人種主義の政治 アン・ゴマー・スナハラ 著

第2章日系カナダ人排除の決定

1941年12月7日の日本軍の真珠湾と香港攻撃は、日系カナダ人(以下、日系人)に大打撃を与えた。日系人はカナダと日本が戦争状態になったことに衝撃を受け、日本軍が太平洋戦争を始めた戦略に驚き、これから自分たち一人ひとりに、そして日系人社会全体に何が起こるのか不安におびえた。中には日本が軍事力を発揮し、独創的な戦術を実行したことを誇りに思い、この戦争に日本が勝つかもしれないと思った人もいた。しかし大部分の日系人はただ愕然とした。弱小で国内が分裂している中国を相手に戦うのと1、強大な米国に正面から立ち向かうのとは全く異なると思った。12月7日、誰もが家に閉じこもり、家族や親しい友人と一緒に、日本軍の攻撃は自分たちにどんな影響をおよぼすか、戦争の結末はどうなるか、カナダ政府とブリティッシュ・コロンビア州(以下、BC州)住民がどんな行動をとるかなど、いろいろと憶測するしかなかった2


日本軍の攻撃に対して、連邦政府とBC州政府は断固とした対応策をとった。真珠湾と香港攻撃の数時間後、連邦内閣は日本に宣戦布告した。そして、日本は英国領の香港にたいして、理不尽なだまし討ちの攻撃を仕掛けた、香港への攻撃でカナダの国防と自由は損なわれた、と日本を非難した。同時に連邦政府内閣は、BC州住民に対して冷静になるように、排日デモをしないように要請し、BC州に住む日本国籍者およびカナダ生まれの日系人のカナダへの忠誠心を信用している、という声明を出した。3

12月8日、カナダ連邦政府外務省事務次官ノーマン・ロバートソンは、米国の駐カナダ大使ジェイ・ピエレポント・モファットと日系人問題について話し合った。モファットはこの会合について日記に次のように記している。

ロバートソンは、カナダと米国が日本国籍者の強制収容について、協議して政策を調整することを期待していた。カナダ政府は、ある程度の数の日本国籍者を強制収容することはあるだろうが、日系人すべてを強制収容することは望んでいない。しかし、日本軍の卑劣な真珠湾攻撃を見ると、日本はこの攻撃を予め周到に用意していたことは確かであり、また南米諸国が日系人をすべて強制収容したというニュースも入ってきていて、今となっては、日系人の限られた人達だけを強制収容して、日系人全ての強制収容はしない、という政策を取ることは不可能だろう。4

ロバートソンは、真珠湾攻撃が起きた以上は、日系人に対して必要以上に厳しい処置を取らざるを得なくなるだろうと心配していた。

カナダ太平洋岸では、1938年の時点ですでに用意してあった国防計画が実行に移された。31名の日本国籍者がカナダ連邦騎馬警察(RCMP)に拘留された。5 加えて、7名の日本国籍者が某日系人リーダーの示唆によって拘留された。拘留されたのは、柔道講師、日本帝国陸軍の退役軍人、日本人団体の役員などであった。RCMP2名が、日本語学校校長のツタエ・サトウ〈佐藤伝〉を訪問して、白人の暴力に晒される危険を最小に留めるために、日本語学校を閉鎖し、現地新聞の発行を止める同意を得た。ドイツ国籍者、イタリア国籍者と同様に、日本国籍者もRCMPに名前の再登録を命令された。6 また日系人漁師は全員がカナダ国籍を取得していたが、操業している漁船はすべて最寄りの港に寄港せよ、という命令を無線で受け取った。7

12月8日の夜明けと共に、カナダ海軍は日系人漁師の漁船1,200艘の押収を始めた。海軍はこの作業のために、すでに用意してあった船で太平洋沿岸の小さな港を調べ、海岸に引き上げてあった漁船は航行不能にし、停泊中の漁船はプリンスルパート、ナナイモ、ニューウェストミンスターに曳航した。8 ショーヤマが予想していたように、カナダ海軍はカナダ防衛のために日系人漁師の漁船を押収したと説明した。

日系人漁師は全員がカナダ国籍を持っていたが、カナダ海軍の漁船押収に協力した。しかし、漁船を港まで曳航する時に、海軍が漁船を手荒に扱うのを見るのが辛かった。押収の初期には、海軍の未経験な水夫が漁船を二列にしてロープで結び、漁船の係留所まで曳航したので、漁船がぶつかり合い水浸しになった9 また。日系人漁師は突然何の予告もなく、自分の漁船に乗ることを命令されたので、冬の海に備えた暖かな衣服を着ていない人もいた。そのまま海軍に曳航され、どこに連れて行かれるのか知らされないまま、押収した漁船の係留所であるニューウエストミンスターまで、冬の海の長い航海に耐えねばならなかった。

日系人漁師の苦難は、ニューウエストミンスターに到着すると更に深まった。海軍は彼らを家族のもとに送り返す手段を用意していなかった。漁師の家族の多くは、父や兄弟がどこに連れて行かれたのかを知らなかった。そのうえ、ニューウェストミンスターの港は、多数の漁船を係留するための設備がまったく不足していた。毎日125隻近くの漁船が曳航されて来たが、係留の責任者はいなかった。疲れ果てた日系人漁師と海軍の水兵は、漁船をフレーザー河のアニービル破堤(Annieville Dyke)に漁船の大小、喫水線の高さに関係なく横に14隻ずつ、順序なく係留するしかなかった。潮が引くと、何百隻もの漁船は河底に横倒しになり船腹が傷ついた。大きな漁船は小さい漁船の上に横倒しになった。6~8週間後に再係留を完了するまでに162隻が沈没してしまった。10

日系人漁師の漁船の押収が始まってから5日も経たないうちに、戦争の影響がいろいろな所で出てきた。カナダ太平洋鉄道は、日系人の保線作業員と駅の荷物運搬人の解雇を始めた。これにならい、バンクーバーの大きなホテル、バンクーバークラブ(社交クラブ)、製材所が日系人の解雇を始めた。バンクーバーの日系人商店の売上は落ち込み、窓ガラスを割られた商店もあった。白人の中には、日系人の下宿屋に放火しようとするものも現れた。そのため、保険会社は日系人が所有する建物の火災保険を取り消した。11

日系人は仕事を失うものが増えていたが、全体としてはまだ将来に楽観的であった。日系人社会の指導者たちは、無責任な白人が自分達を襲撃するのではないかと恐れていたが、RCMPが予防処置を取ったので安心し感謝した12。二世は特に楽観的であった。二世はキング首相に手紙を送り、カナダへの忠誠を誓い、カナダ軍への入隊許可を再度要請した13。「私達は現状を冷静に受け止めています。」二世で母親の『ニュー・カナディアン』紙記者ムリエル・フジワラ・キタガワは、トロント大学在学中の弟に1941年12月中旬に手紙を出している。キタガワは続けて次のように書いた。

私達は戦争やその他いろいろな警告に、もう慣れっこになっています。白人の日系人に対する嫌悪感にも慣れています。……大部分の白人は品行正しく公平です。そして、新聞にはこういう考え方をする人の投稿が載っています。RCMPは私達の一番の友だちです。RCMPは日系人が現状に何の責任も無いこと、誰も助けてくれる人がいないことを誰よりも知っています。……私は近隣の白人と今まで通りに付き合っています。大部分の白人は戦争を非難しますが、自分の友達の日系人に対する態度は変えていません。一番被害を受けているのは、婦人服の仕立てや街角の商店など小さな商売をしている人達です。今までのお客は個人的には日系人に同情していても、世間の目を気にしてこのような商店に行くのをためらいます。……私達はカナダ人です。品行方正なカナダ人から寛大な扱いを受けることを期待しています。……世の中の嫌なことは忘れて最善の結果を願いましょう。14

