人種主義の政治 アン・ゴマー・スナハラ 著

第1章1941年11月

1941年11月にトーマス・クニト・ショーヤマはブリティッシュ・コロンビア州(以下、BC州)バンクーバーで発刊されたばかりの日系新聞『ニュー・カナディアン』紙の編集長をしていた。ショーヤマは新聞の編集長という仕事上、「日系カナダ市民連盟(Japanese Canadian Citizens’ League:JCCL)」の主要な報道官の役割を果たしていた。JCCLは1936年に設立され、日系カナダ人〈以下、日系人〉に対する人種差別と戦うことを目的にした団体であった。ショーヤマは高学歴を持ち、自分の考えを明確に表現できる有能な若者であったが、新聞の編集長の仕事は、自ら望んで就いたものではなかった。1938年にブリティッシュ・コロンビア大学を経済学と商業学を専攻して卒業し、卒業後はビジネスの世界に進む希望を持っていた。しかし、ショーヤマは当時のバンクーバーでは、日系人は高学歴と能力を持っていても、資格にふさわしい仕事に就くことが出来ないとすぐにさとった。BC州では、過去50年間に作り上げられた人種差別的な法律や規則のために、日系人は大部分の専門職、公務員、教職に就くことが出来なかった。民間の会社も、日系人を社会的なタブーに反して雇うことをためらった。ショーヤマには単純労働しか雇用の機会がなかった。1941年当時、カナダの日系人総数23,450名の95バーセントがBC州で生活していた。ショーヤマはカナダ生まれのカナダ人であったが、選挙権はなかった。それでやむを得ず、新聞の編集長の仕事に就いた。後にショーヤマはその卓越した能力により、カナダ政府で最も権限を持つ官僚の一人になるのだが、当時はただの「ジャップ」の一人にすぎなかった。1

ショーヤマが仕事を探していた時に直面した問題は、当時の日系人全部に共通していた。しかしショーヤマは、1941年当時、日系人の中にあった3つの社会・文化的グループの一つに属していただけだった。3つのグループは、一世、帰加二世、二世である。ショーヤマは二世グループの意見の代弁者であった。日系人の約1万人が、日本またはハワイから移民してきた一世で、そのうち3,650名余りが1923年までにカナダ国籍を取得していた。1923年以後は、日本人移民のカナダ国籍の取得はとても難しくなった2。一世の大部分は日本で自作農だった。この人達は急速に近代化を遂げた明治時代の日本(1868年から1912年の期間に日本は世界の工業国として台頭してきた)で成人し、第一次世界大戦前にカナダに移民してきた。一世は1941年までに、平均してカナダで30年以上を漁業、農業、小規模な自営業を営んで生活してきた。カナダ社会一般と、僅かな接点を持つことしか許されなかった一世は、文化的には明治時代の日本を縮小したような社会で生活していた。

帰加二世(日系社会ではKibeiと呼ばれた)はカナダで生まれ、日本で教育を受けた人達で、文化的にはいろいろな人達がいた。小さい時に日本に行き、教育を終了した人は、文化的には日本人であったが両親とは異なっていた。帰加二世の育った1920年代と1930年代の日本は、両親の育ったそれ以前の日本とは異なっていた。教育の一定期間だけを日本で受けた経験のある帰加二世は、カナダと日本の異質の文化の両方をよく知っていた。このグループの大部分の人達は、日本より自由なカナダ社会のほうが好きだった。しかし中にはカナダで人種差別を経験し、日本のほうが好きになった人もいた。日本語が流暢な帰加二世は、二世よりも日本文化を理解し親近感を抱いていた脚注A

二世はカナダで生まれ、カナダで教育を受けたショーヤマのような人達である。カナダの公共教育制度の影響を強く受け、英国とカナダの制度・文化は正しく、それ以外の国の制度・文化は怪しいと教え込まれた。人種差別は非白人マイノリティ自身に責任があり、非アングロ系カナダ人が、アングロ系カナダ文化に同化しないために起きる、と教えられた。また非アングロ系カナダ人は、アングロ系のカナダ文化に完全に同化した時にのみ、カナダ人としての権利を享受することができる、とも教えられた。二世はこの教えに従順に従った。1941年当時、二世は、一世と帰加二世を「日本的過ぎる」と批判した。

二世は、アングロ系カナダ人文化に同化するよう教えられたが、アングロ系カナダ人社会の完全な一員にはなれなかった。また日本語が下手なために、一世と帰加二世社会の完全な一員にもなれなかった。二世は、はっきりと自覚してはいなかったが、文化的には一世社会とカナダ社会の二つの社会の縁で生活して、両者の間で文化の通訳の役割を担おうとむなしく努力していた。二世は文化的に中途半端であったが、年齢もまたその立場をより複雑にした。1941年当時、カナダ生まれの二世は13,600名いたが、わずか5,000名あまりが20歳以上だった。二世の代弁者であったショーヤマはまだ23歳であった。一世にとって、二世はまだ子供であった。日本文化の基準でも、カナダ文化の基準でも、重要な問題に口を挟むには若すぎた。ましてや、日系人社会のリーダーになるには若すぎて問題にならなかった。しかし二世は二世で、カナダで受けた教育と若さからくる高慢さを武器に、自分たちこそ両親の世代よりもっとよくカナダ社会と現状を理解していると思った。3

