人種主義の政治 アン・ゴマー・スナハラ 著

第6章日本への追放

日系カナダ人(以下、日系人)資産の強制売却は、日系人の日本への追放訳注Iに必要な第一歩であった。カナダの「ジャップ」の日本追放こそ、イアン・マッケンジーの最終目標であった。1942年に連邦政府が、日系人の太平洋沿岸地域からの排除を「カナダの安全のため」という理由で決定すると、即座にイアン・マッケンジーとその支持者達は、日系人は戦時でも平和時でもカナダにとって危険である、というブリティッシュ・コロンビア州(以下、BC州)では言い古された非難を蒸し返した。そしてBC州は、カナダ市民であれ日本国籍者であれ、日系人がいる限り安全ではないと宣伝した。1  住民が日系人はカナダに危険な裏切り者だというマッケンジーの主張をたやすく受け入れていたカナダ太平洋岸地域では。BC州の排日指導者の間で日系人の日本への追放は人気のある目標になった。BC州では日系人の日本追放は州民の広い支持を獲得したが、オタワの連邦政府ではそう簡単には支持を得られなかった。マッケンジーは「日系人の日本追放を実現するまでには、いろいろな困難があるだろう。」と認識していた。2

1943年までにマッケンジーとその支持者たちは、日系人追放の可能性に手応えを感じていた。一方、オタワの連邦政府内で一番明確に政府の日系人抑圧政策に反対していたのは、外務省のヒュー・キーンリイサイドとヘンリー・アンガスであった。しかし二人はこの時期までに、有効な意見を述べる機会を封じられてしまった。二人は政府の日系人政策は、「カナダ人の良識に反し、正義に反する政策である」と明言していた。3 これが連邦政府の日系人抑圧政策に賛同する上司の不興を買い、1943年春までに2人は、日系人問題を協議する政策決定プロセスから除外されてしまった。4 二人は日系人問題と関係のない部署に追いやられ、意見を提出する機会を失った。5

BC州で人種差別主義者と対立していたのは、ごく僅かな教会の指導者と「戦時下カナダ市民権問題協力諮問委員会(Consultative Council for Cooperation in Wartime Problems of Canadian Citizenship)」だけであった。6 1943年に諮問委員会は、日系人の日本への追放はファッシスト国家のやる政策だと連邦政府に抗議して、日系人をカナダ中に分散して同化を早めることを勧告した。そして、日本行きを希望する者には、戦争終了後に日本行きを支援すべきであるとした。追放は明白にカナダに対して忠誠でない行為を行ったものに限るべきで7 、さらに、正しい政策には、日本に行くか、カナダに留まるかを日系人が真に自らの判断で選択できることが必要であり、また何がカナダに忠誠でないという公正な定義も必要である、と勧告した。

1943年の時点ではまだ、連邦政府はBC州の人種差別主義者の主張より、諮問委員会の勧告の方に考えが傾いていた。日系人を少なくとも戦争の続く間はロッキー山脈以東へ移動させる政策が、1942年から1943年にかけての冬に政府内で議論された。8 しかし恒久的に日系人を移動させることには問題があった。連邦政府は1942年にアルバータ州政府と契約を交わし、南アルバータの砂糖大根農家に移動してきたBC州の日系人を、戦争終了後にまたアルバータから移動させると約束していた。また連邦政府は日系人の自主的「送還」訳注iプログラムの検討を既に始めていた。そして、カナダに不忠誠な日系人の追放は当然とされた。9

しかし「カナダに対して忠誠でない者」をどのように定義するかという問題があった。1943年、キング首相の首席政策顧問ノーマン・ロバートソンは、次のように定義した。アングラー捕虜収容所に収容されたすべての日系人と、人権侵害されたとしてスペイン領事に保護を委ねた日系人は、カナダに忠誠でない、であった10。しかし、スペイン領事に不平の申したたてをするための面会を申請をした者までもカナダに忠誠でないとすると、BC州内陸部日系人収容所の指導者と、アルバータ州とマニトバ州の砂糖大根農業従事者の指導者のほとんど全員が日本追放されることになり、また、日系人市民の自由を侵害したとして政府に抗議して捕虜収容所に入れられた二世も含むことになった11(第3章を参照)。

連邦政府高官で次のような提案をする人がいた12。連邦政府が、米国が1943年に収容所で行ったような忠誠調査を行う13。調査の内容は次のようにする。すべての日本国籍者にはカナダの法律に従い、戦争行為を妨害しないことを宣誓させる。カナダ国籍を取得した帰化一世と二世には、カナダに忠誠を誓わせ日本への忠誠を否定させる。これを拒否する者はカナダに忠誠でないとして家族と一緒に特別な収容所に移動させ、停戦協定の成立後に日本へに追放する。アングラーの捕虜収容所にいる者と、その行為がカナダに忠誠でないと判断された日系人も追放する。最後の分類の「その行為が不忠誠と判断された者」には、カナダの法律を破った者すべてとカナダの政府機関の命令には従わないようにと扇動した者すべてを含んでいた。連邦政府高官は、州政府にBC州の日系人の受け入れを納得させるには ある程度の日系人の追放はやむを得ないことだと考えた。大多数の日系人がカナダに定住出来るように少数の日系人を国外追放すれば、戦後のカナダで日系人は「甚だしく不当とは言えない」政策の下で生活出来るだろうと、連邦政府高官は期待した14。連邦政府高官はこのような計算をして、目的は手段を正当化すると考えた。