キタガワは白人の良い面を強調したが、日本軍の真珠湾攻撃が日系人を憎む人達に格好の排日の理由を与えたことを痛いほど分かっていた。このような白人を愚かで馬鹿げていて、情報に疎いと退けたものの、この人達が真珠湾攻撃を口実に、日系人のカナダに対する忠誠心について、虚言、侮辱、攻撃を強めていることに苦しんだ15。このような従来に倍する日系人に対する攻撃は、12月7日以後の出来事でますます激しくなった。情報に乏しいカナダ人はRCMPが日系人漁師の漁船を「国防のために」押収したことは、日系人がカナダ国家の裏切り者であることを、連邦政府が証明したことだと受け取った。サンフランシスコの米国西部防衛本部はパニックに陥り、よく考えもせずに毎日のように、日本軍の太平洋沿岸地域攻撃が差し迫っていると宣伝した。BC州の住民はこのニュースを聞き、BC州も日本軍の攻撃に晒されていると信じた。このようなニュースの中でも最悪のものは、米国海軍長官フランク・ノックスの談話であった。ノックスは真珠湾攻撃の損害を駆け足で視察してサンフランシスコに戻り、12月15日、日本軍の真珠湾攻撃にハワイの日系アメリカ人が協力したという噂を、軽率にも、何の裏付けもなしに公表したのである。「12月7日の真珠湾攻撃はドイツのノルウェイ占領作戦以来の、この戦争で最も成功した諜報活動の成果である16。」

ノックスの談話は直ぐにBC州の新聞の社説に影響を与えた。真珠湾攻撃以来、BC州の新聞は、ショーヤマが予想していたように読者に冷静な対応を求めていた。新聞は日系人の中にはカナダ国家に忠誠心を持たない人もいるかもしれないが、RCMPがこのような人物を既に拘留しているので心配ないこと、カナダは日本と戦争状態にあるが、日本国籍者や日系人と争いを起こしているのではないと強調した17。しかし、ノックスの談話以後、社説の論調が変わった。その一例として、12月16日の『バンクーバー・サン』紙は、次のように報じている。日系人の運命は、その言動にかかっている。少しでも妨害工作や協力無視の兆候があれば、ブリティッシュ・コロンビア州の日系人は、収容所に入れられるべきである18

米国の新聞と違い、BC州の新聞は1941年12月中は冷静であり、日系人に関する議論は日系人漁師に漁の継続を許可するかどうかの問題に集中していた。新聞の多数は「全カナダ漁業者労働組合(United Federal Fishermen's Union)」の意見に同調して、「許可は停止すべき」というものであった。日系人の一部、または全部を強制収容せよ、という要求は新聞の無記名投稿に見られるだけであった。19

12月25日のクリスマス当日に日本軍が香港を陥落し、カナダ兵2,000名を捕虜にすると、BC州の排日勢力は力を結集した。1930年代を通じてナチドイツは、ユダヤ人がドイツ国家を転覆しようと陰謀している、という大嘘を宣伝したが、BC州の大物政治家も、日系人がBC州を転覆しようと画策しているという嘘を流布した。そして次々と勝利する日本軍が無敵のようの思え、BC州の防備が不十分に見えると、住民の人種差別感情を扇動して、連邦政府が日系人に対して思い切った対策を取らないことを糾弾した。バンクーバー市会議員ウィルソンは、日系人に対する強硬な処置(BC州からの排除を含む)を要求しただけでなく、太平洋岸地域治安連盟を結成して人種差別的な持論を展開し。20 BC州新首相になった自由党のジョン・ハルトと、保守党で州政府検事総長のR.A.メイトランドは、公然と連邦政府にBC州から諜報活動をする人間の排除を要求した。21 バンクーバー島の5市町村長が日系人全員の強制収容を要求した。BC州選出の連邦議会議員数名は、連邦政府が即刻日系人に対して思い切った手段を取らなければ、連邦政府と日系人の両方に悪い結果になると主張した。22 連邦政府の「アジア系カナダ人に関する常任委員会(Standing Committee on Orientals)」の大部分の委員も、BC州首相ハルトの側に立った。この当時、ブリティッシュ・コロンビア大学教授で、日系人擁護派のヘンリー・アンガスは、この委員会の一員であったが、連邦政府外務省の特別顧問になってオタワに去っていた。委員会の他の委員は、日系人擁護派のアンガスがいなくなって、ますます排日的な言動をするようになった。1942年1月5日、バンクーバー市長F.J.ヒューム、A.W.スパーリング中佐、マックグレガー・マッキントッシュ中佐は、日系人男性で兵役年齢の者全員の強制収容を勧告する声明を出した。23

排日宣伝活動は軍部、とりわけカナダ太平洋沿岸軍指揮官のR.D.アレクサンダーにも影響を及ぼした。アレクサンダーは、BC州首相ハルトとスパーリング中佐と親しく、日系人に対する差別意識も共有していた。アレクサンダーは彼らと会談した後の12月30日、オタワのカナダ軍参謀総長に、自分はBC州の排日政治家の意見を支持すると述べ、日系人兵役年齢男子を強制収容するように要請した。理由として、予定されている排日デモが激化して、デモ隊と日系人が衝突して多くの犠牲者が出るのを防ぐためだと述べた。24 アレクサンダーはこのデモが実は、退役軍人会が組織しているものだとは、オタワの上官へは伝えなかった。

オタワのアレクサンダーの上官は、白人による暴力の可能性は知っていたが、アレクサンダーのBC州の状況把握には同意しなかった。参謀本部は、この暴動の被害者である日系人のほうを罰するというのは、カナダ人の正義の観念には適合しないと考えた。参謀本部の見解は、アレクサンダーこそが「デモ隊やデモ行進を未然に防ぐべきであり、このようなデモを組織して、破壊活動やカナダ国家に対して忠誠でない行動を起こそうとする者こそ、法律の許す限りの厳罰に処すべきである」というものだった。25

オタワの参謀本部の戦時状況の把握は、アレクサンダーと全く反対で、カナダ全体の防衛体制をよく把握していた。日本軍の真珠湾攻撃は、カナダ太平洋岸の危険度を増したが、カナダの防衛にとっては、太平洋岸よりむしろ大西洋岸がもっと重要であると結論していた。米国が第二次世界大戦に参戦することによって、太平洋岸の防衛は米国海軍と空軍によって増強された。しかし、大西洋岸はドイツの潜水艦の脅威に晒されるようになった。これまでヒットラーは米国の参戦を抑えるために、潜水艦の活動を抑制して大西洋の中央部までしか進出してこなかったが、今や大西洋全域で活動するようになっていた。太平洋岸で日本軍の脅威があるとすれば、それは日本軍が潜水艦で太平洋岸に近づき、兵員を上陸させて小規模の被害を与える程度で、これもまずあり得ないと考えていた。26 アレクサンダーも、日本軍の脅威は最悪の場合でも、次のようなものに限定されると考えていた。

主力艦1隻による砲撃、8インチ口径の艦砲搭載の巡洋艦2隻による砲撃、あるいは中規模の艦砲を搭載した仮想巡洋艦1隻砲撃、機雷敷設艦の機雷の投下、潜水艦、小型水上艦、小型潜水艦による攻撃、海上や空からの少人数による上陸、艦載機による沿岸部および内陸部の施設への軽微または中程度の爆撃、可能性は少ないが飛行機からの水雷、ガス弾による攻撃などであった。27

参謀本部はBC州が日本軍の攻撃の危険に曝されているという見解は、まったく根拠のないものと見ていた。モーリス・A・ポープ中将は次のように言っている。「私は日本軍が実際にBC州を奇襲してくれたら良いと思った。そうすれば、カナダ軍は難なく奇襲部隊を追い返してみせ、住民も自分たちの日本軍恐怖症は、根拠のないものだったとわかっただろう。」28

1942年1月8日、オタワで日系人のカナダに対する忠誠を信じる人達と、日系人を憎む人達が「BC州日系人問題会議(Conference on Japanese Problems in BC)」で衝突した。この会議は日系人問題ではどこにでも現れるイアン・マッケンジーが議長を務めた。BC州の政治家を支持する者は「アジア系カナダ人に関する常任委員会(Standing Committee on Orientals)」委員ヒューム、スパーリングおよびマッキントッシュの3人、BC州労働大臣ジョージ・S・ピアソン、BC州警察長官T.W.S.パーソンズであった。BC州代表団はオタワの会議に出発する前に、日系人漁師の漁業ライセンスの停止、日系人漁師の漁船の日系人以外への売却、兵役年齢の日系人男子全員の抑留をマスコミに約束していた。会議の日系人擁護派は、連邦政府外務省次官ノーマン・ロバートソン、米国・極東部長ヒュー・キーンリイサイド、その特別補佐官のH.F.アンガスとエスコット・リード、RCMP長官S.T.ウッド中佐、RCMP副長官F.J.ミード、カナダ軍参謀本部副長官のモーリス・A・ポープ中将、カナダ海軍本部副長官H.E.リード准将、連邦政府労働・漁業省代表、連邦政府報道検閲局であった。29 擁護派の人たちは、連邦政府がすでに取った日系人対策は十分過ぎるほどであり、これ以上の差別的な対策は、日本軍の捕虜になっているカナダ兵への報復を招く危険があると考えた。カナダ軍関係者、RCMP、連邦政府官僚は、この会議がBC州住民の日系人に対する危惧を和らげることを期待していた。

