人種主義の政治 アン・ゴマー・スナハラ 著
第5章財産の没収
日系カナダ人(以下、日系人)の財産の没収はバンクーバー中央選挙区選出連邦議員で年金・保健大臣のイアン・マッケンジーの罪業であった。1942年4月4日、マッケンジーはオタワからバンクーバーに戻り、選挙区の有権者によるマッケンジーの日系人追放の表彰会に出席した。マッケンジーはこの会で、ブリティッシュ・コロンビア州(BC州)から日系人の脅威を抹消すると約束して「私が政治家である限り、日系人が二度とBC州に戻ってこないようにします。」と宣言した。1 1942年4月、マッケンジーの称賛者の中には、日系人が追放されること喜んだが、これによって経済に悪影響が出ることを憂慮する者もいた。1942年当時、BC州の日系人は州の労働人口の3パーセントを占めるに過ぎがなかったが、漁業と農業に集中していた。2 農業ではベリー類と野菜の生産で市場をほとんど独占していた。日系人は1942年までにフレーザー河流域や町の周辺の農地に不向きな土地を、努力の末にやっと生産性の高い農地に改良していた。その農地でBC州のイチゴの83パーセントとラズベリーの47パーセントを生産していた。3 日系人の生産するベリー類を購入していたジャムの缶詰工場主や仲買業者は日系人がこの地域から追放されると、1942年度のベリー類の生産が減少または消滅すると心配した。そして数多くの農家が今年のベリー類の生産を放棄してしまうことを恐れて、マッケンジーに生産が継続するようにあらゆる手段をとってくれと要請した。
排日のBC州住民にとって最も簡単な解決策は、日系人漁師の漁船を白人漁師に強制的に売却させたように、日系人農家の農地を強制的に白人カナダ人(以下、白人)に売却させることだった。日系人漁師の漁船の白人漁師への売却は、白人漁師にとって非常にうれしいものだった。連邦政府から任命された「日系人漁船処分委員会」が売却に当たったが、漁船は拿捕されてから3ヶ月間、何も保全せずにただ放置されていたので傷んでおり、このような状態で査定された値段は日系人漁師が思っていた値段よりずっと低かった。4 日系人農家の生産性の高い農地も、一度に売りに出せば市場は買い手市場になり、値段は下がると期待された。
日系人農家の農地を強制的に売却させる案はマッケンジーにとっても魅力的であった。農地を売却してしまえば、追放された日系人の戻る場所がなくなるだけでなく、マッケンジーが年金・保健大臣として直面していた戦後の経済復興問題の解決に役立つだろうと思われた。第一次大戦後には大恐慌と労働争議が起きた。第二次世界大戦後にも同様なことが起こらないように、連邦政府はすでに対策を検討していた。このような対策の一つに 「退役軍人土地法」 (Veterans Land Act:VLA)があった。退役軍人を農業従事者にするプログラムで、第一次世界大戦の後にも同様なプログラムがあったが、退役軍人が農業を始めるために多額の借金をして、それが払えずに農業が破綻するケースが多発してプログラムは失敗した。この教訓から、連邦政府は退役軍人の借金の上限を4,800ドルにすることで将来の破産を防ごうとした。しかし、この金額で農地、家畜、農業器具すべてを購入するには、戦争が引き起こしたインフレで農地の値段が上昇していたので難しかった。連邦政府は農地の値段が更に高騰する前に、このプログラムの借金の上限内で退役軍人が農地を購入できるように、あらかじめ政府が農地を購入しておくことを考えていた。5 マッケンジーは日系人の農地が、このプログララムのために最適だと考えた。これらの農地は町に近くて生産性が高く、すぐに強制的に売却させれば買い手市場になり値段は安くなる。その上、ジャム缶詰工場主と近隣の白人ベリー農家が、売却後は白人農家が、退役軍人が定着するまでベリー類や野菜の栽培を小作人として続ける手段もあると保証した。マッケンジーは直ちに強制売却の手続きを始めた。6
しかしマッケンジーの計画には問題があった。 「退役軍人土地法」 はまだ連邦議会を通過していなかったので、日系人農家の農地をこの法案の下で強制売却出来なかった。マッケンジーは第一次世界戦後に作られた「退役軍人再配置委員会(Soldier Settlement Board:SSB)」が、まだ鉱業自然資源省大臣トーマス・A・クレラーの管轄下にあるのに気がついた。1942年4月14日、マッケンジーはクレラーに手紙を書き、日系人の農地はVLA に最適であることを力説し、 「退役軍人土地法」 がまだ制定されていないだけで、これらの優良な土地を購入する機会を逃すのは残念だと訴えた。そして、 戦時措置法 置法の下に内閣令を発令して、退役軍人再配置委員会が農地を買収して、 「退役軍人土地法」 が承認されるまで農地を保持するという提案をした。マッケンジーは連邦政府が急いで農地を購入しなければ、日系人農家は売却されてしまい、退役軍人をBC州に定着させる機会を失うと主張した。7 マッケンジーは、退役軍人のために農地を安値で買い上げれば、戦後の失業問題を減少させるのにも役立つので連邦政府の功績になることも強調した。
クレラーとSSB管理官ゴードン・マーキソンは、マッケンジーほど日系人農家の農地の買い上げに熱心ではなかった。マーキソンは政府が買い上げて退役軍人に売却しても、退役軍人が農業を効率的に行えなければ、農地からの収入が少なく、農地にかかる税金を払えないと心配した。しかし二人とも、自分の信念に基づいて農地の強制買い上げに反対したわけではなかった。マーキソンは、鉱山自然資源省が買い上げる農地が退役軍人が農業をするのに適しているかどうかと、農地価格の調査を提案した。8 クレラーとマッケンジーはマーキソンの提案に賛成して、 戦時措置法 の下で日系人農家がマーキソンの許可なしに農地を売却することを禁止する内閣令を要請した。日系人農家が白人に農地を買い叩かれるのを防ぐというのが表向きの理由であった。9 実際は、退役 「退役軍人土地法」 が1942年8月に議会で承認されるまで、日系人が農地を売ることが出来ないようにする時間稼ぎの手段だった。