1941年11月までに、世界情勢は日系人にとって深刻なものになっていた。1932年以来、日本の中国大陸侵略は増大しており、日本は1940年9月にドイツとイタリアと同盟を結んだ。そして1941年秋には、第二次世界大戦でまだ中立国の立場を維持していた米国との交渉は、悪化の一途をたどっていた。米国は日本が中国大陸から撤退することを要求し、日本は米国が自分の要求を通すために行った石油禁輸の影響を受け始めていた。日系人は、もし日本が米国と中国大陸をめぐって戦争になり、カナダがこの戦争に巻き込まれれば、自分たちへの影響は甚大になると恐れた。

1941年11月末に、『ニュー・カナディアン』紙の英語版編集者トーマス・ショーヤマは悲観と楽観の入り混じった気持ちで、状況を見守っていた。1939年と1940年にドイツ系カナダ人とイタリア系カナダ人に起こったことを思い出して、もし日本とカナダが戦争になれば、次のようなことが日本国籍者に起こると予想した。(イ)日本国籍者は、カナダ連邦騎馬警察(Royal Canadian Mounted Police: RCMP)に定期的に居場所を報告する義務を負う、(ロ) 日本国籍者組織と日本語新聞は捜査される、そして(ハ)数人の日本国籍者が強制収容される。ショーヤマはドイツ系カナダ人とイタリア系カナダ人に与えられたいろいろな免責条項は、日系人には与えられず、日本国籍者だけでなく、カナダ生まれの二世とカナダ国籍を獲得した一世も、RCMPに定期的に報告する義務を負うことになる、と悲観的に考えた。また、日系人漁師はすべてカナダ国籍を持っていたが、それでも防衛上の理由で厳しい処置にあうだろうと予想した。4

ショーヤマは、これらの政府の処置よりももっと深刻な問題は、カナダ人の日系人に対する破壊行為と暴力だろう、と心配した。1940年春に起こったバンクーバーのドイツ・バプティスト教会に対する破壊行為は、カナダ人大衆が、戦時にどんな無責任な行動に出るかを示していると思った。BC州でずっと続いている日系人に対する人種差別意識は、きっと日系人に対する破壊行動と暴力を招くと思った。しかしショーヤマは一方で、このような不逞行為はBC州の良識を持つ人々と、新聞に非難されると楽観した。特に新聞は、良識と法と秩序の砦になる、と確信していた。連邦政府も、理性と良識を持って問題に対処する、と確信していた。日本軍の真珠湾攻撃の2週間前に、ショーヤマは『ニュー・カナディアン』紙の読者に、「扇動された大衆の不逞行為の方が、政府による日系人政策より、もっと日系人に深刻な被害を及ぼす。」と書いていた。5

ショーヤマのこのような見通し、特に悲観的な見通しには根拠があった。1941年11月までに、どんな人達が日系人に対して否定的な見方をしているのか、よく分かっていた。二世の代弁者としての立場から、ショーヤマは排日文書をたくさん読み、多くの誇張された論議や、全くの嘘が流布しているのを見てきた。その中に白人カナダ協会(White Canada Association)という排日団体があった。この団体はBC州に長く存在してきたアジア人排斥運動の歴史を受け継ぐもので、「アジア系カナダ人という有害な人間をBC州から一掃する」という目的を持っていた。ショーヤマは1935年の連邦議会選挙の時に、BC州の自由党と保守党が「協同連邦党(Co-operative Commonwealth Federation: CCF)」脚注B をアジア系に好意的だと中傷することで、票を集めようとしたのを見ている。バンクーバー市会議員のハルフォード・ウィルソンが、市議会で反アジア的な政策を提出して、怒鳴り散らすのも聞いていた。ウィルソンの提案の中でも最悪なものは、バンクーバーのアジア系カナダ人を、ちょうどナチドイツがユダヤ人をゲットーに押し込めたように、アジア系ゲットーを作って隔離するというものであった6