しかし擁護派は会議の成り行きに失望した。BC州代表団は、日系人はカナダに忠誠であるというRCMPの意見を真っ向から拒否した。代表団は全員一致で、日系人は信用できない、日系人がBC州にいることは住民にとって脅威であると強く主張した。代表団はたとえRCMPの見解が正しくて、日系人は危害を及ぼさないとしても、それはBC州住民の日系人に対する態度に何ら影響をおよぼさないと反論した。長年、日系人に対する人種差別宣伝活動に洗脳されたBC州住民は、日系人は脅威でないと言われても納得できない、排日暴動が起きるかもしれない(RCMPもこの可能性を否定していなかった)と主張して、全ての日系人を太平洋岸から排除することをを要求した。30 代表団の一人はモーリス・ポープに「太平洋戦争の勃発は、BC州から日系人の経済的恐怖を永久に除去するために、天が与えてくれた好機だ」と漏らした。31 外務省の特別顧問だったエスコット・リードは、後に次のように会議の雰囲気を思い出している。「BC州代表団の日系人に対する態度は、あたかもナチドイツがユダヤ系ドイツ人について話しているようだった。私は会議室に邪悪なものが存在しているように感じた。」32

会議の二日目も状況は日系人にとってほんの少し好転しただけだった。会議冒頭、BC州代表団は日系人擁護派の主張する「人種差別はカナダの正義の信条に反するばかりでなく、カナダの防衛にとって効果がなく、かえって害になる」という議論を拒否した。代表団はBC州には労働人口が余っているので、連邦政府がいくら擁護したところで、白人労働者は日系人は信用できないとして一緒に仕事をすることを拒否すると反論した。キーンリイサイドが、もしカナダが日系人を厳しく扱えば、日本は捕虜の英連邦兵を同様に扱うかもしれないと説得したことで、漸く矛先をすこし緩めた。嫌々ながら成人男子日系人全員の収容から、日本国籍者だけを収容することに同意した。BC州代表団は、日本国籍を持つ成人男子の収容は、排日暴動を抑えるための必要最小限の処置に過ぎないと述べた。33 しかしRCMP、連邦政府官僚、カナダ軍関係者は、BC州世論をなだめるために日本国籍者を犠牲にするという代表団の要求を拒否した。

会議は意見が分かれたまま、参加者の誰もが不満を抱いたまま閉会した。会議で合意が得られたのは、日系人漁師の漁業許可証の停止、漁船の日系人以外への売却、日本国籍者の短波ラジオの携帯禁止、カナダ国籍をもつ日系人を雇用する民間組織の設立などであった。BC州代表団も連邦政府代表団も、日本国籍者の収容については、それぞれの立場を一歩も譲らなかった。閉会にあたって、BC州政府内閣官房長官のジョージ・ピアソンは、次のようにBC州代表団の立場を繰り返し述べて脅した。「もし連邦政府がBC州代表団の意見を無視する政策を決定しても、BC政府が連邦政府の日系人政策を州住民に納得させるために、熱心に努力するなどとは期待しないでほしい」。34 後に、モーリス・A・ポープ中将は、「私は会議が終わった時に、全身が薄汚れてしまったように感じた。」と述べている。35


BC州代表団の態度は、BC州住民の意見はこのようなものであろうという憶測にもとづいており、州民の意識調査をしたわけではない。ただ州民は自分たちと同じ人種差別意識を持ち、前回の選挙の時に日系人排斥の選挙公約に同意していた、とみなしていただけであった。すなわち、BC州住民は代表団と同じように、日系人に対する憎しみと恐れでいっぱいである、という認識であった。

しかし、実際のBC州住民の日系人に対する態度は、代表団の認識とは全く違っていた。キング首相記録文書によれば、1941年12月17日から1942年1月10日の間、連邦内閣が日系人問題を議論していた時に、首相府が日系人問題について受け取った手紙と決議文はわずか45通であり、そのうち28通が日系人全員または日本国籍者だけの監禁を要求していた。あとの6通は日系人漁師の漁業許可証の停止、4通は仕事を失った日系人のBC州内陸部での雇用、1通が日系人全員の食品産業からの追放、そして6通が日系人のカナダへの忠誠を支持するものであった。36

当時、BC州の日系人の大部分はBC州本土、特にバンクーバーとその周辺に住んでいた。しかし日系人全員または一部を、BC州からの排除を要求した28通の手紙のうち、本土からの手紙はわずか8通にすぎなかった。残りの20通は、日系人の少ないビクトリアとその周辺に住む住民からのもので、特にダンカンは反日感情が強く、この小さな町から4通の手紙が投函された。政治家とその選挙区からの手紙は5通、主にビクトリア周辺に住む退役軍人と「空襲警報グループ」からの手紙が7通であった。37 1942年1月の時点で、排日運動を扇動したグループは、伝統的にアジア人排斥感情を持つビクトリア周辺のグループに限られていたように思われる。このグループは直接日系人との接触は無かった。しかし政治家はこのグループのアジア人排斥感情を、自分たちの選挙に利用しようとした。またビクトリア周辺で1940年に反ドイツ系カナダ人排斥感情を扇動していたグループも、アジア人排斥感情の扇動に加担した。実際に日系人の近くに住んでいたカナダ人からの、日系人強制移動を要求する手紙がなかったことははっきりしている。

BC州政治家と違い、もっと客観的に状況を観察していたカナダ公共放送(CBC)バンクーバー代表アイラ・ディルワースは、BC州の住民は落ち着いているが、一部の私利を図る連中がわざと騒ぎを起こしていると感じ、次のように1942年1月6日に放送している。

住民の大部分は日系人に対して理性ある態度で接しているが、一部の連中が結託して、日系人と白人の良好な関係を壊そうと組織的に扇動している。ウィルソン市会議員、マックグレガー・マッキントッシュ中佐などが排日団体の指導者になって排日感情を煽っている。この様な扇動運動は、カナダ憲法の枠組みを破壊する危険があるように思う。かれらの言動は騒ぎ立てて自分の名前を売り、それを自分たちの利益に結びつけようとしているか、または日系人の現状について無知であるかのどちらかである。38

「カナダ人マイノリティは正義と公平に基づいて処遇されるべき」と主張するディルワースは、カナダ公共放送に「カナダ公共放送は出来る手段をすべて用いて、日系人問題を鎮めるべきである」と強く促した。案の定、数日内にディルワースの危惧は的中した。ウィルソンは『ビクトリア開拓者日報』紙に、「プリンスルパートでカナダ海軍と日系人漁師の間で衝突が起こった」と虚偽の投稿をした。39

連邦内閣は日系人の運命の決定を迫られていた。内閣は、アジア問題の専門家とみなされていたイアン・マッケンジーが提出したBC州代表団と連邦政府代表団の日系人に関する会議の報告書を基にして決定した。マッケンジーは自分の政治生命は、アジア人排斥の旗手としての役割に掛かっていると信じていた。そのため、BC州代表団の要求を通すべく、自分の政治的影響力を最大限駆使して巧妙な手段を使った。キング首相への報告では、BC州代表団のあからさまな排日感情を隠して、白人の日系人に対する暴動の危険性を誇張した。また、BC州代表団の排日的な要請を言い換えて、日本国籍者を労働キャンプに「移動」することを提案した。そして、この「移動」は必ずしも強制収容ではないとした。1,700名の男性日本国籍者だけを太平洋岸から排除し、カナダ生まれとカナダ国籍を獲得した日系人は、創設される「市民サービス部隊(Civilian Service Corps)」に入れることで「管理」すると提案した。マッケンジーは、日系人はカナダに対する忠誠を証明するために、即座に市民サービス部隊に参加するはずだと考えた。40