内閣戦時委員会は、忠誠調査を1944年4月に承認したが、その実施と、忠誠でない日系人を忠誠な日系人から分離する計画の実施は延期された。米国政府の日系アメリカ人政策が未だ不明瞭だったからである。カナダ政府は、戦後の日系人政策を米国政府と整合させようとしていた。ロバートソンは、カナダが米国と整合した政策を取れば、カナダ市民を納得させるのに役立つと考えた。15 また、日系人政策を不当だと非難する自由主義者と、まだ生ぬるいとする人種差別主義者の、両者の非難をカナダと米国の政策の整合性を理由に鈍らせることが出来ると考えた。

ロバートソンは米国との政策の整合性を主張することによって、カナダの日系人政策を緩和させるという遠回しな方法を思いついた。ロバートソンはワシントンのカナダ大使(ヒューム・ロング、後にレスター・ピアソン)からの情報で、米国の日系人政策はカナダより寛大なことを知っていた。それは、米国政府がカナダ政府より日系人に対して人種差別主義的傾向が少なかったというのではなく、米国の日系人二世は人権を米国憲法で保証されていたからであった。米国では、日系人の全資産の強制売却は起こらなかった。米国太平洋沿岸州には外国人土地法があり、日本人移民一世は不動産所有を禁止されていたため、不動産の名義は二世になっていた。米国生まれの二世の不動産の所有は、米国憲法で保護されていた。また米国憲法は米国市民の国外追放を禁じていたため、米国政府は日系人多数を日本へ追放することは、たとえ政府が望んだとしても不可能だった。

1943年11月、カナダ政府は米国政府に、日系アメリカ人の追放政策について質問した。米国政府はまだ「考慮中」とだけ回答した。当時、米国議会には、戦争終了後に日系アメリカ人を日本へ追放したいと言う議員が多かったので16 、政府当局者は狡猾に憲法を回避する法案を考慮していた。そして考えついたのが、戦争中は米国市民権を簡単に放棄できるという法律を作ることだった。米国政府は、最も声高に米国政府に抗議している日系アメリカ人は、政府の強制移動に対する抗議を表明するためにこの法律を利用して市民権を放棄すると考えた。そして米国政府は、市民権を放棄した日系アメリカ人を敵性外国人として追放できる、という策略だった。しかし結局、この策略は失敗した。後に米国の最高裁判所が、戦時中に米国国籍を放棄した日系アメリカ人は強制的な環境の下でしたのであり、これは憲法違反であるから無効であるとの判決を下したからである。17 1944年春、 市民権放棄法 が米国議会で討議されていた最中に、米国政府はカナダ政府と日系人の戦後の取り扱いに関する共同政策をとる約束はできなかった。こうして米国政府との共同政策は棚上げされた。


カナダ連邦政府が、日系人の日本への追放問題を先延ばしにしている間に、BC州の人種差別主義者は日系人の追放を連邦政府に迫った。連合国のノルマンディー上陸の1週間前、BC州退役軍人会は年次総会を開き、バンクーバー市長のJ・W・コルネットと一緒になって、日系人とその子供達を戦争終了後に日本に船で送り、再びカナダに戻らせないようにと連邦政府に要求した18。この年次総会で、イアン・マッケンジーに大きな拍手で迎えられたリルエットとロスランドの退役軍人会の代表は、次のように演説した。「日系人はカナダ政府の信頼を裏切り、カナダ国民に対する深刻な危惧をもたらす存在となった。なぜなら日系人は低い生活水準で満足し、子供をたくさん生んでいるからであるA。」コルネット市長は、退役軍人会の日系人追放決議を支持し、同僚の市会議員の中に二世のカナダ残留は許すべきだと言う人達がいると嘆いた。「私は二世を除外するという人達に次のことを言いたい。二世は日本国籍の妻を持っている。君たちはどうして、彼らから一世の妻だけを引き離して日本へ追放しようというのか19。」と熱狂的な聴衆に告げた。

新聞の報道とは裏腹に、退役軍人のすべてが、日系人の追放に賛成だったわけではなかった。戦場から帰還間もない兵士の中には、ラングレー・プレイリーから参加したエリック・S・フラワーヂューのように、追放はカナダ市民の人権を奪う行為であり、自分たちが民主主義を守るために、枢軸国との戦争に参加したことを裏切ることだと非難し、また、日系人二世はカナダに忠誠だと主張したが、誰も聞く耳を持たなかった20。フラワーヂューの意見は仲間の退役軍人には届かなかったが、実際はBC州住民の大多数の意見を代表していた。1944年2月のギャラップ世論調査によれば、カナダ人の80パーセントは、日本国籍者の追放に賛成したが、カナダ生まれの日系二世と、カナダ国籍を取得した帰化一世の追放には反対する人が多数で、賛成した人は33パーセントにすぎなかった21。BC州住民の見方もカナダ人全般と同様であった。イアン・マッケンジーのような反日人種差別主義者は、この世論調査の結果を無視して相変わらず頑強に反日偏見にしがみついていたが、世論調査の結果を見て考えを変えた人達もいた。バンクーバー市議会では、大多数の議員が1944年6月5日にコルネット市長の提出した日系人総追放決議案を拒否した。22