ショーヤマは、州議会にせよ連邦議会にせよ、自由党と保守党議員の誰もが、選挙民の排日感情が高まれば日系人排斥政策に便乗する、とわかっていた。議員個人の道徳観念の差で、アジア系カナダ人に対する偏見の度合いに差があったとしても、どの議員もBC州有権者のアジア系カナダ人に対する反感を自分の選挙に利用することには、いささかの迷いもないだろうと思った。政治家の幾人かは狂信的な排日論者であった。例えばニューウェストミンスター選出の自由党連邦議員トーマス・リードや、コモックス・アルバーニ選出の無所属連邦議員A.W.ネイルなどである。二人は常にアジア系カナダ人排斥の立場をとり、白人カナダ協会の見解や文献を使って活動していた。リードは支離滅裂な内容の排日議論を、厳かな調子で選挙民に語りかけた。これは有効な手段であった。ネイルは事実を捻じ曲げ、感情的で露骨な言葉で、日系人排斥を選挙民に訴えた7。この二人は、カナダの敵国と深い関係を持つ人種的マイノリティを中傷するカナダ人の愛国心を刺激した。ショーヤマは、この二人が日系カナダ人に対する暴力を扇動するのではないか思った。もしこのような事態になれば、理性的な議論だけでは選挙民の暴力を止めることは出来ないと恐れた。なぜなら、扇動政治家は選挙民に論理で訴えるのではなく、選挙民の持つアジア系カナダ人との経済競争、社会的混乱、人種間結婚などに対しての不安感、個人の安全と国家の安全に対する不安感に訴えたからである。8


70年間もの長い間、アジア人排斥運動を推し進めてきたBC州の人種差別主義者は、カナダ人の持つアジア系移民との現実の、または空想上の経済競争に対する恐怖心を悪用してきた。この方法は効果があった。アジア系カナダ人は、同じ仕事に従事している白人よりも賃金が安かった。人種差別主義者は、アジア系カナダ人は自分たちより低賃金で、白人の生活水準を破壊していると非難した。だからといって、アジア系カナダ人の賃金を、自分たちと同じ水準に引き上げようとは思いもしなかった。白人は、アジア系カナダ人は自分たちより本質的に能力が劣っているのだから、賃金も低くてよいと信じていた。アジア系カナダ人は安い賃金を埋め合わせるために、白人より長い時間、熱心に働いて生産性を向上させた。しかし、これは白人から見ると公平な働き方ではなかった9。このように、アジア系カナダ人は生活水準が低いといって罵倒され、生活水準の向上を目指して一生懸命働けば、働きすぎるといって非難された。白人の二重規準に翻弄されていたのである。この袋小路から逃れるには、アジア系カナダ人を恐れていた白人の協力が必要であったが、これは望めないことだった。

20世紀を通じて、経済的な理由による白人のアジア系カナダ人に対する反感は、アジア系カナダ人は白人社会に同化出来ないという議論で増強された。人種差別主義者は、人種的に同質でなければ社会の安定はない、アジア人は遺伝的に、カナダ風生活様式と英国風な社会価値と制度を受け入れることは出来ないと主張した。排日扇動者達にとって、日本語学校や日系人の社会、宗教、経済関係の団体は活動目的の疑わしい組織であり、日系人が白人カナダ社会に同化出来ないという証明であった。白人は、アジア系カナダ人がカナダ国家に対する忠誠心を示して、白人たちと同じように考え、感じ、行動するのを見ても、これは祖国のスパイとしてうまくカナダ人の中に紛れ込んで生活しているだけだ、と馬鹿にした。要するに、アジア系カナダ人は見かけが白人と異なるから、白人と同じように感じることも考えることも出来ない、というのが白人の結論であった。

1920年代、1930年代を通じて、日本が世界の強国として台頭してくると、BC州の人種差別主義者は、また新しい「大嘘」を作り出した。日本は、長期的にはBC州を併合する陰謀を企てていて、日系人はこの陰謀を助けることになっている、というのであった。BC州の人種差別主義者は、世界人種戦争は避けられず、この戦争で、日本は他の人種を攻撃すると信じていた。そして、日系人はこの世界人種戦争で、日本のためにスパイと妨害工作をする役目を担っている、と信じていた。日系人二世が日本とカナダの二重国籍を持っていることが、この証明だと主張した。カナダに他の国から移民してきた一世のほとんどは、カナダと祖国の二重国籍を保持する権利を持っているということは無視して、二重国籍を持つ日系人二世は、日本とカナダが戦争になれば日本のために戦うと主張した。日本で生まれた英国人が英国のために戦うのと同じでことであるとした。また日系人は子供を日本に教育のために行かせたり、日本語学校で日本政府が作った教科書を使って勉強させているのは、将来、日本がカナダに侵略してきた時に、日本を助けられるように子供を洗脳しているのだと非難した。バンクーバーの日本領事は人種差別を被った日本人移民を助けたが、このこともBC州の人種差別主義者は、日本領事が日本政府の代表としてバンクーバーの日系人を支配し、BC州の白人社会を転覆させる陰謀を図っている証拠だと言った。

BC州の日系人の地理的分布も、人種差別主義者によれば日本の陰謀によるものであった。BC州の日系人22,000名のうち、バンクーバーのような都市部に住む人が54パーセントで、残りはフレーザー河流域の農地、海岸沿いの漁師町、パルプ工場のある町、内陸部の果樹園、鉱山、製材所などに分布していた。当然、軍事的な重要地点、例えば主要道路、水力発電用ダム、電話交換所、港などの近くに住む日系人もいた。これさえも、人種差別主義者は、軍事施設を制御しようとする日本の陰謀の一環だとした。10