1942年の夏を通して、ヘイスティングス・パークの家畜小屋に収容されていた日系人は、BC州内陸の収容所へ移動して行った。マーキソンの部下達はフレーザー河流域の日系人の農地の価値を査定するのに忙しかった。査定チームは、1930年代の干ばつの時に南サスカチュワン州の荒れ果てた農地の査定のためのの訓練を受けていて、大恐慌時の査定基準をフレーザー河流域の査定にも適用した。同農地が南サスカチュワン州の農地と違って肥沃で生産性が高いことも、農業以外への転用、例えば宅地の造成にも利用できることは無視した。農場にある建物は市場価格の70パーセントに査定し、同時に、農地が退役軍人とその家族が農業を営んで生活するのに適しているかどうかも調査した。10
査定の結果が1942年9月に届くと、マーキソンは熱心になった。マーキソンは1942年8月に 「退役軍人土地法」 の執行責任者になっていたが、査定された939の日系人農家の、退役軍人が農業を始めるのに適した60パーセントの農地の買収を急いだ。1942年9月にマーキソンはクレラーに、日系人農家の土地を「土地の購買を許可された人に、購買者にとって一番有利な価格で」売却を始めるように促した。11 そして日系人農家には、部下が行った査定額を払うようにした。彼はこの査定が低めであることも、農地の将来の発展を見込んだ投資利益を無視したことも知っていた。しかしマーキソンは、この提案が「日系人農家にとって一番明瞭で公平な農地の売却方法だ。」と主張した。12
マーキソンが日系人農家のことを本当に気にかけていたかどうかは疑問である。マーキソンは第二次世界大戦中の一般の白人と同様に、日系人が強制収容されたのは日系人がカナダに害を及ぼす恐れのある裏切り者だからであると認識していた。この日系人に対する偏見はクレラーに出した手紙からも明らかである。マーキソンはこう手紙に書いている。
(フレーザー河の南の土手近くに日系人の鶏舎が建っているが、)どうやって建築資金を工面したのか不思議である。現在、白人の養鶏業者はみな経営に四苦八苦している。このフレーザー河近くの日系人の鶏舎の位置はこの辺りを見張るのに最適だ。鶏舎は鶏の飼育以外に、なにか他の目的があると疑わざるを得ない。13
後にマーキソンは「私の唯一の関心は、退役軍人土地法を管轄する役所と、海外で戦っているカナダ兵士のために、出来るだけ安い値段で農地を買うことだった。」と認めている。14
1942年11月末、クレラーとマッケンジーは日系人の農地を買収するための最後の運動を始めた。敵性外国人資産管理局(the Custodian of Enemy Property: CEP)の権限は、追放された日系人の資産の保護と管理に限られ、フレーザー河流域の日系人農家の強制売却には連邦政府内閣が 戦時措置法を使って、内閣令でCEPの権限を拡張する必要があった。しかし、この内閣令は、敵性外国人と日系人の財産の法律上の管理者であった内閣官房長官ノーマン・マックラーティーだけが発議することが出来た。1942年11月にクレラーはマックラーティーに手紙を書き、日系人農家の農地の売却を促した。「追放された日系人が、将来家に戻るのはいつになるのか、またどんな状況下で戻るのか、現在わかっていない。15 従って、その農地の将来の価値も下がるかもしれない」とクレラーは主張した。
クレラーは日系人農地の価値の下落を心配していたが、連邦政府労働省は収容所に収容された日系人の生活費をどのように工面するか心配していた。日系人が自分の資産を売却して、その収入を収容所の生活費にあてれば、政府の収容所維持費が削減できると考えた。また野党の保守党が日系人関係の政府支出は必要最小限に留めるべきだと自由党政権を批判していたので、政治的にも収容所の運営費を最小限に留めることは必要だった。
マックラーティーはBC州の政治家からの圧力を感じていた。これらの政治家は日系人の資産を売却してしまえば、日系人は戦後太平洋沿岸地域に戻るのが難しくなると思っていた。1942年9月にバンクーバー市議会議員のジョージ・バスコムは次のように言った。「我々は日系人の資産を漁船と同様に、すべて売り払ってしまえという立場である。……我々は戦争終了後、日系人が此処に戻ってきて欲しくない。彼らは白人よりたくさん子供を生み、放っておけばそのうち白人よりも人口が多くなってしまう16 。」バンクーバー市議会は日系人を追放したあとのパウエル街を再開発したいので、パウエル街の住宅と商店を売却するようにCEPバンクーバー事務所長G・W・マクファーソンに要求していた。
マクファーソンは連邦警察に「ジャップ嫌い」と呼ばれていた人物である。すぐさまバンクーバー市議会の野心を支援して、1942年12月中旬に連邦政府に手紙を書き、パウエル街の日系人不動産のすべての一括売却を勧告した。日系人の不動産には個別には売却の難しい品質の悪いものがあり、また個別に売却しては費用がかかり過ぎるというのがその理由であった。マクファーソンはカナダ太平洋鉄道(CPR)と、パウエル街の日系人不動産一括売却の秘密交渉をしたいと思っていた。パウエル街は強制移動前にバンクーバーの日系人の大部分が住んでいたところであったが、CPRはここを工業地帯にする計画を持っていた。17
1942年12月半ばには、マックラーティーは、クレラーとマッケンジーの計画に理解を示していた。しかし、依然として日系人の資産の強制売却による影響を心配していた。強制売却は日系人が戦後、太平洋沿岸地域に戻るのを禁止することを宣言するのに等しかったからである。マックラーティーは日系人を太平洋沿岸地域から排除することに、ほとんど痛痒を感じていなかったが、日系人の財産の強制売却が最良の方法であるのかどうか確信を持てずに迷っていた。18