1944年6月、連邦政府議会は日本人を祖先に持つカナダ市民の権利について討議していた。議会では 「カナダ兵士選挙権法」が議題に上っていた。この法律は、外地で戦役に従事したカナダ軍兵士に、次の総選挙で選挙権を与える法案だった。法案は議会下院を通過したあとで、法案中の一条が問題になった。この一条には、カナダの交戦国を人種的起源に持つカナダ人は全て選挙権を失う、と規定されていた。23 この一条は多数のドイツ系カナダ人とイタリア系カナダ人から選挙権を奪うことを意味していたので、すぐに反対が起こった。この一条はナチドイツの人種憎悪政策と同じだとして、オンタリオ州出身の上院議員のJ・J・ベンチとノーマン・ランバートが削除を求めた。二人は条項の削除には失敗したが、条項を日系カナダ人だけに限定して修正することが出来た。修正された兵士選挙権法は連邦政府下院で再討議されて、さらに修正された。討議は紛糾し、新聞でも広く報道された。結局、カナダ兵士選挙権法は、BC州に1940年に住んでいたために選挙権を持っていなかった日系人は、たとえ他の州に移動しても選挙権を得られないということで落ち着いた。このことは、BC州からロッキー山脈以東に既に移動していた日系人は、選挙権を与えられないままになるということを意味した。キング首相はこの法案は正しいと主張した。なぜなら、すでに選挙権を獲得している少数の日系人から選挙権を取り上げることはせず、また、まだ選挙権を獲得していない日系人に、選挙権を持たない他のカナダ人マイノリティより優先的に選挙権を与えることもしないからである。24 しかし、キング首相は、この法律がBC州から他州に分散された日系人に選挙権を与えず、その結果日系人は自由党に反対の投票も、日系人の保護を公言している唯一の政党、協同連邦党(CCF)にも投票できなくなることを認めようとしなかった。

キング首相の「人種えこ贔屓論」は、CCF議員に笑われ糾弾された。CCFは連邦議会でキング首相に、戦争終了後の日系人の運命について鋭い質問を浴びせ続けた。CCFの執拗な質問攻めに屈して、キング首相はついに1944年8月4日、日系人による妨害工作は一切無かったことを認めた。日系人は潔白であると発言したのにもかかわらず、キング首相は更に続けて、すでに政府は、日系人は忠誠委員会で忠誠と判断され、カナダ全土に分散した場合にだけ、カナダに残ることが出来ると決定したと言明した。キング首相は連邦政府下院において、カナダに不忠誠と判断された日系人を出来るだけ早く日本へ追放する、その中のカナダ国籍保有者〈帰化日系人、二世〉の市民権を剥奪する、さらに、日系人が戦後に日本行きを希望することを奨励する、戦後は日本からの移民は禁止する、と答弁した。25 キングは、犯罪を犯したわけでもなく、カナダに対する悪意をもっているわけでもない日系人を追放するのは、「敵国の倫理基準」を受け入れることになる行為だと認めた。26 しかし、キング首相の日系人政策では「有罪が証明されるまでは無罪である」という司法の大原則が適用されず、裏返しの「無罪が証明されるまでは有罪である」という論理が日系人に適用されることとなった。

キング首相の新日系人政策を、CCFは弾圧的と考えたが、イアン・マッケンジーやBC州選出の自由党議員にはまだ生ぬるいものだった。マッケンジーは、もし日系人が太平洋沿岸地域に戻ることになれば、自分はこのような政府から離脱すると選挙民に豪語していたので、BC州選出の連邦議員のトム・リードやジョージ・クルックシャンクと共に、BC州住民を扇動して連邦政府に圧力をかけ始めた。「ロッキー山脈から太平洋岸まで日本人は一人もいない」をスローガンにして、BC州住民にカナダ全国に「美しいBC州」に日本人を入れないという立場を表明することを奨励した27 しかしこの運動の成果はわずかだった。この運動が始まってから11ヶ月の間に、キング首相が受け取った日系人全員追放の嘆願書は、わずかに19通だけだった。これに対して、寛大な日系人取り扱いを願う嘆願書は85通あった。28 1944年末には、日系人政策は寛大なものになるように思われた。


1944年12月、連邦政府はパニックに陥った。アメリカ合衆国憲法が、ついに日系アメリカ人を自由にした。人権派弁護士のジェームズ・パーセルが、元カリフォルニア州政府職員ミツエ・エンドーの代理人として、連邦政府を日系人の人身保護義務の違反で起訴していたが、最高裁判所は、米国に忠誠なアメリカ人の移動の自由を拒否することは出来ないと裁決した。その結果、エンドーのみならず、日系アメリカ人は誰でもアメリカ人と同じように何処へでも移動できることになった。米国連邦政府はこの判決の出ることを予期していて、1944年12月、日系アメリカ人が1945年1月2日以降に太平洋岸沿岸の戦前の自宅へ戻ることを許可する旨の声明を出した。29

カナダ連邦政府は、米国政府のように日系人の移動の自由を認めたくなかったので、急いで戦後の日系人政策を決定した。政策決定者の目的は二つあった。30 第一に、できるだけ多数の日系人を日本に送還または追放すること、第二に、カナダ各地に分散させることであった。政府は急遽、日本行きを希望する者とカナダ残留を希望する者とを選別する最も迅速な方法として「送還調査」の実施を決めた。そして日本行きを選んだものは「不忠誠」とみなされ、カナダを選んだものは、後日あらためて忠誠委員会が忠誠テストをすることにした。

送還調査とその後の日系人のカナダ分散政策遂行の責任者に、T・B・ピッカーズギルが選ばれた。ピッカーズギルは、戦前は北西鉄道路線穀物貯蔵庫会社の役員をしていたが、戦争中は連邦政府戦時サービスで働いていた。彼の兄で1937~1948年までキング首相の秘書をしていたジャック・W・ピッカーズギルによれば、兄は日系人配置局局長(Commissioner of Japanese Placement)の役目にまったく気が進まなかった。兄は弟のジャックに「私はこの日系人政策に反対である。この政策を将来カナダ人は不名誉に思ようになるだろう。」と批判し、弟から次のように指摘されて、ようやく引き受けた。

もしこの仕事を引き受けなければ、誰か他の人がやることになる。政府は既にこの政策を決定している。無神経でサディスティックな人物が日系人をいじめて楽しむには最適な仕事で、その結果、多分、日系人は最悪の被害を被るだろう。この政策に反対している人が局長になる方が日系人のためには良い。そうすれば規則通りに政策を遂行するが、それ以上のことは何一つしないからだ。31