これらの中傷は馬鹿げていたが、日系人を深く傷つけた。中傷はBC州の人達の間に広く流布しており、ごく少数の愚かな人達による無分別な誹謗として、放っておくことは出来なかった。特に日系人を傷つけたのは、馬鹿げた中傷の大部分には、捻じ曲げられて解釈されてはいたが、日系人社会の真実の一片が含まれていたからである。例えば、「アジア系カナダ人は白人よりも長時間、低賃金で働いている。」である。これはアジア系カナダ人が自ら選んでしたことではない。白人と同じ仕事を、白人と同じ賃金で働くということは、アジア系カナダ人が自分たちで選べることではなかった。また、「アジア系移民マイノリティは、自分たちの組織と習慣を維持している。」これも白人社会がアジア系移民に門戸を閉ざしていたから、日系人は必要に応じて自分たちの社会的、経済的組織を作らざるを得なかったためである。「二世はカナダの公立学校から帰ると日本語学校に通い、日本の教科書で日本語を学習している。」も確かにそうであったが、日系人には白人社会での雇用が限られていたので、日系人社会で仕事を探すために、二世は日本語学校で僅かではあったが日本語を習う必要があった。「日本領事は日本のために日系人を組織している。」も事実であった。日本領事は日系人に尊敬され、日系人のカナダにおけるマイノリティとしての問題の相談にのっていた。しかし1932年に協同連邦党 (CCF) が結成されるまで、日系人の人種差別問題を助けてくれる組織は、日本領事館の他に存在しなかったのである11

1941年11月当時、ショーヤマが日系人の将来を悲観していたのには、もう一つ理由があった。それは日系人は、自分たちに対するカナダ人の怒りにどう対処したらよいか、全く準備が出来ていなかったことである。日系人はカナダ社会のマイノリティでまとまりがなく、BC州のあちこちに分散して生活していた不安定な人達だった。毎日の生活に追われ、カナダ人一般の怒りに対処する方法を知らない人達だった。それまでの日系人に対する人種差別は個別に起きていたので、日系人はその都度ごとに、差別の対象になった当事者だけで対処してきた。日本領事の助けを借りることも多かった。1920年代に日系人漁師に対する漁業免許が制限された時は、日系人だけで誰が漁業を廃業するかを決定し、廃業した漁師の農業や商業への転換を助けた。また日本領事の支援を受けて、漁業免許制限に抗議する裁判を起こして勝訴した。日系人はカナダ社会から疎外されていたために、それぞれの小さなコミュニティーで社会、文化、経済組織を作って生活を維持した。林業と製材業では、日系人労働者は白人労働者の労働組合に入れないので、自分たちの労働組合を作った。連邦政府が日系人の選挙権を承認しないとわかると、選挙権獲得に一番熱心な二世が集まって、「日系カナダ市民連盟(Japanese Canadian Citizens’ League:JCCL)」を創立して選挙権獲得運動を始めた。日系人はこのように、人種差別にその都度別々に対処してきた。その結果、日系人社会の中に、社会、宗教、地理、信条、世代などに基づいたいろいろな組織があり、組織のリーダーはお互いを知ってはいたが、それぞれの組織は独立していた。また1941年以前には、これらの組織をまとめて対処しなければならないような緊急な問題もなかった。

日系人社会にはたくさんの組織があり、外からは全体としてよく統一のとれた社会のように見えた。しかし、実際は組織のどれ一つとして、日系人社会全体のリーダーになれるものはなかった。これらの組織の中で一番成功した「カナダ日本人会(Canadian Japanese Association:CJA)」は4,000名の会員を誇ったが、それでも何回か日系人社会から非難されたことがあった。会員はほぼ全員一世で、会の権威は日本領事との関係によるところが大きかった。しかし太平洋戦争が始まると、日本領事の権威は日系人の中で失墜することになる。CJAは保守的で、会員は都市部の自営業者が多かった。しかし、1930年初めに日本の中国大陸侵略政策を支持したことで、社会的信用を失った。この誤りを正そうと、1940年以降、「戦勝公債(Victory Bond)」の販売促進に尽力したが、日本の軍国主義を批判する日系人の信用は取り戻せなかった。一世の間で最も強く日本の軍国主義を批判したのは、日系人製材労所働者組合だったが、この組織は小さく急進的過ぎたので日系人社会のリーダーにはなれなかった12

二世の組織もまとまりがなかった。1941年当時、カナダには13,600名の日系二世がいたが、そのうち20歳以上はたった5,000名余りしかいなかった。この5,000名も53もある二世の組織に散らばっていた。日系カナダ市民連盟(JCCL)が、一番声高に日系人問題について発言していたが、二世の意見を一番良く代弁していたわけではなかった。連盟のリーダーはトーマス・ショーヤマのようにカナダ社会に最も同化した人達で、バンクーバーのパウエル街以外の住宅地や沿岸の漁師村で育った。しかし協会の会員の大部分は、パウエル街、フレーザー河流域の農家やスティーブストンの漁師村の人達であった。これらの地域で、JCCLは青年クラブのような形態で運営されていた13。二世たちは自分たちの間では二世と帰加二世という文化的相違に悩まされ、社会的経済的には未だに移民一世の両親に依存していた。このため、危機の際に日系人社会を指導するには、若過ぎて経験不足であった。1941年11月当時の日系人社会は、信条、文化、世代で分断され、有能な指導者に欠けた集団であった。