イアン・マッケンジーがマックラーティーを説得する役目を担った。12月下旬、マッケンジーはマックラーティーを連邦政府の「日系人問題に関する閣僚委員会(Cabinet Committee on Japanese Questions;CCJQ)」に招いた。この委員会は日系人の資産売却の詳細を議論した。マックラーティーは1月上旬には、政府労働省とCEPの両方とも日系人資産の強制売却に賛成であることを知った。労働省は、資産を売却すれば日系人がその収入を収容所生活に使うので、労働省の収容所管理の費用が削減出来るし、また、太平洋岸地域に家や資産がなくなれば、日系人はキャンプを去ってロッキー山脈以東に移動するだろうと考えた。CEPは、表面的は日系人資産の管理上の問題を削減するという理由であった。マックラーティーは、戦後に日系人が太平洋沿岸地域に戻ることになれば、BC州の自由党に大打撃になるとマッケンジーが恐れていることも知っていた。19
マックラーティーはすぐに日系人資産の売却を納得した。1943年1月19日、マックラーティーはマッケンジー、クレラー、労働大臣ミッシェルとともに連邦政府内閣に日系人資産の強制売却を進言した。1月23日、内閣は進言を取り入れ、 戦時措置法 の下で内閣令〈第469号〉を発令し、CEPに日系人の承諾なしにすべての資産を売却する権限を与えた。こうして日系人は収容所での生活費を自ら払うことになった。
戦争報道で高揚した新聞は、CEPの権限が拡大したことに暫くの間気づかなかった。戦況は1939年以来初めて連合国に有利になっていた。アフリカでは英国軍大将バーナード・モントゴメリーがロンメルのドイツ・アフリカ軍を敗走させていた。ロシアではドイツ軍第6師団がスターリングラードでロシア軍に包囲されていた。アジアでは米軍とオーストラリア・ニュージーランド連合軍のガダルカナル攻撃が始っていた。戦況は連合国に有利になり、枢軸国に不利になった。
ようやく日系人と新聞社は、CEPの権限が拡張されたことに気がついたが、両者とも小さな事務的な変化に過ぎないと思った。しかしカナダ人の中には、この権限拡張に疑念を抱き、悪用を危惧した人がいた。その一人がバンクーバーの「戦時下カナダ市民権問題協力諮問委員会(Consultative Council for Cooperation in Wartime Problems of Canadian Citizenship)」委員のハワード・ノーマン牧師だった。20 牧師はこの権限が最大に拡張されて施行されたときの危惧をヘンリー・アンガス博士に伝えた。博士は年季の入った日系人擁護者で、戦時中は連邦政府外務省に勤務していた。
牧師の報告に驚いたアンガスは、直ぐキング首相に抗議文を送った。CEPの権限を拡張してカナダ市民の資産を没収することは、英国風正義と大西洋憲章に反するもので、もしカナダ政府が日系人の資産の売却を行なえば、日本はその支配下の地域でカナダ人資産に報復を加えることになる。日系人資産の売却は、持ち主の日系人の利益になるときだけに限定されるべきである。ノーマン牧師とその同僚は、CEPの拡張された権限は、ナチドイツがドイツのユダヤ系ドイツ人の資産を強制売却したニュールンベルグ法と同一であると見なしている、とアンガスは抗議した。21 しかしキング首相からの返事はなかった。
日系人の財産のうち、日系人が保持していても利益にならないものだけが売却されるという作り話が1942年3月中続いた。22 しかし3月28になると、日系人の財産は全て売却されるというのが本当だと確認された。CEPバンクーバー事務所長G.W.マクファーソンが、バンクーバーの日本人資産の処理でCEPを支援する諮問委員会の職務を明らかにしたからである。マクファーソンの指示は、日系人所有の不動産のみならず、CEPが管理している追放された日系人の個人的な持ち物まで全てを売却することであった。23
全資産の強制売却は日系人社会を震撼させた。普段は怒りを冷静に抑えていた 『ニュー・カナディアン』紙編集長のトム・ショーヤマも怒りをあらわにして、連邦政府の新たな裏切り行為について次のように書いている。
日系人のなかで強固に、忍耐強くカナダに忠誠を誓った人は、カナダ政府の今回の苦々しい処置を何も言わずに受け入れるかもしれない。しかし、この政策はどのような観点から見ても弁護の余地がなく、カナダ国内で人種戦争が始まったに等しい。日系人は激しい拒否反応を示すと思う。〔中略〕真珠湾以来、日系人は次から次へと虐待を受けてきたが、この政策は日系人を最終的に押しつぶすものだ。〔中略〕日系人は政府の政策によって大きな被害を被ってきた。これらの政策は正義、理性で正当化出来る範囲を遥かに超えている。必要だとも考えられない。一体、政府はこのような政策を、状況を知り、物事を考えることのできるカナダ人に説明できると考えているのだろうか。24
全資産の強制売却は、人種差別に基づいたもっと邪悪な計画の一部だとするよりほかに、その理由が考えられなかった。
日系人は最初は激怒したものの、すぐに統制のとれた法律に則った抗議を始めた。皆で協力して団体行動を取ることが、抗議活動に有効なことを知っていたので、組織づくりを始めた。3月31日にカスロー収容所では、皆に尊敬されていた医師コーゾー・シモタカハラが指導者になって「日系人資産所有者協会(Japanese Property Owner’s Association:JPOA)」を結成した。1週間以内に、BC州の全ての収容所と自活キャンプで、同様な組織が結成され、カスローのJPOAと連絡を取った。JPOA は、先ず日系人が自分の資産を強制売却されることに賛成か反対かを調査した。また弁護士を雇い、強制売却内閣令の合法性を裁判で争える可能性の調査を開始して、訴訟費用の募集を始めた。25