マッケンジーは自分の提案に軍幹部とRCMP関係者が反対することを予想して、これらの反対を無力にする手段を考えた。それは、キング首相が軍関係者を信用していないことを利用することであった。前にも書いたが、キング首相は1941~42年の冬、徴集兵の海外派遣をめぐって軍関係者と対立していた。キングにとって徴集兵の海外派遣問題は、日系人問題と同様に、国防の観点から決定する問題ではなく、政治的に決定すべき問題であった。マッケンジーは海外派遣問題について、キング首相の支持者としてキング首相の陸軍幹部に対する偏見をよく知っていた。彼は報告書の中に、カナダ軍太平洋岸司令部長官R.O. アレクサンダー大将のカナダ軍参謀長への手紙の中から、慎重にBC州代表団の意見と合致する部分を選んで書き写した。マッケンジーとBC州の支持者は、アレクサンダー大将が連邦政府に、敵性外国人男子全員を収容する要請を提出するようにお膳立てした。41 このアレクサンダー大将の要請を報告書に入れることで、マッケンジーは、連邦政府のカナダ軍幹部はBC州代表団の提案に反対していたが、現地のBC州駐在カナダ軍は収容に賛成している、というように巧みにほのめかした。

アレクサンダーの日本及び枢軸国国籍の成人男子で16才から50才の者を全てを太平洋岸地域から排除するという提案に上官たちは当惑した。モーリス・ポープ大将は「バンクーバーの国防上の危険は日本軍の空爆に限られており、また日系人の80パーセントがカナダ国籍であり、そもそも日系人は武器など持っていない。このような極端な提案には同意出来ない。」42 とした。さらに、ポープ大将の判断は米国連邦捜査局からの情報で強化された。連邦捜査局長官J・エドガー・フーバーから、「日本軍がホノルルとマニラを攻撃した時、現地の日系人に不穏な動きは無く、また、米国太平洋沿岸の日系人の動静に関しても、十分満足している。」とカナダRCMP長官ウッドに知らせていた。43


しかし、実際は日系アメリカ人の立場は危ういものになりかけていた。敵性外国人を米国沿岸の一部地域から排除することは、1942年1月の初めごろから米国の政策になっていた。この政策は米国西海岸の伝統的な人種差別主義に後押しされ、米国陸軍憲兵隊司令官のアレン・W・グリオン大将を中心にした陸軍内の排他的な小グループによって推し進められた。このグループは米国連邦政府戦争省の助けを借りて、敵性外国人の管理を連邦政府法務省から戦争省に移管して、戦争のための事務を扱う大きな官僚組織の建設を画策していた。グリオン大将は陸軍の非理性的で熱烈な排日的である米国西部防衛本部長官ジョン・L・ドウィット中将を味方につけて、敵性外国人の管理を軍人以外に任せてはいけないと説得した。米国の西部海岸地帯には、人種差別主義者で日本は米国西部諸州を転覆させる陰謀を図っていると恐れている人達がいた。これはグリオン大将にとって好都合であった。グリオン大将はドウィットと一緒に、米国西海岸の政治家を焚き付けて、米国連邦政府法務省に圧力をかけさせ、敵性外国人に対する厳しい処置を要請させた。これら米国政府の政治家は、1942年の選挙に備えて知名度を上げるために喜んで手を貸した。戦争省が巨大組織を作ることに法務省が反対していることをグリオンは知っていた。ドウィットとグリオンの部下カール・R・ベンデットセン大佐は、1942年1月4日に連邦政府と地方政府の担当者に会い、敵性外国人に対する厳しい処置を要求した。そして法務省が許可証制度を用いて、敵性外国人を太平洋海岸地域から排除することを要求した。グリオンは法務省はこの大規模で煩雑な政策を遂行出来ず、敵性外国人の処置を陸軍省に任せるだろうと踏んでいた。ところが法務省は突然、ドウイットの望みどおり、敵性外国人を米国太平洋岸のすべての地域から排除することを認可してしまった44。これでグリオンの野心は水泡に帰した。44

米国のこの政策決定はカナダにとって重要であった。というのは、米国とカナダ両国は日系人マイノリティ市民の取り扱いについて、同様な政策を実施すると合意していたからである。この合意では、両国は政策決定について相手に相談する義務は無かったが、政策の変更はお互いに知らせあって実際の政策を一致させる、という取り決めをしていた。45 米国はこの取り決めを真剣に受け止めていなかったが、カナダは本気であった。少なくともキング首相は、米国の政策が自分の政策を推し進めるうえで有利ならば利用しようと考えていた。


1942年1月14日、内閣はBC州代表団の要求を全てそのまま受け入れた。日系人はカナダ国籍の有無にかかわらず、国家の安全のために戦争の続く間は漁業を禁じられ、保有する漁船は日系人以外のカナダ人に売却されることになった。日本国籍者の短波ラジオの携帯は禁じられ、ガソリンとダイナマイトを購入することも厳重に管理された。そして最も重要なことは日本国籍者の兵役対象年齢男子のすべてが、太平洋沿岸防衛地域から1942年4月1日までに排除されることになったことである。この内閣令〈第365号〉の公布によって、連邦政府法務省はカナダの敵性外国人およびカナダに居住する者は誰でも、国防の名目の下に、裁判を行うことなく拘留できるようになった。46 この内閣令は前例のないほど広範囲の権限を持っていたが、敵性外国人であるドイツ国籍者およびイタリア国籍者に適用される意図はなかった。米国と同様にこの内閣令の唯一の目的は、兵役対象年齢の日本国籍男子および800名から1,000名の日系人を太平洋沿岸地域から排除することであった。47

この政策はBC州を喜ばせた。BC州の新聞と政治家は、連邦政府がついにBC州の日系人問題を理解して賢明な政策を取ったと歓迎した。新聞も連邦政府が「冷静に常識を持って」、BC州の日系人問題の現状を理解したので、日系人の脅威はBC州から急速に無くなるだろうと連邦政府に祝辞を述べた。48 BC州に戻った代表団は、この連邦政府の決定は全て自分達の功績だと吹聴した。代表団の一人であったバンクーバーのヒューム市長は、代表団を出迎えた支持者に次のように報告した。「連邦政府は当初、BC州が日系人問題でヒステリー状態になっているのは、問題を大きく誇張しているからであると主張した。しかし、代表団は様々な困難を乗りこえ、ジョージ・ピアソンとイアン・マッケンジーの助けを借りて政府を説得した。そしてついにBC州住民の懸案であった日系人問題を、連邦政府に理解させることが出来た。」49 その後、BC州の新聞と政治家は、政府の日系人政策が直ちに実行されるものと期待して静かになった。

日系人にとってこれらの政策はまったく予期していないものではなかった。1942年1月5日に、アジア系カナダ人に関する常任委員会にBC州代表団が出発してから、様々な噂が日系人社会で飛び交った。日系人漁村では、漁業許可証更新と漁船の返還について悲観的であった。日系人は自分たちの漁業が長年の間、日系人排斥扇動の主要な原因であると分かっていたので、自分たちへの反感が、日系人社会全体への反感に広がらないようにと願った。日系人漁村として一番大きかったスティーブストンは、1942年1月8日にキング首相に手紙を出して、日系人漁師はカナダ国民として、連邦政府のどのような政策にも協力すると誓った50。バンクーバーではショーヤマが、連邦政府はカナダ国籍を持つ者も持たない者も、日系人男子全員を太平洋沿岸地域から排除するのではないかと危惧した。1942年1月5日、ショーヤマは『ニュー・カナディアン』紙の読者に、日系人をカナダの東部に分散させるという、とんでもない政策を連邦政府に迫る圧力が強まっていると警告した51