ショーヤマは日系人に対する暴力や器物破壊行為を危惧していたが、日系人の将来については楽観的であった。ショーヤマは新聞と政府を信用していて、日系人の危機の際には、きっと新聞と政府は責任ある対応をすると信じていた。実際、1941年を通してBC州の新聞は、「日系人問題」については低姿勢を保っていた。当時、ショーヤマは連邦警察(RCMP)が介入して、新聞の人種差別的態度を抑制しているとは知る由もなかった。14

トーマス・ショーヤマは、カナダ首相のウィリアム・ライオン・マッケンジー・キングとキングのアジア政策顧問のほとんどが、アジア系カナダ人の保護に関しては頼りにならない人達であったことも知らなかった。狡猾な政治家であったキングは、自分の人種差別意識を大衆の眼から隠していた。しかし死後公にされた日記から、キングの人種差別意識が明らかになった。1941年に68才であったキングは、ビクトリア朝後期の産物であった。そして、この時代の心理的特徴である人種差別意識とコンプレックスを持っていたが、慎重に作り上げた世間体の後ろに隠して表面には出さなかった。キングは世間的には、ビクトリア朝時代の英国首相ウィリアム・グラッドストン風の自由主義を標榜し、民間企業を擁護し、恵まれない人達に寛容な人間を演じた。しかし私人としては、信条と言えるものは何も持っていなかった。キングの行動規範は、その時々に自由党に有利になる政策を取る、ということであった。そして自分を党首とする自由党だけがカナダを治めることが出来る、と堅く信じていた。そのため、キングの意見はその時々の政治状況で変わり、流動的であった。1937年からキングが引退する1948年まで、キングの首席秘書官を務めたジャック・W・ピッカーズギルは、キングについて次のように語っている。

マッケンジー・キングについて一つだけ確かなことは、今日の意見が必ずしも明日の意見と同じではないことだ。キングは直感的な政治家だ。常に大衆の意見がどちらに動くかを直感的に判断していた。キングは自分の信条に殉じる殉教者ではない。15

1941年当時のキングの政敵の一人、CCF議員のトミー・ダグラス(後にサスカチュワン州協同連邦党党首、連邦新民主党党首)は、もっと単刀直入にキングを次のように評している。

キングの座右の銘は、国際政治でも国内政治でも現状を壊すようなことはしない、ということだ。他の人たちがどのような行動をとるかわかるまで、自分から決して動かない、そして多数派が分かってから多数派に参加するのである。マキアベリアン風政治家の素晴らしい手本である。キングは生涯に一度も、自分の立場を他人に先立って表明したことはない。常に75パーセントの大衆が自分を支持することを確かめ、それが判明してから多数派に参加してその旗振り役になった。16

1941年11月まで、キングはこのような策略を用いて15年間権力の座を維持してきた。この間、キングは自分の政府を完全に掌握していた。キングの政府は、日系人を漁業から締め出そうと試み、中国からの移民を停止し、日本からの移民を1年150名に制限し、「日系カナダ市民連盟(JCCL)」からの強い要請にも関わらず、アジア系カナダ人に選挙権を与えることを拒否した。

このような人種差別政策を取ったにも関わらず、キングはこの15年の間、寛容な理性ある政治家という世間体を保つことが出来た。1941年1月、ショーヤマはほかの多数の日系人と同様に、キングについて次のように言っている。「キング首相は偏見や非理性的な感情に左右される人ではない17。」しかし現実のキングは、偏見や非理性的な感情に直接影響を受けなくとも、このような偏見や感情を持つ有権者の存在には敏感であった。ジャック・ピッカーズギルによれば、「キングは心の底では、日系人政策を是認していなかった。しかし、BC州の反日感情が選挙の動向を左右する限り、これを無視することは出来ないと思っていた18。」キングは有権者の票を獲得するためには、選挙民の偏見も認めなければならないと信じていた。そのうえ、個人的にも偏見を持っていたので、キングの採用する日系人政策は、日系人にとって厳しいものになっていった。キングは日記にインドが「黒人のリーダーの下に」英連邦に参加することに嫌悪感を表明している。キングの日本人に対する態度は、広島に原子爆弾が落とされた直後の感想にもっともよく現れている。キングは日記に次のように書いた。「原爆がヨーロッパの白人人種ではなく、日本人に対して投下されたのは幸運であった。」19