1943年の5月中、日系人は裁判の費用を集め続けた。裁判で資産の強制売却命令を覆し、正義を勝ち取ると確信していた。日系人の英国風正義に対する信頼は絶大であった。以前、連邦政府が日系人漁民を漁業から排除しようとした時、裁判所は日系人を支持して、連邦政府を敗北させた。26 今回も、カナダと戦争状態にある枢軸国の一国が先祖の国であるというだけで、何の犯罪も犯していないのにその全財産を強制売却するという明らかに正義に反する政策を、裁判所は覆すと思った。英国風正義は政府を負かすと信じた。この時、日系人は多くのカナダ人と同様、 戦時措置法の持つ強大な権限に気づいていなかった。
日系人が裁判に備えて組織を作っていたころ、退役軍人再配置委員会管財人マーキソンは既に日系人の農地買収を始めていた。1943年5月に 「退役軍人土地法」 のバンクーバー地区監理官イバン・T・バーネットは、バンクーバー市外の日系人の不動産売買に関する責任を持っていた郊外諮問委員会(Rural Advisory Committee)27 に、769の日系人農家の農地を75万ドルで買う提案を出した。これら農家の固定資産税の評価額は120万ドルであった。バーネットは「連邦政府が、自らが購入することを考慮せずに客観的に」評価したのがこの金額であると主張したが、それぞれの農家の農地の評価額を開示することはなかった。28 郊外諮問委員会はこの評価額の75万ドルに不信を抱き、自ら17戸の日系人農家を選んで委員会の専門家に評価してもらった。その結果、この17戸だけでもバーネットの出した評価額より15,000ドル多かった。29 郊外諮問委員会はバーネットの購入申し入れを拒否した。しかし日系人農家の農地を、退役軍人のために売却すること自体には反対していなかった。日系人農家の農地の大部分を直ちに政府に売り、後に退役軍人がこれら農地を使用するという案を大部分の委員は魅力的と受け取った。委員長のデービッド・ホワイトサイド判事は 「退役軍人土地法」 の地域委員会に交渉を継続することを要請した。
その後の交渉は、郊外諮問委員会の日系人委員ヤスタロウ・ヤマガ〈山家安太郎〉を不安にさせるものだった。ヤマガはBC州メープルリッジの農業共同組合の組合長をしていたが、日系人農家の利益を守るために委員会に参加した。30 1943年5月24日、郊外諮問委員会委員長のホワイトサイドはバーネットの85万ドルの購買申し入れを受け入れた。31 ヤマガは、他の委員全員が日系人農家の利益を保護するよりも、退役軍人に農家になる機会を与えることを重視していることを思い知らされた。85万ドルは不動産税のための評価額の70パーセントにも満たず、また郊外諮問委員会の行ったサンプル調査で、この評価額が実勢価格より低いことがわかっていた。ヤマガは最終的な売却価格が日系人土地所有者に著しく公正を欠いたものになるを確信した。ヤマガは抗議のために委員会を辞任した。32 ヤマガが辞任してから三日後に、ヤマガが危惧したように、バーネットは日系人農家の農地購入に85万ドルを払うことを承諾した。そして6月23日、マックラーティーとクレラーは日系人農家の農地の強制売却手続きをオタワで完了した。これで 「退役軍人土地法」 は769の日系人農家の土地だけだでなく、1943年度収穫の純収入分43,000ドルも手に入れることになった。
連邦政府鉱山自然資源大臣クレラーが、自分が日系人農家の土地の強制売却に関わっていたことを、どれだけ自覚していたかはわからない。 「退役軍人土地法」 はクレラーの広範囲な責任のなかでは小さなものだった。当時のクレラーの関心は、どうやってカナダの自然資源を戦時経済の必要を満たすために供給するかに集中していた。クレラーは内閣日系人問題委員会に出席したことがなかった。クレラーがマックラーティーに出した手紙は、恐らくマーキソンが、クレラーの意向に沿うと思って日系人資産の市場価値下落の危惧を強調した草稿を書いたものだっただろう。クレラーは自分が発議した内閣令が、CEPに日系人の全財産を強制売却する権限を与えたとは自覚せず、ただマーキソンが当初説明したように、日系人の資産の価値が下がるのを防ぐために、まだ価値が高いうちに売却するためだけに使われると思っていたのだろう。ましてや、連邦政府労働省が、資産売却の収入を日系人に自らの収容所での生活費に当てさせる魂胆だったことは知らなかっただろう。日系人は収容所に拘留される費用を、自分たちの財産の強制売却で得た収入で賄うことになったのである。
クレラーはやがて日系人に何が起こっているか知ることになるが、その時とった行動が、クレラーはマッケンジーの日系人から資産を剥ぎ取る計画に、自ら進んで加担したのではなかったことを証明している。クレラーは1920年代のカナダ平原州の政治的自由主義運動の中で育った真の自由主義者であった。クレラーの連邦議会での政敵であった協同連邦党(CCF)の政治家は、1944年までクレラーは「日系人の資産売却政策に加担したことを苦にしていたが、自由党内閣の一員として同僚議員と共に行動せざるを得なかったのだろう33 。」と述べている。古くはCCF党員で後に新自由党(New Democratic Party : NDP)連邦議会議員スタンレー・ノウレスは次のように述べている。
戦時中にCCF党首だったM・J・コールドウェルが、党の幹部会でトム・クレラーについて話したことがある。〔中略〕クレラーは、戦時中に連邦政府が日系人に対して行ったことは、自由主義から大きく外れていると思っていた。〔中略〕彼は心情も哲学もまったく逆の立場にあった。そのため自分も政策に加担したことを思い悩んでいた。34