1942年1月初めまでに、すでに日系人マイノリティの緊張は高まっていた。日系人を解雇する白人雇用主が増加し、日系人の失業者が増えていた。生活に困った日系人は、カナダの救済組織から援助を受けることを従来どおり恥と思い、自分たちで作った救済組織に助けを求めて殺到した。二世の多くは、カナダ社会に対してひねくれた、否定的な見方をするようになっていった。カナダの教育制度の中で、カナダ人は英国風の公平な精神を持っていると教えられてきたが、今や「ジャップ」というだけで仕事を失った。ブリティッシュ・コロンビア大学までも、二世はカナダ市民であるということを無視して、1942年1月初めに二世を大学のカナダ軍士官養成プログラムから、何の説明もなく除名した。二世は落胆した。普段は理想主義的な『ニュー・カナディアン』紙までが、ショーヤマの悲観的な記事を載せた。「今日、二世がカナダ軍士官養成プログラムから除名される、という悲しい出来事が起きた。大学までが日系人に対するいわれのない恐れで、英国風正義を歪めた。法律の基本概念の『有罪が証明されるまでは無罪である』の裏返しの、『無実が証明されるまでは有罪である』という扱いを日系人は受けている。その上、無実を証明する機会すら与えられていない52」日系人は四面楚歌の中で、自分達の運命がこれからどうなるかわからず、ただ緊張しながら状況が好転するのを待っているだけだった。

1942年1月14日、敵性外国人男子を防衛地域から排除するという公告〈閣令第365号〉は日系人の社会的、経済的基盤を根底から揺るがした。1,700名の日本国籍男子を排除するということは、日系人社会でもっとも影響力のある指導者の多くを排除することに等しかった。一世の多くは1920年代にカナダ社会で生活することを決め、家族を作り、農業や商売を始めた。しかし、1923年以後は日系人に対する差別が強まり、法律が変わり、一世がカナダ国籍を取得することはほとんど不可能になった。その結果、1942年当時、約24パーセントの日系人勤労者は未だにカナダ国籍が無く、カナダでは外国人居住者であった。同様に、日系人雇用主の大部分もカナダ国籍を持っていなかった53

ヨーロッパでナチドイツの反ユダヤ主義布告に直面したユダヤ人のように、1942年1月、カナダの日系人は自分たちの直面している悲劇の影響を少なくする方法を探した。冷静に対処しようという『ニュー・カナディアン』紙の論説に促されて、日系人は新しい政策がいかなるものかを模索した。日系人を排除しようという地域はどのくらいの広さになるのか? どのくらい多くの家族から、成人男子が引き離されて追放されるのか? 日本国籍者の誰が家族と一緒に残れる資格を持っているのか? 今までに帰化を申請した人は特別に扱われるのか? 成人男子が追放された後の家族に何が起こるのか? 家や農地や商店はどうなるのか? 追放される成人男子はどこに行くのか? 家族の働き手を追放された家族は、どうやって生活していくのか等々、危惧に終わりはなかった。

一世が答えを待っている間に、また新たな問題が持ち上がった。連邦政府は日本国籍者を太平洋沿岸から排除するのは、破壊工作を行ったり、上陸して来る日本軍に協力するのを防ぐためだと声明した54。このことはカナダ人に、日系人は危険な破壊工作者だと思わせた。BC州内陸部の労働不足の地域は、失業した日系漁師を道路建設や果実の採集に安い賃金で雇用しようとしたが、日系人は危険だと思い、急遽このような提案を引っ込めた。そして日本国籍者を軍の監視下に労働キャンプに隔離することを要求した。カナダの他の州政府首相は、全員口を揃えて日本国籍者受け入れを拒否した。また農村地帯からは、立ち退かされた日本国籍者への農地の売却を禁止すべきだという要求が出てきた55。敵性外国人というレッテルを貼られた一世は、英語が不得手という不利な立場で、家族と家族の資産の心配をし、周囲の日増しにつのる敵対感情に晒されていた。このような状態なので太平洋沿岸地域から自発的に立ち退くことを躊躇した。100名余りの勇敢な一世とその家族が太平洋沿岸地域から移動していったが、大部分の一世は現在の住居に残り、成り行きを見守ることにした56


しかし連邦政府の具体的な政策は、なかなか明らかにならなかった。カナダ政府もアメリカ政府もいろいろな問題に直面していた。国防のために敵性外国人を排除する地域をどこにするか、排除した日本国籍者をどうするかは簡単な問題ではなかった。防衛地域から排除する前に、排除した後の日本国籍者に仕事を確保する必要があり、道路建設に送るためには建設宿舎を用意する必要があった。既に冬が来ており、道路建設宿舎の建設は困難になっていた。また市民が日系人を危険だと思うようになっていたので、仕事の確保も難しくなっていた。その結果、連邦政府が日本国籍者の防衛地域からの排除の詳細を告示したのは、最初の声明から3週間も過ぎた1942年2月9日であった57。またこの時期、「日系カナダ市民のための市民サービス部隊(Civilian Service Corps for Japanese Canadian Citizens)」設立構想も遅延していた。当初『ニュー・カナディアン』紙は、市民サービス部隊は戦争で職を失った二世の救済になると賛成していたが、二世も一世の両親と同じように、これからどうするかの選択に注意深くなっていた。新聞や政治家が市民サービス部隊を日系二世とカナダ国籍を獲得した日本人を管理するための方法として宣伝すればするほど、二世はますます注意深くなった。自分たちに対する憎しみと偏見が広がっていくのを見ながら、二世はカナダに失望し、市民サービス部隊の詳細がわかるまで入ることを拒否した。しかし詳細など存在しなかった。市民サービス部隊に責任を持つ労働大臣ハンフリー・ミッチェルはまだ連邦政府下院に議席がなく、内閣に任命されたので議席が必要になり、補欠選挙の選挙運動で忙しかった。

連邦政府が日系人政策の実施にぐずぐずしているので、BC州住民は益々不安になった。連邦政府が日本国籍者を「国家の安全を理由に」太平洋沿岸から排除することに同意したのは、日本がBC州政府の転覆を陰謀しているという「大嘘」を政府が認めたことを意味した。それなのに政策の実施は遅々として進まなかった。BC州住民の間に不安がますます大きくなったばかりか、オタワ政府はBC州のことなどどうでも良いと思っている、という伝統的な不満も増幅していった。

BC州沿岸地域の住民の不安は、沿岸地域の防備が十分でないことに根ざしていた。沿岸地域の防備は、小規模の日本軍を迎撃して撃退するのが目的であった。陸軍参謀本部では、日本軍のカナダ攻撃はこのような小規模の日本兵の上陸と、航空母艦からの航空機による空爆しかないと見ていた。58 そのため、BC州沿岸地域の防衛は、空と海から日本軍の上陸部隊を監視し、見つけ次第迎撃する。もし上陸部隊を発見すれば、陸軍地上部隊を派遣して撃退するというものであった。沿岸防備の最大の弱点は、ビクトリアとバンクーバーに日本軍の爆撃に備えた高射砲が不十分なことであった。しかし、カナダ国防省は爆撃の危険は、ナチドイツの危険に晒されている英国のほうが、日本軍による爆撃の可能性の低いBC州より高いと判断していた。そして高射砲を英国に移した。59 BC州住民は、1905年に日本がロシアに勝利した日露戦争以来、日本軍はBC州まで攻撃するのではないかと恐れた。そしてこのような日本軍の攻撃にBC州の防備は不十分であると恐れた。それで、侵入してくる日本軍を追い返すだけの防御と、日本軍を支援すると言われた日本国籍者のBC州からの排除を望んだ。

1942年1月と2月、BC州では日本軍の攻撃と日本軍協力者による妨害工作が間もない、という噂であふれた。そのほとんどは、BC州の誰かが広めたものであったが、米国から伝わってきた噂も多くあった。60 米国では、ドウィットの率いる米軍西部防衛本部が、日本軍の飛行機の目撃情報や米国本土からのスパイによるラジオ電波の傍聴など、嘘の情報を流し続けた。これらの噂は嘘であったと後で判明するのであるが、米軍憲兵隊長官アラン・グリオン大将はこれらの噂を利用して、ワシントンの米国連邦政府の民間人指導者に自分の考えていた非常事態政策の採用を納得させようとしていた。グリオン大将の政策には、日系アメリカ人全員の強制収容が含まれていた。61 1942年1月末までに、ドウィットは日系アメリカ人は米国に忠誠ではないということを証明する巧妙な議論を考えだした。それは、日系アメリカ人がいままで妨害工作をしなかったのは米国に忠誠であったからではない、彼らは将来の破壊工作を行うために日本軍にコントロールされ待機しているのである、というものであった。62 この噂は、日系アメリカ人に対する理由のない恐れを抱いていた米国西海岸の住民に受け入れられた。