キング首相の諮問機関である「アジア系カナダ人に関する常任委員会(Standing Committee on Orientals)」の委員たちも、ショーヤマが称賛するような、「この悲劇的なかつ微妙なアジア系カナダ人問題に、理性と適切な判断を真摯に適用しようとする20」人達ではなかった。この常任委員会は、1940年にアジア問題について連邦政府に助言するために設立された。委員は5人のBC州出身者で構成された。ヘンリー・F・アンガス ブリティッシュ・コロンビア大学教授、フレデリック・J・ミード連邦警察(RCMP)副長官、連邦政府国防省A・W・スパーリング中佐、F・J・ヒューム ニューウエストミンスター市長、外国人嫌いの保守党議員マックグレガー・マッキントッシュ中佐であった。マッキントッシュ中佐を除いた委員にショーヤマは満足していた。アンガスは積極的に発言するリベラルな人物で、1930年代を通じて自分が不利になることも省みず二世の擁護をした。ミードは広く尊敬されていたRCMPの治安の専門家で、日系人支持を公にしていた。ヒュームは政治家であったが、アジア系カナダ人問題では穏健派であることが知られていた。スパーリングもヒュームと同様であった21。明らかにアジア系カナダ人に対する人種差別意識を持つマッキントッシュを、アンガスとミードでバランスを取り、1941年11月現在の委員会は、日系人の直面する問題について日系人に同情的のように見えた。

日系人にとって不幸だったことは、ヒュームとスパーリングは外見と違って、本当は日系人にとって安全な人物ではなかったことであった。ヒュームは政治家で、日系人が政治の対象になると、日系人に対して中立的立場を維持するかどうか信頼出来なかった。スパーリングはもっと問題で、1940年にアジア系カナダ人のカナダ軍入隊問題が生じた時に、入隊を拒否するうえで大事な役割を果たしていた。スパーリングも外見は温和であったが、実は強硬にアジア系カナダ人の入隊を拒否した。理由ははっきりわからないが、1944年に、カナダ軍諜報部に意見を提出して、日系人はカナダ国家に対して忠誠心を持たず、もし入隊を許可すればカナダ軍内で人種問題の軋轢が生じるだろう、と述べている。1940年に連邦政府が設立した「アジア系カナダ人に関する特別委員会(Special Committee on Orientals)」で、たった一人アジア系カナダ人の入隊に反対した委員であった。この委員会の他の委員のヒュー・キンリーサイド博士(連邦政府外務省次官補)、ジョージ・サンソム博士(コロンビア大学アジア研究学部教授)、フレデリック・J・ミード(連邦警察副長官)は、アジア系カナダ人の入隊を強く支持した。キンリーサイドとサンソムは自分の信条に従って、ミードは自分の経験から日系人はカナダ国家に忠誠であり法律を遵守すると信じていたので、アジア系カナダ人の入隊に賛成した。ミードはBC州の治安に責任をもっていたので、日系人よりも、バンクーバー市の市会議員ハルフォード・ウィルソンのような極端な人種差別主義者が騒ぎ立てて巻き起こす問題を抑制する方に関心を向けていた22。スパーリングはこの委員会で国防省を代表していたが、「キンリーサイドは日本びいきであり、ミードは日系人が過去に何も問題を起こさなかったから、これからも問題を起こさないと甘く考えている。」と思っていた。スパーリングは、キンリーサイド、ミード、サンソムの三人が日系人の入隊に賛成なのを知り、入隊を阻止できる人間を探して、バンクーバー・センター地区選出の連邦議員で、年金・保健大臣をしていたイアン・アリステアー・マッケンジーに直接話しを持っていった23


イアン・アリステアー・マッケンジーは話題に富む人物だった。スコットランド出身を誇りにし、スコットランド訛りの強い英語を話した。連邦議員に選出されて初めて議会で演説した時、あまりにスコットランド訛りの強い英語だったので、他の議員からカナダの公用語の英語とフランス語以外で演説をしたと揶揄されたことがある。1941年までにマッケンジーは際立った経歴を積んでいた。1914年にカナダに移民してBC州に住んだが、カナダに移民する前にスコットランドで、西洋古典学、ゲーリック語とその文学の研究者として賞を受賞した。またエディンバラ大学法学部を主席で卒業した。BC州に1年住んだ後にカナダ派遣軍に入隊し訳注i、第一次世界大戦ではイープル、ケンメル、ソンムの戦役で戦功を挙げた。その後1919年に退役してBC州に戻るまで、J.D.スチュワート将軍の率いるカナダ軍統合参謀本部に勤務していた。

マッケンジーはBC州に戻って18ヶ月後にBC州議会議員に選出され、その長い政治家としての新しい人生を始めた。それから9年後、BC州政府の官房長官を務めてから、マッケンジー・キングの自由党連邦政府の移民・植民・復員兵再定着・先住民大臣の職を受諾して、州政治から連邦政治に鞍替えした。1930年の連邦選挙で自由党は負けたが、マッケンジーはバンクーバー・センター地区で当選し、自由党の影の内閣の一員なり、議会の駆け引きに長けていることを示した。次の1935年の連邦選挙では自由党が勝ち、マッケンジーも200票の差で辛くも当選した。マッケンジーはこの自由党内閣で国防大臣になったが、第二次世界大戦の勃発と共に年金・保健大臣に更迭された。24