1945年4月にクレラーは連邦議会議員を辞めて上院議員になり、自由党内閣の束縛から逃れると、日系人問題について協同連邦党の側についた。クレラーは、自由党の上院議員ケイリーン・R・ウィルソンとアーサー・W・ローバックと一緒に、戦後も日系人に対する制約を延長する法案にすべて反対し、キング首相に冷笑されるのも構わずに、自由党の仲間議員に声をかけ法案に反対するよう勧誘した。35
マックラーティーも、 「退役軍人土地法」 (Veteran’s Land Act:VLA)のために日系人農家の農地を購入したのは、違法ではないかと疑念を持った。これはマックラーティーの功績であろう。1943年6月、マックラーティーは農地の購入を最終決定する前に、自分の疑問をマッケンジーにただした。マッケンジーは自信に溢れた口調で次のように告げた。「私は農地の購入に大賛成です。日系人がどのような抗議をしようと関係ありません。我々が 戦時措置法 の下で取る行為には、誰も裁判で挑戦できません。」36
「日系人資産所有者協会(JPOA)」の弁護団は、資産の強制売却を許可した内閣令は、裁判で覆せると自信を持っていた。1943年7月末、弁護団のT・G・ノリスとJ・A・マクレナンは日本国籍者一名、帰化日系人一名、二世一名の代理人として、権利請願をカナダ財務裁判所(Exchequer Court of Canada)に申請した。しかし、通常は4週間から6週間で始まる裁判の開廷を、結局ほぼ1年後の1944年5月29日まで待たなければならなかった。第1回の聴聞会で弁護団の予期しなかった事態が生じた。弁護団が注意深く用意した陳述を始める前に、被告側が手続き上の問題を提起した。敵性外国人資産管理局(CEP)が連邦政府の一部でありこの裁判所で審理する対象であるかどうかという議論である。裁判長のJ・T・ソーソンは、1942年に日系人の追放を決定した時の連邦自由党内閣の国家戦時サービス大臣であった。ソーソンは手続き上の問題を理由に、裁判を無期限に延期した。連邦政府の常套手段である決定を先延ばしする方策を使い、ソーソンはこの手続き上の問題の決裁を3年間保留して、戦争が終了してから2年後の1947年に裁判を再開した。そしてソーソンは、CEPは連邦政府の一部ではないので、申請は無効であると言い渡した。37
弁護団が異議を唱え、ソーソンが裁判をぐずぐずと引き伸ばしている間に、連邦政府は日系人の資産を売却してしまった。売却は着々とビジネスライクに行われた。CEPバンクーバー地区諮問委員会と郊外地区諮問委員会が、日系人の資産の査定方法を決めて、資産の価値と売却または賃貸の条項を定めた。資産の売却は公開の入札で行われた。一度にたくさんの不動産が入札に出されたので、入札は買い手に有利になり、落札価格は低くなった。また不動産以外の日系人の所有物で、まだ破壊されたり盗まれたりしないで残っていたものは、それから3年かけて競売で売り払われた。1947年までに、当時の市場価値で11,500,000ドルと推定された資産が、わずか5,373,317.64ドルで売却されてしまった。38
BC州太平洋沿岸の一般カナダ人にとって、日系人の資産の強制売却は何千という品物の大バーゲンセールの開幕だった。家具、農具、家庭用品、衣服、工芸品、ビジネス用器具、農業機械、家電用品、ミシン、ピアノ、工具、私的なものの詰まったトランク等、いろいろあった。トランクは開けられずに競売にかけられた。買い手は一つのトランクを2ドルで買って、開けて中身を見るのを楽しみにした。本や書類の詰まったものもあったが、中には陶器、銀器、絹の着物、日本の工芸品、日本人形の入ったものもあった。トランクを買って価値のあるものを見つけた人の中には、日系人収容所まで持っていって、日系人に売りさばいた商売上手な人もいた。39
収容所の日系人で、これらの品物を買うことの出来る資金を持っていた人は、次第に少なくなった。資金を持っているので自分で費用を払い、バンクーバーに隠して残してきた私物を見つけ、破損していな物を収容所まで運送してもらった人もいたが、教会や集会所に鍵をかけて置いてきたトランクや箱を取り戻してみると、中は空になっていたり、自分のものでないガラクタが詰まっていることも多かった。40 日系人は自分の資産を売り払われてしまったが、それで収容所で使える現金が増えたのではなかった。実際は現金は減っていた。例えば不動産を持っていて賃貸収入のあった人は毎月の賃貸収入が無くなった。不動産の売却収入を生活に当てねばならなくなった。不動産の売却収入は、CEPに強制的に無利子で預けられていた。その上、収容所の日系人に支払われる金額は厳しくコントロールされ、1家族毎月100ドルしか現金の引き出しは許可されなかった。CEP に売却資産の収入を預けていた人は、収容所内では仕事に就けなかった。このような制約が設けられたのは、CEPに預金を持っている日系人がロッキー山脈以東に移動するように仕向けるためであった。このような移動の際には、CEPの預金を全て受け取ることが出来た。41
ロッキー山脈以東に志願して移動する日系人は、CEPに預けてある資金を全額引き出すことができたが、資金の使いみちは限られていた。1942年2月以降、日系人は土地や店舗の購入や貸借に、法務大臣ルイ・サンローランの許可が必要になっていた。42 サンローランは戦争終了後の日系人の処遇が決定するまで、許可を出すことを渋った。もし許可を出して日系人が定着しても、連邦政府がまた日系人の強制移動を命じれば(実際のところ、サンローランはこのように願っていた)、日系人の不動産もまた強制売却することになる。二回も資産の強制売却をさせなければならなくなる自由党内閣の不手際は避けたかった。サンローランは、その結果、第二次世界大戦が始まる前からBC州以外に住んでいた日系二世までも、土地を購入、賃貸することも禁止した。1944年1月上旬、サンローランは、日系人が店舗を1年契約で借りることを許可した。しかしこの許可も、トロントや南アルバータに移動した日系人にはなんの役にもたたなかった。これらの地域では、市町村条例で日系人が商売のための免許を取ることを禁止したり、市内に住むことを禁止していたからである。43