この仕事には最初から不快な要素があった。送還調査は、日系人が真に自主的に日本へ行くかカナダに留まるかを選べるようになっていなかった。選択は、いずれ日本へ送還されるか、または、直ぐロッキー山脈以東に移動するか(恒久的にか一時的にかは分からないまま)のどちらか一つであった。連邦政府は、収容所で連邦政府の政策に苦しみ、混乱した日系人が、自主的に日本行きを希望するように、巧妙に二者択一を仕組んだ。日本への送還を希望すれば、日本行きの船の用意ができるまでBC州に留まって仕事を続けられる。資産を敵性外国人資産管理局(CEP)に預託している人は、預金を使い切る前に生活保護を受けることができる。日本への船賃は無料で、日本に到着すれば、カナダに残した資産と同じ価値の金額を受け取れる。資産の無い人には、大人1人200ドル、子供1人50ドルの現金が支給され、日本での当座の生活費にできる。このような条件を出して日本行きを奨励した。

これに反して、カナダに残留する人は、数々の問題に直面するようにした。残留希望者は、先ずBC州のカスローの収容所に集められて、連邦政府が割り当てたロッキー山脈以東へのどこかへの移動を待つ。もし連邦政府に割り当てられた仕事に就かなければ、忠誠委員会の忠誠審査用書類に「政府に協力的でない」と書き留められ、後で強制的な日本への追放の理由に使われるかもしれない。32 仕事を拒否すれば、本人と家族への生活保護が中止される。連邦政府が支給する移動費用は、夫婦二人で60ドル、子供が一人12ドルと僅かであった。これは日系人は収容所から出て「確かな仕事」に就くので、移動費は最小限でかまわないという政府の理屈によるものであった。33

しかし連邦政府は「確かな仕事」を数週間しか保証しなかかった。「適当な住居」についても保証はなかった。レモンクリーク収容所の日系人は、移動先で、連邦政府が帰還兵に優先的に住宅と仕事の斡旋をするので、日系人への住宅と仕事の斡旋はその後になると告げられた。連邦政府は日系人が移動先で定住できるという保証もしなかった。というのは、BC州からの日系人受入れの際の連邦政府と州政府の契約には、戦争終了後に日系人を州外に移動することが明記されていた。連邦政府は州政府と新しい契約をを交渉していたが、サスカチュワン州を除いて、どの州も日系人の受け入れを拒否していた。34 連邦政府は、こういう事情があるので、「カナダに残ると生活環境は非常に厳しいかもしれない、日本の方がより良い機会があるかもしれない」と判断した人に対して好条件を出している、説得した。35

送還調査が日系人に提示された状況は、日系人が既に知っていたことを裏付けるものだった。日系人は誰でも、東部カナダに移動して苦労している知人の一人や二人を知っていた。東部カナダの町は、戦時産業で働く人達で溢れ、住宅事情は悪く、家賃は高くて日系人にはなかなか家を貸してくれない。東部カナダに移動した二世の多くが、汚れ仕事と低賃金で働いており、人種差別を受け、ときには教会にまで差別されている現実を知っていた。また米国では、太平洋沿岸地域に戻った日系アメリカ人が、周囲の敵意や時には暴力にあっていることも知っていた。ヨーロッパの戦争が終了して、カナダが対日戦に全力を投入すると、カナダでも同じような日系人への暴力沙汰が生じるのではないかと恐れた。

この頃、150名の二世がカナダ軍入隊を認められたが、これもまた違った種類の暴力を日系人が被る不安を生じた。東部カナダに移動する二世が、徴兵されるのではないかと恐れた。すでに収容所で3年を過ごした一世は、息子が徴兵されて、自分たちの母国と戦うのでないかと動揺した。また、二世は白人カナダ兵士の弾除けに使われる、という噂も広く流布していた。米軍の日系アメリカ人が大部分を占める部隊442連隊が、フランスとイタリア戦線で、異常に高い死傷率を出したことが噂の裏付けになった。36

さらに1945年春、収容所の住民の士気はいままでで最低になった。士気の下がった時の徴候が至るところに見られた。住居や庭の手入れを怠り、つまらない争いが多くなり時には暴力沙汰になり、酒を飲む人が増え、賭博もはびこり、コミュニティー活動は低調となり、若者は不機嫌でいらいらしていた。37 それまでの強制移動、資産の強制売却、貧困の三つに打ちのめされて、多くの日系人がやる気をなくしてした。貧困の中で、収容所の3年間を、連邦政府の命令に右往左往させられて生活し、自分の運命を切り開いていこうという希望を失ってしまったのである。何事にも無関心になっていた収容所の日系人は、強い意見を持っている人の影響を受けやすくなっていた。収容所で一番強い意見を持っていたのは、日本びいきの国粋主義者で、日本の勝利を信じていた人達だった。東京からの短波放送を聞いており、戦況についてまったく現実とは違った理解をしていたので、カナダの新聞で報じられていた戦況が日本軍に不利だというニュースを信じなかった。日本軍は戦略的に退却しているだけで、敵を集めてから逆襲して、最終的に勝利すると信じていた。38 日本の勝利を信じていたので、送還調査を歓迎し、カナダ東部へ移動しようと主張するものを攻撃した。39 そして家族、友人、隣人に日本へ行くように強要した。日本国粋主義者ははからずも、連邦政府の出来るだけ大勢の日系人を送り返す、という政策に加担することになった。