マッケンジーは独身主義者で人に好かれる人物だったが、三つの欠点を持っていた。酒好きなこと、事務管理が苦手なこと、そしてアジア人嫌いなことである。マッケンジーの親しい友人であった保守党政治家のジョン・G・ディーフェンベーカー(後の連邦政府首相)によれば、マッケンジーは「アジア人に対して、多少不合理な感情を持っていた」のである25。しかしCCF書記(後に連邦新民主党党首)のデービッド・ルイスは、歯に衣を着せず「イアン・マッケンジーは、純粋で明白な人種差別主義者である」と述べている26。マッケンジーはBC州で自由党によるアジア系カナダ人排斥運動の推進者であった。白人カナダ連盟が触れ回る嘘と中傷を書き並べたヘイト文書を喜んで受け入れていた。この文書には次のようなスローガンが書いてあった。「協同連邦党の候補者に投票することは、中国人と日本人にあなたと同じ選挙権を与えることになる27。」

1941年までにマッケンジーは21年の政治生活を送っていたが、その間、州議会、連邦議会、連邦政府内閣に提出された反アジア人議案に、一つの例外を除いて28、すべて賛成票を投じた。

マッケンジーは、BC州ではあからさまなアジア人排斥主義を掲げて選挙運動をしたが、オタワに移ってからは、人種差別主義は表に出さず、裏で狡猾な手段を使って同様なことをした。これは、やはり狡猾に目立たずに政治を仕切ることを好むキング首相との親しい友人関係を保つためであった。第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期に、イアン・マッケンジーは声高なアジア人排斥主義の宣伝はニールやリードといった政治家にまかせ、自分のアジア人排斥主義はBC州の特殊事情のためにやむを得ない政治的な判断に過ぎない、と同僚の議員たちに思わせていた。マッケンジーはオタワでは、自分のアジア人排斥主義を表に出さないように社会的に気をつけることによって、ディーフェンベーカー(後にカナダの人種的マイノリティの擁護者を名乗るようになる)のような人物との友情を保っていた。

マッケンジーはオタワで、アジア人排斥主義を他の議員より少しだけ明白に表明したに過ぎなかった。1941年当時、マッケンジーの内閣における同僚で、非白人は白人より少ない人権しか享受できない、ということを気にかける人は誰もいなかった。これは社会的な事実であり、そのまま受けいれるべきものであった。マッケンジーの同僚の多くは、そのうちの一人が後年述べたように、「人種問題について政府は社会通念に従うべきであって、社会通念を変えるような行動をすべきでない」と思っていた29。オタワではアジア系カナダ人は、BC州だけの些細な問題であった。マッケンジーは華やかな戦争英雄、自由主義経済の推進者、退役軍人の利益の代弁者、そして何よりも、政治駆け引きで第一級の人物、と見られていた。

マッケンジーは1935年の連邦選挙で協同連邦党(CCF)の候補者と争い、アジア系カナダ人排斥戦術を駆使して当選した。このことからマッケンジーは、アジア系カナダ人の入隊運動を潰さなければ、次の連邦選挙で協同連邦党の候補に負けると確信していた。マッケンジーはアジア系カナダ人の入隊は自分の当選を二つの理由で危うくすることを知っていた。一つは、もし自分の選挙区で入隊が許可されれば、この人達は選挙権を獲得して次の選挙でCCFの対立候補に投票する。もう一つは退役軍人の中のアジア人排斥主義者は、入隊を許した自由党に失望して、自由党と同様にアジア人排斥主義を掲げる野党の保守党に投票する、であった。政局の達人であるマッケンジーは、自分と自由党が、いつも非難の対象にしているCCFと同様に入隊を支持していると選挙民から思われるのを避けたかった。マッケンジーは、内閣で国防省代表のスパーリングの力を借り、BC州の自由党政府首相ダフ・パチュロのアジア系カナダ人入隊拒否推進運動に加担した30

連邦政府内閣の密室の中で、マッケンジーはアジア系カナダ人政策を牛耳っていたが、これはマッケンジーが世間で言われているような影響力を内閣で持っていたわけではない。それどころか、内閣の中の序列と影響力は弱かった。マッケンジーには事務能力が弱いという欠点があり、このため第二次世界大戦が始まると同時に、国防大臣から年金・保健大臣に更迭された。マッケンジーの閣僚内の影響力は、キング首相との密接な関係に依存していた。マッケンジーはキング首相に、自分はBC州出身のただ一人の大臣であり、政治戦略家として名声を博していると強調した。内閣は日系人問題はBC州の問題であり、連邦政治に対する影響はごく限られている、と見なしていた。そして日系人問題は、政治的に抜け目のないBC州出身のマッケンジーに任せておけば良いと考えた。実際、閣僚の中で日系人問題に少しでも関心を持っていたのはマッケンジーただ一人であった。

政府の日系人問題に対する態度は、漁業大臣であったJ.E.ミッショードに端的に現れている。1940年にミッショードは、日系人漁業許可証の制限処置を継続するかどうかについて、マッケンジーに次の手紙を書いた。ちなみに当時の日系人漁師はカナダ国籍を獲得していた一世か、またはカナダ生まれでカナダ国籍を持つ二世であった。