多くの日系人は資産の強制売却の結果貧しくなった。資産の売却収入から不動産売却や競売手続き費用を払い、持ち物の保管料を払い、過去に貰った生活保護手当を返済すると、手元に残った資産売却収入はごく僅かだった。その資金も、毎日の生活に必要なものを買うとすぐに底をついた。高齢者や子供の大勢いる家族は預金を日常の必需品の購入に使わなくてはならなかった。収容所では仕事のない人が多かった。また仕事があっても賃金が低かった。CEPに少額でも資産売却収入を預けていた人は、仕事に就くことを禁止された。独身者は家族の中でただ一人の働き手でない限り、仕事に就けなかった。そのうえ独身者は生活保護ももらえなかった。収容所に隔離されてから間もなく、日系人は生活していく手立てもなく、将来生活を再建する資金もないことを悟った。生活の再建といっても、それはまだ若くて将来がある人だけの問題で、高齢者は再建など考えてもみなかった。44
資産売却が進むにつれて収容所の人口構成は変化しはじめた。資産を売却した家族は、もう太平洋岸地域の帰る我が家が無くなってしまったので、モントリオール、ウィニペッグ、オンタリオ州南部へ移動し始めた。若い独身男性も大勢東部カナダへ移動を始めた。就職して収入を得て、BC州に残っている両親や兄弟姉妹の生活を支えるためであった。独身女性で兄弟と一緒に移動した人もいたが、独身女性が両親を残して移動することは一般的に嫌われた。日本の伝統的価値観に反することであり、また移動先で結婚すればもう家族のところに帰ってこないと心配されたからであった。1944年末までに収容所に残っていたのは、高齢者、病人、若い夫婦で子供の多い人、市場価値のある経験や技術を持たない人、日本愛国者などであった。また、新しい土地で苦労することを諦めた人や、戦争が終了して普通の生活が戻るまで収容所にいようとする人だけになった。
収容所の雰囲気も変わってしまった。1943年春には、「戦争はすぐに終わり、自分の家に戻ってまた普通の生活が出来る」というそれまで収容所に広まっていた希望的、楽天的な雰囲気は永久に消滅した。資産の売却で貧しくなったり、カナダ社会に幻滅して悲観的になり、世の中を皮肉に見る人が増えてきた。日本愛国者は、収容所の日系人がカナダを恨むようになっていくのを見て、カナダは人種差別の国であり、日本人は日本だけで人間として生きられると宣伝した。収容所に残された人達は、惰性、貧困、将来の不安、恐怖に苛まれ、状況が好転するという希望もなく、やる気をなくしたまま、一日一日をやり過ごした。45
注
- Vancouver Daily Province, 4 April 1942. (戻る)
- 1941年には日系人労働者の18.8パーセントが農業、16.3パーセントが漁業に従事していた。Canada, Department of Labour, Report on the Administration of Japanese Affairs, 1942-1944, p.3. Report on the Administration of Japanese Affairs, 1942-1944, p. 3. (戻る)
- Kimiaki Nakashima, "Economic Aspects of the Japanese Evacuation from the Canadian Pacific Coast," M.A. thesis, McGill University, 1946. pp. 28, 37, 38. (戻る)
- 日系人漁船売却委員会が査定した漁船の価格は、漁民自身の査定価格より9パーセントから25パーセント低かった。A.E. McMaster, Executive Assistant, JFVDC, to Dr. D.B. Finn, Deputy Minister of Fisheries, 24 April 1942, Department of Fisheries Records, 792-17-1, vol. 1, DFA. (戻る)
- Ian Mackenzie to T.A. Crerar, 14 April 1942, Ian Mackenzie Papers, MG27IIIB5, vol. 25, 70-25-3, PAC; Mr. Beauchesne to Mackenzie, and W.S. Woods, Assoc. Deputy Minister, Department of Pensions and Health, to C.N. Senior, 31 January 1942; H. Leader to Mackenzie and reply, S March 1942, lan Mackenzie Papers, MG27IIIB5, vol. 60, PAC. (戻る)
- Mackenzie to Crerar, 14 April 1942, loc. cit. (戻る)
- Ibid. (戻る)
- Memorandum, Gordon Murchison to Crerar, 22 April 1942, Ian Mackenzie Papers,, MG27IIIB5, vol. 25, PAC. (戻る)