日本送還へ署名した人数は、日系人の誤解、連邦政府の調査方法の誤り、そして他の幾つかの要因が重なって増加した。このような間違いを連邦政府は認めようとしなかった。日系人配置局局長 T・B・ピッカーズギルは、送還調査を開始した時、この調査の意味を誤解していた。日系人は日本送還の署名をしても、実際にカナダから追放されるまでは、カナダ国籍は喪失しないと思っていた。そのため、タシミ収容所の日系人に対して、署名してもその時点では、カナダ国家への忠誠を拒否したことにはならないと説明した。40 ピッカーズギルのエラーは、仕事を始めてから日が浅く、調査の内容と政策立案者の真意を知らなかったからであった。しかもピッカーズギルの誤った説明と、日本行きに署名しても後で取り消すことが出来ると説明した局員がいたことで、多くの日系人は、先ずは署名してBC州での仕事を確保し、新しい移動先の状況が好転してから日本行きの希望を取り下げれば良い、と考えた。41 連邦政府が日系人の東部カナダへの移動は不確定なことが多いと強調したので、日系人は低賃金ではあるが安定したBC州の仕事のほうが、東部カナダの日本人に反感を持った人達の中で、住宅が高く探すのも難しい町で、不安定な仕事に就くよりはるかにましだと思った。また、東部カナダへ移動するには、自費で改造した現在の収容所の住宅から、カスローの仮収容所の壊れかけた安アパートに移動しなければならなかった。そのため、平和が来て生活が正常に戻るまで待った方が良いと思う人が多かった。42

多くの日系人は急いで東部カナダに移動する必要を感じなかった。そして、大部分のカナダ人はアメリカ人と同様に、日本との戦争は長く続くと思っていた。日本はプロバガンダで、あと20年は戦争を続ける用意があると宣伝していたし43 、1945年日本軍が南洋諸島を粘り強く防御しているのを見ると、そう信じることが出来た。日本軍が長い戦争に持ちこたえられると予想したことが、米国大統領トルーマンが数ヶ月後に広島と長崎に原爆を投下する一つの要因になった。

送還申請書に署名した日系人は、病気または障害を持っていた人、仕事のない人とその家族など、東部カナダへ移動できない人がいたので増加した。仕事のない人の多くは一世で、1945年当時、60才以上の人達だった。高年齢で英語が不自由だったので、カナダでまともな仕事を見つけるのは不可能だった。しかも結婚も遅かったので、まだ学校に通っている子供がいた。所有していた農場、商店、漁船など、家族を支えるはずだった資産を強制売却されてしまい、売却から得たわずかな資金も、収容所の生活を支えるために底をついてしまっていた。これらの人達は、カナダで生活を再建することが出来なかったので、身の安全をはかるため、収容所に残って、子供が成長して養ってくれるのを待つよりほかに、選択の余地はなかった。44


この時期の日系人の混乱、ためらい、怒り、恐れ、誤解、そして日常生活のさまざまな問題を、1945年の春に日系人が書いた手紙がよく表現している。ニューデンバーにいた一人がこう書いている。「送還調査の引き起こした騒動はひどいものです。もし東部カナダへ強制的に再移動させられるのなら日本へ帰る、という人もいます。誰もが混乱していて、将来がわかりません。〔中略〕ちょうど収容所へ移動した時のどこへ行くのかわからない混乱状態と同じです。45 」アングラーの捕虜収容所の一人は次のような手紙を妹に書いた。「私には日本へ行くより他に、行く場所がありません。妻はもう一年半以上も病気だし、〔中略〕二人の子供は日本で学校に通っています。私が長年住んでいた家は、安い値段で強制的に売却されてしまいました。」46 グリーンウッドに移動していた2家族にとっては、仕事と家族が一緒にいられることが日本行きの決め手となった。グリーンウッドの女性がアングラー捕虜収容所の夫に次の手紙を書いた。

T夫人とその息子は日本行きに署名することを決心しました。もし署名しなければ、夫人の二人の娘は現在の仕事を失うし、東部へ行くとなると何処へ行かされるか分からないし、家族が別々になるかもしれないからです。T夫人と息子には日本行きに署名するより他に選択はありませんでした。〔中略〕誰も自分から進んで日本に行きたいと思う人などいません。現在のように家族が別れているより一緒にいたかったから日本行きを選んだのです。私も家族と一緒にいたいので日本行きに署名したのです。47

キャスケードにいた一家にとっては、現在ではなく、将来の仕事の可能性が日本に帰る理由だった。「昨日、皆で考えました。夫はもう歳を取っているので、カナダで仕事を見つけることは難しいから、日本へ帰って仕事を見つける言いました。それで一家で日本に帰ることにしました。」とオンタリオ州の友人に書いている。48

恐らくこの家族には、日本に「帰国」などしたくないという二世の子供達が含まれていただろう。両親の決心を従順に受け入れた二世もいたが、なかには、怒りに駆られ、混乱し、あるいは楽観的に、自分で日本行きかカナダに残るかを決めた二世もいた。BC州オーヤマの二世は怒りに燃えて次のような手紙を書いた。

この腐りきった制度はますますひどくなっていく。〔中略〕政府の奴らは給料さえ貰っていれば、日系人などどうなっても構わないと思っている。そのくせ、あれをしろこれをしろと滅茶苦茶な命令をする。〔中略〕その上、敵性外国人資産管理局のこともある。いわゆる民主主義や人種平等、寛容、生まれながらに人間は平等というのはただの戯言だった。奴らは悪魔だ。日系人をあちらこちらに追い回し、豚小屋や牛小屋よりひどいところに押し込めているではないか。 49

ニューデンバーに家族を残して、1人でモントリオーに来ていた二世は難しい選択を迫られ、妹に次のような手紙を出した。

君はどう思う? 〔中略〕僕はカナダに残るにしろ、日本へ行くにしろ、どちらも生活は苦しいと思う。日本は皆が考えているほどよいところではない。僕はそう思う。〔中略〕カナダに残っても経済的な差別を受けるが、少なくともどんな生活が待っているか分かっている。〔中略〕日本ではどんな生活が待っていると思う?僕や我々にどんな機会が待っているのかそれがわからない。〔中略〕どっちを選んでも大変だ。日系人はユダヤ人より大変だとおもう。日系人は、カナダでも日本でも人間として扱われない。50