オタワでは反日感情がよみがえり、二世と帰化日系人を攻撃する形となって現れた。BC州選出の自由党と保守党の議員は、日系人は全てカナダに不忠誠であると主張し続け、今や日本国籍者男性だけでなく、カナダ生まれの二世男性とカナダ国籍を獲得した一世男性も、すべて太平洋岸の防衛地域から強制的に排除すべきであると要求した。

BC州選出議員の日系人に対する新たな攻撃は、外務省の穏健派を不安にした。1月23日、外務省はこの攻撃を取り除くという意図でBC州選出議員に、連邦政府の成人男子日本国籍者をBC州沿岸部から移動する政策の進捗状況に関する報告書を提出した。この報告書で外務省は、「国防省は日本人種のカナダ人も日本国籍者も、排除する要請はしていない。」と強調した。更に、もし日本との敵対関係が人種対決になれば、太平洋戦争でカナダは、アジア人であるインドと中国の協力を失うと指摘した。自分の利益のために、日本軍の真珠湾攻撃にたいするカナダ人の反感を利用して排日感情を煽っている人は、「ナチドイツがユダヤ人虐待を可能にするために、反ユダヤ人感情を醸成した」のと同じことをカナダ国民に対して行っていると指摘した。外務省は報告書で、BC州議員は戦争で苛立っているBC州住民を落ちつかせること、日本国籍者の成人男子が強制移動させられた後に残される日系人家族の社会福祉問題に対処することを強く要請し。63

1月26日、外務省の日系人擁護派の急先鋒であり、新しく設立された「日系人問題に関する内閣委員会(Cabinet Committee on Japanese Questions)」64 委員長ヒュー・キーンリイサイドは、イアン・マッケンジーに次の点について釘を刺した。すなわち、1月の会議の際に日本国籍者と日系人の区別を明確にしたことと、日系人成年男子の強制的排除は必要ないばかりか危険であることについて念を押した。また、日本政府が既にカナダ政府に対してカナダ在住の日本国籍者の処遇について問い合わせてきていることについても言及した。さらに、人種差別に基づいた政策を実施することは、日本政府がカナダの人種差別をアジアの全地域に宣伝し、日本軍の捕虜になっているカナダ兵、英国兵の日本軍による処遇にも影響を与えかねないと強調した。キーンリイサイドはBC州の排日過激主義者に対する嫌悪感を隠そうとしなかった。そして、日系人の太平洋岸地域からの排除は、BC州の少数の無知な人種差別主義者を満足させるために、連邦政府が不正義な政策を実施するだけでなく、日本軍の捕虜になっているウィニペッグとケベック出身のカナダ兵A の処遇を危険に曝すことになると結論した。65 キーンリイサイドはイアン・マッケンジーを説得しようとして、あらゆる議論を試みた。日系人全員を排除する政策が実施されれば、被害を被るのはアジアとカナダにいるカナダ人自身に他ならない、と言いたかった。

しかしキーンリイサイドの訴えは、マッケンジーに聞き入れられなかった。マッケンジーに理性的に政策を考慮する余裕は無かった。ただ一方的に敵国である日本の国籍保持者の排除を連邦政府内閣に承認させようとしていた。兵役年齢の男子日本国籍者のBC州からの排除を連邦政府に納得させた後でBC首相ジョン・ハルトに会い、「我々は日本人問題の解決で来られるところまで来た」と元気づけた。実はその先まで突き進むつもりであった。66 マッケンジーは日系人問題は政治的に強力な武器になると信じていので、BC州選出の自由党と保守党議員が、日本国籍者の追放を認めさせたのは自分達の功績だと豪語するのを許せなかった。これは自分とジョージ・ピアソンとA.W.スパーリング3人の功績だと信じていた。67 BC州の反対党が、自分を日系人に対して優しすぎると非難するのをそのままにしてはおけなかった。マッケンジーは自分の立場を強化するために、兵役年齢のすべての日系人男子を強制排除せよとの声高な要求に賛同するだけでなく、自ら先頭にたってリードしようと考えた。

マッケンジーはキーンリイサイドの手紙を受け取った日に日系人に対する新たな攻撃を始めた。1月27日に「日系人問題に関する内閣委員会(Cabinet Committee on Japanese Question)」を召集して、すでに存在していた「アジア系カナダ人に関する常任委員会(Standing Committee on Orientals)」を、反対党の保守党に利用されるという理由で解散した。同時に、民間サービス部隊に応募者が少ないことに巧妙に注意を喚起した。民間サービス部隊は、二世とカナダ国籍を獲得していた日本人の大部分を吸収する目的で作られていた。マッケンジーはこのような策を用意しておいて、もし民間サービス部隊に十分な人数が集まらない時は、強制的に入隊させることを考慮すべきだと提案した68。そして日系人成人男子の強制排除というアイディアの種をまいておいてから、BC州選出の自由党と保守党連邦議員15名全員の賛同を獲得し、日系人全員の強制排除を推進する運動を一斉に始めた69。BC州の過激な排日議員はすぐさま日系カナダ人全員の強制排除を要求した。中には日本への強制送還まで主張した者もいた。しかしマッケンジーのような狡猾な人間はもっと巧妙な手段を使った。先ずは、日系人をBC州の戦略的に重要な施設の近くから追放するという提案に支持を集めてから、日系人成人男子で既にロッキー山脈以東に追放の決まっている者の家族は、自らの意思で家族と一緒に生活するために成人男子について移動するだろうと、あたかも日系人に理解を示しているような議論を展開した。マッケンジーとその仲間にとって、兵役年齢の日系人男子全員のBC州沿岸部からの排除は既定のことであり、問題は、日系人の排除を日系人の自主的判断に任せるか、それとも政府が強制的に行うかであった70


1942年2月15日の日本軍によるシンガポール陥落は、カナダの日系人問題を危機的状況に至らしめた。日本軍のシンガポール占領は、BC州住民が心理的に最悪の状態の時に起こった。住民は1ヵ月の間、日本軍のマレー作戦を心配して見守っていた。日本軍は次々と英国軍とオーストラリア軍との戦闘に勝ち、英国軍とオーストラリア軍は難攻不落と思われていたシンガポール要塞に退却していた。ちょうどその頃、ビクトリアとバンクーバーの市会議員は、対空警報システムのための資金を連邦政府から獲得しようとしていた。市民が日本軍の空襲を恐れていたので、市会議員は連邦政府へもっと多くの設備、人員、資金を求めていた。しかし連邦政府は要請を拒否し、その理由も伝えなかった。シンガポール陥落のニュースで驚いていた市民は、この連邦政府の対応にますます落ち込んだ。詳しい情報を持たず、ただ熱狂的な市民や新聞はシンガポールを陥落した日本軍は、次にその勢力を北米太平洋沿岸地域の攻撃に使うと推測した。BC州住民は連邦政府が太平洋沿岸地域を、外からの日本軍の攻撃と内からの日系人の妨害工作に対して、まったく無防備のままに放置し続けていると恐れた。『バンクーバー・デイリー・プロビンス』紙は社説で、「オタワ政府は太平洋沿岸防衛にいままで何をしてきたのか、これから何をするつもりなのか、我々に何も伝えていない。我々は政府の無策にもう我慢できない。」と報じた。71


連邦政府が太平洋岸防衛について説明をしなかったのは、キング首相と軍上層部の間で、如何に戦争を遂行するかという判断に相違があったからである。軍上層部にとって、カナダ本土防衛は最重要項目ではなく二次的なものであった。大西洋には英国と米国の海軍が配備されており、東部太平洋は米国海軍が制海権を握っているので、日本軍による北米大陸沿岸への侵攻や大規模な攻撃は不可能であると判断していた。また日本軍はしばらくは東南アジアで獲得した地域の支配を確実にし、次にビルマ、オーストラリアに進出するだろうと予想していた。カナダ参謀本部の1942年2月19日の戦争状況報告は、この判断を明確にしている。