- Crerar to Mackenzie, 27 April 1942, lan Mackenzie Papers, MG27IIIB5, vol. 25, PAC; Order-in-Council P.C. 5523, 26 June 1942. (戻る)
- Murchison to Crerar, 8 and 16 September 1942, loc. cit. (戻る)
- Ibid., 8 September 1942. (戻る)
- Ibid., 16 September 1942. (戻る)
- Ibid., 8 September 1942. (戻る)
- Canada, Standing Committee on Public Accounts, Minutes of Proceedings and Evidence, 1947, p. 189. (戻る)
- Crerar to N.A. McLarty, 30 November 1942, Ian Mackenzie Papers, MG27IIIB5, vol. 25, file 70-25(c), PAC. (戻る)
- 『ニュー・カナディアン』, 2 September 1942. (戻る)
- G.W. McPherson to Dr. E.H. Coleman, Under-Secretary of State, 9 December 1942, Ian Mackenzie Papers, MG27IIIB5, vol. 25, PAC. F.J. ミードはマックファーソンを「ジャップ嫌悪者」と表現した。これはミードがBCSC委員長の時に、マクファーソンと接触したときの感想に基づく評価であった。1942年12月にミードは、マクファーソンを日系人に関する政府の重要な役には就けさせないようにと要請した。H.T. Pammett to A. MacNamara, 5 December 1942, Department of Labour Papers, RG27, vol. 644, PAC. (戻る)
- McLarty to Mackenzie, 21 December 1942, lan Mackenzie Papers, MG27IIIB5, vol. 25, PAC. (戻る)
- Mackenzie to Crerar, 12 December 1942; Memorandum, McPherson to Coleman, 5 January 1943, loc. cit.; memorandum to the Cabinet Committee on Japanese Questions, Reference Document Ô'E," undated [1946], lan Mackenzie Papers, MG27IIIB5, vol. 79; Cabinet Committee on Japanese Questions, Minutes, 11 January 1943, Ian Mackenzie Papers, MG27IIIB5, vol. 24, PAC. (戻る)
- 「戦時下カナダ市民権問題協力諮問委員会(Consultative Council for Cooperation in Wartime Problems of Canadians Citizenship)」はバンクーバーにあった組織で、戦時中にカナダ市民が不当に扱われないように監視することを目的とした。この委員会の数人の委員は1930年代に日系人に選挙権を与える運動に参加していた(運動は失敗した)。 (戻る)
- H.F. Angus to W.L.M. King, 15 March 1943, Department of External Affairs Papers, vol. 3464-R-40, External Affairs Archives. (戻る)
- 『ニュー・カナディアン』, 3 April 1943. (戻る)
- Greater Vancouver Advisory Committee, Minutes, 28 March 1943, Office of the Custodian of Enemy Property Papers, RG117, microreel 177, PAC. (戻る)
- 『ニュー・カナディアン』, 10 April 1943. (戻る)
- 『ニュー・カナディアン』, 3, 10 and 17 April 1943; Sgt. J.K. Barnes, Intelligence Section, "E" Division, RCMP, Report, 8 April 1943, BCSC Papers, RG 36/24, vol. 9, PAC. (戻る)
- 第一次キング内閣は1923年、日系人を漁業から排除しようとして、日系人の漁業許可証を減少して、白人と原住民にまわそうとしたが、1930年、英国枢密院は、英国市民である日系人漁民の漁業許可証を制限する権限は、カナダ連邦政府の漁業大臣にはないと裁定した。C.H. Young, H.R. Reid and W.A. Carrothers, The Japanese Canadians, Toronto; University of Toronto Press, 1939. pp. 38-39. (戻る)
- 郊外諮問委員会はデービッド・ホワイトサイド判事を委員長として、ニューウェストミンスター市長のW・モット、ハル・メンジーズ、D・E・マッケンジー、ヤスタロウ・ヤマガが委員だった。バンクーバー地区諮問委員会はシドニー・スミス判事を委員長として、チャールズ・ジョーンズ市会議員とキシオ・キムラが委員だった。 (戻る)