最近の経験から行き先を選んだ人もいた。中央オカナガンの二世は、レモンクリークの友達に次のような手紙を書いた。

父と母は絶対に日本へ戻りたくないと話していたくせに、「帰国」するという。でも、私達がバンクーバーで失ったもののことを考えると、両親を非難することはできない。私だって今の私達の生活には嫌悪感を抱いている。私達はまともな家庭を作ろうと長年苦労してきたのに、全てを失った。私だって日本送還申請書に署名をしたかもしれない。BC州から他の州に移動しても、今までと同じことだ。新しい土地で落ち着いた途端に、また嫌われて追い出されてしまう。51

一方、確信を持ってカナダに残る選択をした人もいた。トロントに住んでいた楽天的な二世が、BC州のバーノンの友達に次のように言っている。「私たちはまだ参政権を持っていないが、それでもこれまでずいぶん幸運だったと思う。つらい経験もしたが、それでも全体としてかなりよくやってきた。カナダ人に比べれば辛い経験をしたが、ユダヤ系カナダ人や中国系カナダ人に比べればまだましなほうだ。52


カナダ連邦政府は、日系人が日本送還かカナダ残留かの選択で悩み緊張して、収容所でいろいろな意見が出ていることを知っていたが無視した。政府関係者は、個人的にはカナダに忠誠な日系人でカナダに残りたい人でも、戦時中にカナダ政府から受けた仕打ちに絶望して、あるいは、家族が離散することを避けるためにも日本追放を選択することが分かっていた。しかし、その同じ政府関係者が、公の場では、日系人はまったく自分の意志で日本送還を選択したのであって、政府が圧力をかけたことはないと述べた。53 連邦政府は、送還調査は「現在の政治状況下で、日系人に対する公正な処置である」と正当化した。54

調査結果は、少なくともイアン・マッケンジーと反日のBC州出身の連邦政府下院議員達にとって、満足のいくものであった。1945年8月までに、16才以上の日系人6,884名が送還申請書に署名した。これらの人の家族3,503名を入れると、実にカナダ全国の日系人の43パーセントが日本に送還されることになった。さらに重要なことは、これら合計10,347名のうち、86パーセントの人達がBC州に居住していたことである。もし署名者全員が日本に送還されると、BC州には4,200名以下の日系人しか残らず、そのうえ、この中から他の州に移動する人がいるだろうから、BC州の日系人は更に減少することになる。BC州の排日住民にとっては嬉しい結果だった(表3を参照のこと)。残された問題は、日本への「自主的送還者達」が実際に送還されるのを確実にすることだけだった。これが実現すれば、ついにBC州の「日系人問題」が事実上消滅することになる。


1945年8月の突然の太平洋戦争終結は、カナダ連邦政府と自主的送還希望者達を驚愕させた。日系人は、日本が降伏したので、日本で生活することは、カナダに残ってロッキー山脈以東に移動して再定住するよりずっと大変だろうと考えるようになった。また日本が敗北したことによって、日本びいきの国粋主義者達は親戚や近隣の人への影響力を、まったく失ってしまった。家族の圧力、宗教的な理由、収容所の隣人の圧力、カナダの仕打ちに対する怒り、当座の仕事を保持するためなど、いろいろな理由で送還申請書に署名した人達は署名を取消しカナダ残留の申請を始めた。1946年4月までに、日本送還に署名した6,844名の成人のうち4,527名が署名の取り消しを申請した。55

1945年9月初めから、連邦政府は日本送還に一旦署名した人は、取り消しが出来ないようにしよう考え始めた。1945年9月5日、連邦政府労働大臣ハンフリー・ミッチェルは「日系人問題に関する内閣委員会」を改称した「日系人送還・再定住に関する内閣特別委員会(Special Cabinet Committee on Repatriation and Relocation)」を召集して、今まで提案されたことのない最も厳しい日系人国外追放政策を上程した。ミッチェル大臣の新提案は、人道上の理由によるごく少数の例外を除く全ての日本国籍者の追放及び送還申請に署名した帰化日系人、三日前の日本が降伏した1945年9月2日以前に送還申請を取り消さなった 二世 の全ての追放を求めるものであった。ミッチェルはこの新しい政策を3ヶ月以内に完了させたかった。そのために特別委員会で、 戦時措置法の下に三つの内閣令を発令することを要請した。第一に、送還申請書に署名した本人および家族の送還が有効であり取消が出来ないようにすること、第二に、送還申請書に署名した人のカナダ市民権を剥奪すること、第三に、人道上の理由で日本送還を除外する日本国籍者を決めるための忠誠審査委員会を設立することであった。56

もしミッチェルが、「日系人追放・再定住に関する内閣特別委員会」が、その前身の「内閣日系人問題委員会」のように、自分の提案をただ了承するだけだと思っていたら、それは大きな間違いであった。変わったのは委員会の名称だけではなかった。新しい内閣特別委員会は、ミッチェルが委員長で、イアン・マッケンジーが影響力をもち、ノーマン・ロバートソンが諮問委員であったが、3人の新委員である国防大臣ダグラス・G・アボット、法務次官ジョセフ・ジーン、防衛大臣(空軍担当)コーリン・ギブソンの3人が加わった。この3人はミッチェルやマッケンジーのような強烈な排日感情は持っていなかったし、人種差別を政治的に利用することを快く思っていなかった。彼らの管轄する連邦政府部門は、日常的に軍部や連邦警察の高官と接触があった。そしてこれらの高官から、日系人は太平洋戦争中、常にカナダに忠誠であり、カナダに害のあるような行為をしたことはないと聞いていた。日系人に対して寛大な立場をとるこれら三人の委員に加えて、キング首相の政治顧問のロバートソンも今までのようにキング首相の日系人に対する抑圧的な政策をなにも言わずに、ただおとなしく聞いているだけではなくなっていた。新しい内閣特別委員会が設立されてから数カ月後に、ロバートソンはキング首相に次のように言っている。