現在の状況では日本軍による北米大陸大西洋、太平洋沿岸への侵攻は実行可能な作戦とは考えられない・・・日本からの距離と東部太平洋における米国海軍の優勢を考慮すると(大規模な海上作戦の可能性は除外できる)・・・日本軍は東南アジアで獲得した優勢を保持する方が戦果が大きく危険が少ない。カナダの防衛に直接影響のある日本軍の戦略は、航空母艦からの空襲、散発的な艦砲射撃、小部隊の上陸による施設の破壊、潜水艦の遊弋に限られるだろう。72

カナダ軍参謀本部は、カナダ太平洋岸は現在の防備で、日本軍の小規模な撹乱攻撃に対しては十分であり、危険はむしろ本土防衛にカナダ軍を配置することで、ヨーロッパに派遣するカナダ軍が減少して同盟国の不利になることだと判断した。参謀本部にとってはヨーロッパ戦線にカナダ軍と資源を供給することが最優先課題であり、本土防衛は十分であった。73

しかし、キング首相はこの参謀本部の判断に同意しなかった。キングの関心は海外派兵のための徴兵制度に対する反対を押し通すことにあり、本土防衛はこのための最良の手段だった。英語圏のカナダ人は徴兵制を要求し、フランス語圏のカナダ人は徴兵制を拒絶した。キングは両陣営を満足させる解決策を見つけたと思った。ちょうど真珠湾攻撃が起こった頃、キングは徴兵制問題を国民投票によって決定すれば、政府が徴兵制反対の立場に縛られて、何も決定できない状態から逃れられると考えた。こうすれば、徴兵制を政府がカナダ国民に押し付けるのではなく、国民投票の実施を約束して徴兵制問題をしばらくそのままにしておくことができた。74 国民投票実施の約束は、英語圏のカナダ人には政府は徴兵制実施の方向に動いているという印象を与え、また、61名のケベック州選出の自由党議員の大部分には国民投票の実施で徴兵制の実施を自制している、と思わせることができた。1942年2月25日に連邦議会下院で最終審議をすることに決まった。キングは徴兵制反対に没頭した。キングの徴兵制反対の議論の中心は、国土防衛の必要性であった。キングは太平洋沿岸地域への日本軍の攻撃を、たとえ攻撃がただの想像で現実には不可能であったとしても、自分の徴兵制反対に有利に働くと考えた。2月20日にキングは内閣で本土防衛について演説した。キングは演説を日記のなかで次のように要約している。

私は国防関係の閣僚が、私の考えに同調してきたのを快く思った。私は日本軍のカナダ太平洋岸への攻撃は、確率は少ないが可能性としてあると強調した。日本軍がビルマ・中国補給路を遮断し、中国が日本軍との戦いから敗退し、インドで反英国暴動が起こり、戦略上の重要地点を日本軍が占領して、東南アジアの同盟軍への補給路を断絶すれば、日本軍の太平洋沿岸地域への空爆以上の攻撃の可能性が増大する。我々は日本の北米本土攻撃を真剣に考える必要がある。アラスカへの攻撃もあり得る。我々はもっとカナダ本土の防衛に力を入れなければならない。カナダ太平洋岸地域への日本軍の空爆の可能性を考慮しなければならない。カナダは本土防衛兵員を増強しなければならなくなる。BC州の日系人問題も更に難しくなり、軍隊の介入が必要になるかもしれない。75

キングはラドヤード・キップリングの詩のように、”もしも、もしも”の論法でカナダ太平洋岸地域に対する日本軍の「確率は小さいが可能性はある」攻撃を反対派に納得させようとした。このような議論がどれだけ政治的なものだったのか、それとも日本軍に対する恐怖心に基づいていたかはわからない。軍事歴史家のC.P.ステーシーは「日本軍がカナダにとって直接の脅威であるという、自分達にとって政治的に有利な考え方がキングとその取り巻きの文官の特徴であった。」と述べている。そして結果的にはこの議論に基づいて、政治的な理由でカナダ太平洋岸地域に必要以上の人員を配置することになっ。76 キングは徴兵制のための国民投票の法律が1942年2月25日にカナダ議会下院を通過すると同時に、カナダ太平洋沿岸防衛の話をやめてしまった。また2月27日、内閣での演説の1週間後、内閣が日系人排除を決定した3日後に、バンクーバーの新聞寄稿者のブルース・ハチソンと対談した際、ハチソンの日本軍の沿岸地域攻撃が近いという主張に反対している。キングは日記に次のように記している。「ハチソンが日本軍はアリューシャン列島、アラスカを通ってカナダを攻撃すると言ったので、私はハチソンに、もし日本軍が極東アジアを制圧すれば、私もあなたと同じ意見だ。しかし、日本軍の当面の作戦目標はインドであろうと言った。」77 キングは、自分のカナダ太平洋岸への日本軍の「確率は低いが可能性がある攻撃」という議論に固執しなかった。キングの政治手法はひとつの立場に固執せず、常に政局に合わせていくことであった。パニックに陥るような人物ではなく、パニックになっていると思わせるのも、自分の政治的立場を有利にするためであった。1942年2月半ばの時点でキングにとっていちばん大切な課題は徴兵問題危機を沈静化することだった。太平洋沿岸地域が危険であるというフィクションが、自分に有利に働くと思えば、躊躇なくそれを利用した。


徴兵制をめぐる政治危機のなかで、連邦内閣にとってBC州の反日被害妄想は小さな問題でしかなかった。白人の日系人に対する人種差別扇動も予想していたものであり、従来どおりの対応でよかった。すなわち、先ずは会議を開き、次にこの問題について一番詳しい大臣であるイアン・マッケンジーの意見を取り入れて、閣議で政策を決定した。徴兵制問題で危機に直面していた内閣にとって、些細な日系人問題について新たな解決法を模索するような余裕はなかった。伝統的な政治手法に従い、先ずはキーンリイサイドのような官僚の意見とマッケンジーの政治的な判断を天秤に掛けた。そして政治的な判断を官僚の意見より重く見て、日系人のようなカナダ人に人気のないマイノリティを犠牲にして、自分たちに有利になる政治的判断をとることに内閣は何ら疑問を抱かなかった。このような判断は政治的に現実的であり、且つ正当化できるとした。

1942年2月19日までに、マッケンジーの日系人成人男子すべてを太平洋岸地域から排除するという運動は成果を生んだ。キング首相と内閣はそのとおりの決定をした。しかし、いつ、どのように、日系人を排除するかで意見が分かれた。キング自身は強制的排除に賛成していた。そしてキーンリイサイドの、日系人の排除は日本軍に捕虜になっているカナダ兵と英国兵に悪影響を及ぼすという忠告を逆手にとった議論を展開した。日系人成人男子を強制的に排除しなければ、カナダ人が日系人に対して暴動を起こし、これがかえって日本軍に捕虜になっている同盟国兵士に悪い影響を与える、というものであった。78 連邦政府の政治家にとって日系人問題は、それまでと同様に、選挙権を持たない日系人の人権問題であり、選挙で票にならないどうでもよい問題であった。連邦政府の政治家にとって、無防備の日系人を、暴動にまきこまれるかもしれないという理由をつけて罰するほうが、ハルフォード・ウィルソンとその仲間の煽動家たちに対して何らかの処置をとるよりずっとやさしかった。もしこのような処置をとれば、次の選挙で報復されるかもしれなかった。1942年にキング首相の秘書官をしていたジャック・ピッカーズギルは、日系人に選挙権がなかったということが決定的であったと言っている。「もし日系人に選挙権があったら、日系人に対する政策は変わっていただろう。……1940年代の自由党は、カナダ人から選挙権を剥奪するようなことは出来なかっただろう。」79 キングとしても、自由党に投票して欲しい人を差別できなかっただろう。選挙権を持たなかった日系人は、BC州住民の日本への恐怖心の格好のスケープゴートになった。キング自身は、BC州住民の恐怖心は全く根拠のないことを知っていたが、徴兵制反対に役立つので、そのまま放っておいた。