- See Canada, The Royal Commission to Investigate Complaints of Canadian Citizens of Japanese Origin (Bird Commission), Evidence, BCSC Papers, RG 36/24, vol. 76, PAC; and Canada, Standing Committee on Public Accounts, op. cit., p. 211. (戻る)
- 標本調査で不動産価格を査定する委員会は、ヤスタロー・ヤマガ、ハル・メンジーズ、D・E・マッケンジーだった。3人ともベリー栽培業か不動産業に関係していた。委員会の調査結果は次を参照。Canada, Standing Committee on Public Accounts, op. cit., p. 114. (戻る)
- ヤマガが委員会に参加した理由の一つは、多くの日系人農家の農地の価値が、農地を借りている白人農家の下手な栽培で下落していると思っていたからであった。Barnes, Report, 8 April 1943, loc. cit. (戻る)
- 1943年6月1日に郊外諮問委員会が日系人農家の農地の強制売却を正当化した理由の一つは、農地が退役軍人に売却されることになっていたからであった。Canada, Standing Committee on Public Accounts. op. cit., p. 216-18. (戻る)
- Ibid , pp. 211-16 (戻る)
- インタビューStanley Knowles, Ottawa, Ont. (戻る)
- Ibid. (戻る)
- J.W. Pickersgill and D.F. Forster, The Mackenzie King Record, Vol IV, 1947-1948. Toronto: University of Toronto Press, 1970 p. 235. (戻る)
- Mackenzie to McLarty, 5 June 1943, lan Mackenzie Papers, MG27IIIB5, vol. 25 PAC. (戻る)
- 『ニュー・カナディアン』, 3 June and 31 July 1944; Vancouver Sun, 29 May 1944; Ken Adachi, The Enemy That Never Was, pp. 322-23; Nakashima et al. v. R. [1947] 4 D.L.R. 487. (戻る)
- 1943年1月に敵性外国人資産管理局は、日系人の全資産の価値を11,525,000ドルと評価した。McPherson to Coleman, 19 January 1943, Office of the Custodian of Enemy Property Papers, RG117, vol. T95, PAC. しかし、日系人が1947年3月31日までに受け取った金額は5,373,317.64ドルであった。 Memorandum to Cabinet, Ian Mackenzie Papers, MG27IIIB5, vol. 79, PAC. (戻る)
- 日系人のインタビュー。 See also Barry Broadfoot, Years of Sorrow, Years of Shame: The Story of Japanese Canadians in World War II, Toronto: Doubleday, 1977, pp. 100-20. (戻る)
- 日系人のインタビュー。 (戻る)
- Nakashima, "Economic Aspects," pp. 28, 30, 33; Canada, Standing Committee on Public Accounts, op. cit., pp. 158, 246. (戻る)
- Order-in-Council P.C. 1457, 24 February 1942. 法務省は1942年から1944年まで日系人からの不動産購買の申請をすべて拒否した。1942年2月以前に購買の手続きが始まった物件だけが例外だった。See Department of Labour Records, RG 27, vol. 642, file 23-2-12-1, PAC. (戻る)
- Forrest E. La Violette, The Canadian Japanese and World War II, Toronto: University of Toronto Press, 1948 pp. 146-47; 『ニュー・カナディアン』, 1 July 1944, 17 October 1945. サンローランの日系人に対する見方は次を参照。The W.L.M. King Diary, 19 January 1947, W.L.M. King Papers, MG26J3, PAC. (戻る)
- 日系人のインタビュー。1945年4月に収容所にいた勤労年齢の日系人の50パーセントが失業中か、身体的に仕事のできる状態ではなかった。1943年には収容所の日系人の半数が生活補助を受けていた。生活補助については次を参照。 The welfare reports in the BCSC Papers, RG 36/24, vol 22, file 805, PAC. (戻る)
- 著者による収容所経験者とのインタビュー。 (戻る)