私達は、日系人、中国系カナダ人、インド系カナダ人に対して、移民法で差別し、選挙法によって間接的に差別している。しかし、私の出身地BC州住民の、これらカナダ人マイノリティに対する心情が変わらない限り、私は差別的政策の変更はできないと思う。私達に出来ることは、機会あるたびに人種差別的政策を緩和することです。57

1945年9月5日の内閣特別委員会は、このような機会の到来であった。新しい委員達は、日本国籍者全員の追放案を拒否した。58

内閣特別委員会内で意見が分かれたために、内閣への勧告までにほぼ2週間を費やしたが、委員会の妥協案はミッチェルの原案を微修正しただけだった。特別委員会は、以下を勧告することに合意した。「日本の降伏前に送還申請を取り消したカナダ生まれの二世及び帰化日系人を除いて、送還を希望した日系人全員と、アングラー捕虜収容所の収容者を日本に追放する。」そして実施は連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー大将が追放開始を認めるまで待つと決定した。59

マッカーサーの認可までは、時間がかかりそうだった。敗戦直後の日本は絶望的な情況にあり、1945年秋、日本は深刻な食糧難で病気の蔓延、栄養不良、食糧不足など様々な問題を抱えていた。マッカーサーは先ず日本人の食糧不足を解消しなければならず、このような状況下で更に余分の食料を必要とするカナダからの日系人受入れに躊躇した。60 間もなく、日系人の日本追放は1946年まで待たなければならないことが判明した。


この遅れは連邦政府にとってとても都合のわるいものだった。ミッチェルは絶大な権限を持つ 戦時措置法 (War Measures Act)の下で、日系人の追放を合法的に遂行しようと考えていた。しかし 戦時措置法は1946年1月1日に効力を失い、「国家非常事態継続権限法(National Emergency Transitional Powers Act: NETPA)によって置き換えられることになっていて、同法はC-15法案として、1945年末に既に議会に提出されていた。C-15はカナダの戦時経済統制を段階的に解除するための法案だった。連邦議会は 戦時措置法の下で認可された内閣令を停止することはできなかったが、NEPTA の下で認可された内閣令は廃止することが出来た。もし日系人の追放に関する内閣令が、同法下で認可されるとなると、連邦議会で協同連邦党(CCF)がこの内閣令の廃止を要求するのは明らかだった。キング首相と内閣は、連邦議会で討論の対象にならないような方法で、日系人の日本追放を可能にするような権限を獲得する方法を検討した。そして1945年10月、その方法を見つけた。

このことは内閣が如何に議会運営技術に習熟していたかを示している。追放論議を回避するために、法案C-15の中にさりげなく、総督(実際は内閣)に移民の入国、禁止、追放、国籍剥奪の権限を与える文言を挿入した。そしてNEPTAの3(g)項として入れられたこの条項を適用すれば、内閣はNEPTAの施行から1年間だけ、カナダ居住者誰もの国籍を剥奪して追放できることになった。しかもこれは内閣令ではないので、連邦議会の討論の対象にはならなかった。日系人の追放は連邦政府の大臣令でされることになった。

NEPTA法案は10月初め連邦議会下院に提出されたが、10月中旬まで3(g)項の存在に誰も気が付かなかった。3(g)項の存在が見つかると、直ちに反対が起こった。CCFは3(g)項を人種差別の法律だと糾弾し、新聞は、この戦争でカナダ兵士が命を掛けて守ろうとしたカナダの原則に反するものだと非難した。しかし同時に、BC州選出の自由党議員と保守党議員は3(g)項を熱狂的に支持した。1945年11月中、この項目をめぐって議会は紛糾した。議会の3(g)賛成派は、BC州で50年も続いている日系人非難を蒸し返した。CCFは、日系人は一人もカナダに対する妨害工作で起訴になった者も、有罪になったものもいない、と繰り返し強調した。61 諸方面からの抗議に困惑した連邦政府は、1945年12月6日、3(g)項を法案から密かに削除した。そして連邦議会下院は12月7日、国家非常事態継続権限法(NEPTA)を承認した。

連邦政府は3(g) 項を取り下げたが、日系人の日本追放という目的を諦めたわけではなかった。新しい方法を考案する必要が出来ただけだった。日系人追放反対派の議員は3(g) 項撤回の成功を喜ぶあまり、NEPTA第4項の持つ意味を深く詮索することはなかった。第4項は、 戦時措置法 の下で承認された内閣令で1946年1月1日現在現存しているものは、国家非常事態継続権限法の下で1年間だけ自動的に延長されると規定していた。その上、新しいNEPTAの下で発令された内閣令は連邦議会で廃止できるが、旧 戦時措置法 の下で発令された内閣令でNEPTAにより延長されたものは連邦議会で廃止できないことになっていた。連邦政府が日系人を日本へ追放するためには、1946年1月1日までに、 戦時措置法 の下で内閣が日系人追放内閣令を発令すればよいだけであった。