1942年2月19日は、日系アメリカ人にとっても悪夢の一日になった。カナダ内閣は日系人成人男子をいかに排除するかで揺れ動いていたが、米国大統領ルーズベルトは大統領令第9066号で、戦争省に太平洋沿岸州の11万人の日本人種を祖先とする日系アメリカ人男子、女子、児童全員を排除できる権限を与えた。この大統領令により指名された軍司令官は自分の管轄する地域に居住する人間を誰でも排除することが出来た。そして2月20日、戦争省長官のヘンリー・L・スティムソンが狂信的排日主義者の将軍ドウィットに大統領令実施の権限を与えることで集団移動は正式の政策となった。この権限は日系アメリカ人にだけ適用された。ドウィットはドイツ国籍者、イタリア国籍者にも適用したかったが、これはアメリカ人一般には受け入れ難く、政治的に賢明な政策ではなかった。スティムソンはすぐさまドウィットの野心を封殺した。野球の英雄ジョー・デマジオのイタリア系移民の両親を差別することなど出来なかったが、日系アメリカ人を差別することは問題なかった。80

ルーズベルトが陸軍省の日系アメリカ人に対する抑圧的な政策を支持したのは、カナダのキング首相に影響を及ぼしていた政治的な理由と同様な、しかしもっと深刻な事情があったからである。ルーズベルトは太平洋で戦局が米国に不利な状況を打開するための兵力の増員問題に没頭していた。伝統的に孤立主義の米国を戦争に立ち向かわせるためには、議会の全面的支持と超党派の内閣の結束した協力が必要であった。また太平洋沿岸地域から日系人を排除する政策は人気があった。この政策は議会を満足させるだけでなく、日本嫌いの共和党出身の陸軍省長官と海軍省長官も満足させた。日系アメリカ人の排除は、ルーズベルトにとって得策であったばかりでなく、政治的にも安全であった。日系アメリカ人追放という人種差別的政策も、「軍事的に必要」という理由を付ければ、反対する人はごく僅かだった。

ルーズベルトは日系アメリカ人を差別することに良心の呵責はなかった。ルーズベルトの政策顧問の中には、日系アメリカ人は米国の脅威ではないと強く主張する人もいた。しかし、ルーズベルト自身は日本人に対して強い差別意識を持っていて、日系人マイノリティは危険であると信じていた。共和党出身の海軍省長官フランク・ノックスに促されたこともあり、ルーズベルトはハワイの日系アメリカ人16万人を強制収容するという政策に傾いていた。しかし、これに対して米国参謀総長ジョージ・マーシャルが、ハワイの日系アメリカ人も本土の日系アメリカ人も米国の安全を損なうことは無い、とはっきりとルーズベルトに忠告したことによって諦めた。81


米国政府の決定は日系カナダ人の運命を決めた。連邦内閣はすでに日系人成人男子を排除することを決めていた。そして妻と子供も成人男子と一緒に防衛地域から出ていくと考えていた。それで、米国の政策と一致させるためには、家族も強制移動するという条項を付け加えるだけでよかった。排除された成人男子の妻と子供の強制移動にも連邦政府が責任を持つことになったが、これは政策の手段が変わるだけで、日系人を強制移動するという目的に変わりはなかった。どちらの政策を取るにしても、マッケンジーの目的のBC州から日系人問題を抹消することは達成されることになった。

それから5日後に、カナダ連邦内閣はマッケンジーが望んでいた行動を起こした。1942年2月24日午前、カナダ連邦内閣は米国の大統領命令とほとんど同じ内容の内閣令を発令した。82 内閣令第1486号は、法務大臣が防衛地域と認定された場所から、誰でも移動させ拘留することを可能にした。米国の大統領令と同じく、内閣令は広い権限を持ち、カナダ市民と外国国籍者、白人と非白人の誰にでも、個人としてまたはグループとして適用できた。しかし、実際に適用されたのは日系人だけであった。

連邦内閣の閣僚全員が日系人に関する情報を与えられていたわけではないことははっきりしている。主な情報源はイアン・マッケンジーであった。マッケンジーはBC州住民の日系人についての要求を偽って閣僚に伝えていた。マッケンジーは2月24日に閣僚に、BC州住民から日系人をBC州から強制移動しろという「電報と手紙が殺到」していると伝えた。実際には、真珠湾攻撃からの12週間に、わずか18の排日決議と9通の手紙を受け取ったに過ぎなかった。同様に、キング首相もわずか100通の日系人マイノリティの全員または一部の移動を要求する手紙と決議を受け取ったに過ぎなかった。このうち2月に受け取ったものは40通以下であった。この100通の大部分は、1940年にドイツ系カナダ人とイタリア系カナダ人の勾留を要求したグループから来たものであった。このときは、連邦政府は賢明にも無視している。83 ジャック・ピッカーズギルは日系カナダ人による妨害工作の脅威ではなく、反日カナダ人の日系人に対する危害の恐れが内閣の反日政策の動機であったと、次のように主張している。

閣僚で日系人が危険だと本当に思っていた人は一人もいなかったと思う。大部分の閣僚はこのことを深くは考えていなかった。これはBC州の問題であり、国防ではなく、法務省の問題だと考えていた。〔中略〕日系人問題を取り扱った閣僚で、日系人社会がカナダにとって危険だと考えた者は一人もいなかったと思う。かえって、カナダ人が日系人に危害を加えることを心配していた。〔中略〕キング首相も同じであったと思う。84


例えキングが日系人の安全を考慮していたとしても、日系人を太平洋沿岸地域から排除する政策を発表した時、このことについては何も言わなかった。2月25日の声明の際、キングは太平洋沿岸地域の防衛を増強するために、国家の保安上の理由で日系人を強制移動するとしか言わなかった。85 事情をしらない一般のカナダ人は、連邦政府が国家の安全上の理由で日系人を追放するのなら、BC州の政治家が言っていたことは正しかったに違いない、日系人は全員がカナダ国家に対する危険な裏切りものだ、と理解した。86 連邦政府が本当に日系人は危険と思っていたのか、それとも後に連邦政府が主張したように、日系人を白人から守ろうとしたのかはわからない。しかし、一つだけはっきりしているのは、罪のない日系人の強制立ち退きは日系人に裏切り者のレッテルを貼ることに等しかったことである。


日系人マイノリティの太平洋沿岸地域からの追放は、国家の保安上の理由でなされたのではない。実際、カナダ軍の上層部とRCMPは日系人政策全てに初めから強く反対した。軍上層部はあらためて、日系人の強制追放に反対であることを、2月26日に表明した。国防大臣のJ.L.ラルストンはキング首相に反対して、カナダ陸軍が日系人追放の任務に当たるという提案を拒否した。その理由として、キング首相の主張する本土防衛の重要性の議論を逆手に取った。本土防衛に重要な兵員を日系人の強制追放に動員するわけにないかない。もし日系人を排除するのであれば、軍隊ではなく民間機関を使うべきだ。このように言うことによって、ラルストンは日系人の排除は国家の安全保障のためではないという意味をこめた。87

カナダ軍部にとって日系人の強制追放は、国防のためでなく政治のためになされたことであり、従って陸軍ではなく民間人組織によって解決されるべき問題であった。日系人の最大の擁護者であったヒュー・キーンリイサイドによれば、強制追放は「偏狭で野心的な政治家に煽られた大衆の人種的偏見に、内閣がたやすく降伏してしまったために起きた」ことであった。88 日系人の排除が可能になったのには、いくつかの要素が重なっている。BC州の自由党と保守党の議員は、自分たちの政治的利益のために日系人の排除を要求した。キング首相はこれが自分の徴兵制反対に少しは役立つと思った。そして一般の連邦議員は伝統的にカナダ人マイノリティの人権保護には興味が無く、もしカナダ人マイノリティの人権を保護して非白人の票を獲得しても、それで白人の票を失っては元も子もないと考えた。徴兵制問題の危機の中で、誰もBC州住民の根拠の無い日本軍の侵攻や日系カナダ人の妨害工作に対する危惧を払拭する努力をする気はなかった。連邦内閣は軍幹部と連邦政府官僚の勧告を無視して、BC州の要求を満たすことにした。外務省生え抜きの外交官であったエスコット・リードは、後に次のように述べている。「政治家はキング首相に官僚の助言を受け入れないようにと懇願した。そして結局、政治家が官僚に勝ち、カナダは邪悪な行為を犯すことになった。」89