいる親族が老後の世話をしてくれるか、少なくとも、子供たちが成長するまで高齢の自分たちを支援してくれることを期待してカナダをあとにした。また、太平洋戦争が勃発したために、カナダへ帰れずに日本に留まることを余儀なくされた両親、子供、伴侶を持つ人は家族が一緒になるには、日本に送還される他に方法はなかった。1946年にカナダ政府は、戦時中日本に滞在を余儀なくされていたカナダ人の中の白人だけを連れ戻した。しかし、カナダ国籍を持つ日系人は1947年まで無視された。漸く1947年になって、カナダの出生証明書を取得することを許可したが、その他の保護措置は一切おこなわず、カナダの旅券を発行することさえ拒否した49。日本への送還を選択した人達がどんなに絶望していたかは、アングラーからの送還者の例で明らかである。どうして日本に行くのかと尋ねられて、「カナダの白人は私達を憎んでいるので、日本より他に行く所がない。」と答えている50

様々な理由で日本に着いた日系人には苦難の連続が待っていた。先ず、連合軍の爆撃で焼け野原になった日本を見るのは衝撃的であった。次に、食糧難があった。食糧が不足していて高価な上に質も悪かった。日本占領軍は日系人がカナダから持ち帰った資産から1,000円しか日本円に交換させなかった。この1,000円も市価の三分の一の1ドルを13円50銭で日本円に交換させたものだった。当時は1キロの米が2円、魚は500グラムで5円した。カナダから持参した資産はこの1,000円以外は日本の銀行に預けられたまま引き出せなかった。日系人は日本に着いてすぐに食料を買うのも困難になった。51

さらにカルチャーショックもあった。20年から30年も日本に帰ったことのない一世には、1946年の日本は自分が知っている日本と大きく変わっていることに驚いた。また、親戚の住む故郷の村が昔と同様な問題を抱え、貧しいままなのにも驚いた。そもそもそのような村なのでカナダに移住したのであった。日本の現実に適用しようとしても、また新しい問題が待っていた。親族が一世を快く受け入れてくれなかった。日本の親族は、カナダのような豊かで食料も十分にある国から貧しい自分たちのところを頼って来たことを理解できなかった。二世にとっては戦後の日本はまったくの外国であった。日本では二世は外国人として見られ、扱われた52

またある日系人にとって、日本送還は死刑宣告を受けたのと同様な結果になった。そのような一例がフレーザー河流域で農家をしていた66歳の主人、その妻と7人の子供の家族である。農地を1943年に 「退役軍人土地法」 で強制的に売却され、売上の僅かな収入は、1942年冬に収容所で7人の子供を養うために連邦政府から受けとった生活保護費の返済でなくなった。カナダにいては農業で一家を養うことが出来ないと分かった夫婦は、一家で日本に行く決心をした。故郷の 広島市郊外にある両親の農地の一部を自分たちのものとして取得し農業をして生活するつもりだった。しかし故郷に着いてみると、もともと僅かだった農地の大部分はすでに売却されていて、売却されずに残った土地の所有権も法律的に自分にはないことがわかった。生き残るために一家は、離れ離れになって生活することになった。ティーンエージャーの子供達は占領軍の基地で働き、夫婦は炭鉱の日雇いの仕事で働いた。子供たちは幸運だった。基地の賃金は安かったが、基地では一日一回満足な食事が出来た。またペニシリンのような日本では手に入らない薬も手に入った。しかし両親はそうはいかなかった。炭鉱で働き始めてから数カ月もたたないうちに、二人とも栄養失調で亡くなった。53


1946年12月には内陸収容所はほとんど空になっていた。スローキャン・バレーのニューデンバーの収容所には病人、高齢者とその家族900名余りが残されていた。13,000名以上の日系人がBC州以東の州へ移動していた。1947年1月、BC州にはわずか6,776名が残された。これは1942年のBC州の日系人人口の三分の一であった (別表4 の「日系カナダ人の州別分布:1942年から1947年」を参照)。

1946年12月に英国枢密院は、カナダ連邦政府の日系人追放内閣令を合法と判断した。しかし連邦政府はもはやこの内閣令を実施する意思はなかった。カナダ世論はすでに日系人の追放に反対であり、日系人のカナダ全土への分散が始まっていた。新たに日系人を追放することの政治的必要性はなくなり、また愚かなことであった。それにもかかわらず、1947年1月22日、サンローラン法務大臣とその一派は日系人追放内閣令を最大限に実施することを要請した。サンローランはこの時、強硬に次のように主張した。「将来、日系人の人口は増えるだろう。そして日本が復興した時には、日本はカナダの日系人が白人と同様の権利を持つことを要求するだろう。」54 サンローランは、人種的平等に反対であり、日系人をカナダに残留させれば、将来また日系人問題が再発すると確信していた。他の閣僚は、キング首相も含め反対した。その理由として、日系人で戦時中にカナダに害になる行為をしたものは一人もいない、困難な状況下で強制されて日本への送還を望む以外になかっただけである。このような日系人を戦後の荒廃した日本に強制的に送還することは、非人道的であり犯罪行為に等しいと反論した。キング首相にとって、日系人の日本への追放政策は大きな政治的リスクを伴っていた。首相は閣僚に「われわれは有権者から人種的マイノリティを差別する自由党らしからぬ政策を遂行したと思われている。」と注意喚起し、「日系人送還問題を早急に片付けないと 政治的に大きな問題が生じる。日系人の本国追放は停止し、そのかわり日系人に対する様々な規則をあと2年継続して、日系人がカナダ全土に分散することを確実にする。これが残された唯一の政策である。このような政策は人道的見地から正しく、カナダ議会の承認を得ると期待できるだろう。」と説得した。

訳注

I. CCJCの活動はこの時点では非公式。1945年6月に正式に創設される。(戻る)

II. 連邦政府の政策 としての多文化主義は、1971年10月8日にカナダ首相ピエール・トルドーが連邦議会下院において、カナダは英語・フランス語を公用語とし多文化主義を採用すると宣言したのが公式な起源である。(戻る)55