サンローラン法務大臣が1945年12月6日に、3(g) 項を国家非常事態継続権限法から除去し、追放に関する法律62 を制定する時には下院議会で審議すると約束していた最中に、実は、連邦政府は、連邦議会を迂回して日系人の追放を可能にする内閣令の準備を進めていた。しかし、この内閣令の権限をどの程度にするかについて議論があった。イアン・マッケンジーとその支持者達は、権限を最大にするように運動していた。彼らは、1945年10月のBC州議会選挙で日系人の追放が争点にならず、したがって政治的にはBC州民の興味はなくなっていたことを知っていた。連邦内閣の閣僚の中でも、とりわけ、J・L・リスレー財務大臣、ブルック・クラックストン医療福祉大臣、官房長官のポール・マーティンなどは、信条上の、または政治理念上の理由で追放政策に反対していた。63 他の閣僚達は、厳しい追放令は議会で協同連邦党からの激しい反発を受けるだろうと危惧していた。これらの閣僚達は誰も、キング首相にカナダ市民から提出された日系人の日本追放についての意見は4対1の比率で、追放は少数の日系人だけに限定することを望んでいた、という事実を知らなかった。キング首相は無論知っていた。64

1945年12月13日、内閣はイアン・マッケンジー議員が欠席した中で、閣令案の討議を行った。討議の中心は、二世の追放を内閣令にいかに適用するかであった。閣僚の大多数の意見は、二世はカナダに忠誠であるか否かに関係なく、一般のカナダ市民同様にカナダに在留する絶対的な権利を持っているというものであった。しかし、内閣はマッケンジーが出席するまで決定を先延ばしすることに同意した。もし内閣が日系人に寛大な処置を決定すれば、BC州の反発の矢面に立つのはマッケンジーだからという理由であった。65

マッケンジーが出席した12月15日の閣議においても、内閣の見解に変化はなかった。同日、二世の強制追放案を拒否した後で、内閣は3つの内閣令を承認した。第1の日系人の国外追放内閣令(P.C.7355)は次の日系人の国外追放を定めた。(イ)送還申請書に署名した全ての日本国籍者およびアングラー捕虜収容所に収容されていた全ての日本国籍者、(ロ)カナダ国籍を獲得した帰化日系人で、1945年9月2日までに送還申請書の署名を取り下げなかった人、(ハ)二世で日本へ追放される日までに送還申請書の署名を取り下げなかった人、(ニ)上記(イ)、(ロ)、(ハ)に該当する人の妻および未成年の子供66。第2の帰化日系人のカナダ市民権に関する内閣令(P.C.7356))は「送還」された帰化日系人は英国臣民としての資格を喪失するとした。第3の忠誠審査委員会設立内閣令(P.C.7357)は日系人のカナダに対する忠誠度を審査する委員会を設立して、労働大臣が選んだ日系人の誰でも審査出来ることにした。これら3つの内閣令について大多数の閣僚は、カナダ生まれの日系人で日本に送還されるのは自ら日本送還を望んだ者だけに限られ、日本送還でカナダ国籍を剥奪されるのは帰加日系人に限られるので、カナダ生まれの日系人は日本送還後もカナダ国籍を保持できると思った。67

内閣がこれらの内閣令を発令してから2日後に、クリスマス休暇に備えて既に出席者の少なくなった議会下院で、キング首相は新内閣令について次のように述べた。「戦争によって生じたいろいろな状況とこの問題の特殊性を考慮して、現在の法令が許可するより広範囲な権限を有する内閣令を迅速に発令しなければならない。先日発令された3つの内閣令は、新しい原則を導入したものではなく、従来の原則を踏み外したものでもない68 。」と強調した。キング首相とその内閣にとって、BC州の世論が望むのであれば、非白人のカナダ人マイノリティを差別しても、それは正当なものであった。69

連邦議会のCCF議員は、この内閣令に激しく反発した。北ウィニペッグ選挙区選出のアリステアー・スチュワートは、この内閣令は偽善的であり、連邦政府が正式に人種差別を是認したことになるとキング首相を攻撃した。送還申請書に署名したことで、日系人をカナダに忠誠でないと判断することは正当的でなく、また署名自体が連邦政府に強制されたものであると糾弾した。労働大臣のミッチェルは、連邦政府が日系人に強制した事実はなく、日本へ行くことを選んだ人は、「自ら間違った選択をした」のであると反論した。70 また、キング首相は「カナダが日本と戦争状態にある時に送還申請書に署名したことは、帰化一世の市民権を無効にする明白な根拠であり、送還申請書署名者は日本へ追放されるべきである。」と答弁した。71

政府が新内閣令を既成事実にしてしまったことに遅れをとった連邦政府下院は、そのままクリスマス休暇に入った。この一連の政治状況の判断は、次期議会で後に首相となるジョン・G・ディーフェンベーカー訳注IIに任されることになった。1946年3月ディーフェンベーカーは議会下院で、1945年12月のNEPTA審議を想起して次のように注意を喚起した。

連邦政府は国家非常事態継続権限法の下、カナダ市民を国外追放し、市民権を剥奪する権限を獲得しようとした。議会は政府に対し、カナダ市民を国外追放する行為は、カナダの民主主義の原則に背くものであると指摘した。民主主義の最も重要な目的の一つは、カナダの人種的マイノリティを保護することである。

しかし政府は何をしたのか? 政府はこのように不道徳な法案を議会に承認させることは出来なかった。それで政府は、議会が開かれているにもかかわらず、1945年12月15日に密かに内閣令を発令した。1945年10月5日から12月15日までの間、議会に提出されていれば、議会が承認しなかったであろう法案を、内閣はたった1日で内閣令として発令してしまった。72

日系人はカナダ連邦議会の反対にもかかわらず、日本へ追放されるように思われた。

訳注

I. カナダ政府はカナダ市民である日系人を日本に国外追放(deportation)することは出来なかった。このため、日系人は自主的に本国送還(repatriation)を選んだという方便をつかった。送還という婉曲な表現を用いても実質的には追放であった。アン・スナハラはカナダ政府の視点から追放を記述する時は「送還」を、第三者として記述する時は「追放」を用いている。本訳では原著のrepatriation を送還、deportation を追放と訳した。(戻る)

II. 1957-1963第17代カナダ首相、進歩保守党。(戻る)