私は日本人を祖先とする英国臣民に対して、漁業許可証の発行数を制限してきた恣意的な規則を正当化することは難しいとずっと思ってきました。特に今年はカナダがヨーロッパ戦線で、自由と人権を守るためにナチス・ドイツと戦っています。それなのにカナダは国内で、ヒットラーがチェコ人、スロバキア人、ポーランド人に対して用いたのと同様な差別政策を、日本人を祖先とする英国臣民に対して用いています。これは本当に理解に苦しみます。勿論、あなたも時が来れば、私の現在の立場を理解してくれるだろうと思うので、現在はあなたの意見を参考にするつもりです。31

ミショードは、日系人漁業許可証を制限するという政策の裏にある人種差別を不快に思った。しかし、自分の倫理観に基づいて、制限を廃止する処置を推進するまでにはいたらなかった。政策の責任を他の人に任せておけるならば、倫理に反するが政治的に都合の良い政策を受け入れることで甘んじた。ミショードと同僚の政治家たちは皆、キング首相の政治信念に同意していた。「政治には原則が不可欠である。しかし、原則の適用は時と場合による32。」というものであった。日系人問題という政治的にデリケートな問題について、ミショードのような「自由主義」的政治家は、問題の倫理的責任を日系人政策立案の主要人物であるイアン・マッケンジーに転嫁することで満足していた。

マッケンジーは国防大臣として、その影響力を大臣としての職務を通じて閣外にも及ぼしていた。1938年に、国防省の文民次官L.R.ラフレッシュは、連邦政府のアジア系カナダ人に関する省際常任委員会の委員長宛に、次のような書簡を送った33。この委員会は連邦政府の上級官僚がアジア系カナダ人に関する幾つかの政策を審議する場所で、政策の中には国内治安も含まれていた。
以前から、敵性外国人が仮釈放されたときは拘留施設から出所できることになっているが、BC州の日本国籍を持つ住民にこの規則を適用することは、治安の観点から見て疑問がある。また日系人に対する不安感が大きくなっている状況では、たとえカナダ国籍を持つ日系人でも騒ぎを起こさないとは言えない。それ故、これら日系人はカナダ国籍の有無にかかわらず、先ずは行動を制限し、後に民主的権利を制限する処置を取ることは妥当であり、BC州民もそれを望んでいると思われる。日本人を祖先に持つカナダ人は、日本に対して忠誠で、カナダに対しては敵意を持っているかもしれない。国防省は将来、BC州だけでも日系人10,000名余りを拘留するための施設を提供することになるかもしれない34

ラフレッシュは国内の治安は国防省の担当ではなく連邦警察の責任であると認めながらも、日系人がカナダに対して忠誠でないという主張の根拠は何も示していない。1940年まで国防省が太平洋地域統括部隊に国内治安係を任命していないことから見ても35、ラフレッシュの意見は国防省全体の意見ではなく、単に上司のマッケンジーの意見を反映した個人的なものであったように思われる。いずれにせよ、このような日系人に対する偏見が、連邦政府の日系人政策の基礎になったのである。1938年当時カナダには、日本国籍を持つ成人男性は2,000名しかいなかったが、ラフレッシュは、前述の書簡で10,000名余りの日系人の拘留について言及している。日本との戦争が勃発したときは、日本人を祖先に持つカナダ人すべてを拘留するという考えを、マッケンジーが既にこの当時持っていたことを示唆している。

1939年2月に、連邦政府官僚たちは、再び日系人の運命について、「外国人及びその資産処理に関する省際委員会」で討議した。この委員会は外国人についてだけの討議に限定されていたが、次のような結論を出した。

もしカナダがアジアのある強国と戦争になる時は、BC州のカナダ市民および他のアジア系市民の、このアジアの交戦国出身の市民対する感情を考慮して、これら敵性外国人のほぼ全てを強制収容する必要を進言することになるだろう。強制収容は敵性外国人によるスパイ行為や妨害工作を防ぐだけでなく、その資産をBC州民による破壊や略奪から守るためにも必要である。36

この結論からわかることは、BC州民の感情を誰がどのようにして調べるのか、という問題はともかく、真珠湾攻撃のほぼ3年前に、連邦政府高官の中に既に敵性日系人〈日本国籍者〉は強制収容すべきだ、と結論していた人達がいたということである。


しかし、連邦政府の省庁間では日系人問題の処置について意見が別れていた。省庁の中には強力に日系人排斥を推し進めたいところがあった。例えば1938年に労働省は、日系人に対する悪意を撒き散らしている団体「白人カナダ連盟」から提供された資料を基にして、アジア系カナダ人と白人との経済的競争についての報告書を作成した。報告書は、アジア系カナダ人が白人系カナダ人を幾つかの産業で意図的に追い出している、という白人カナダ連盟の根拠のない主張を正式に認めている。この連盟はアジア系カナダ人がベリー、野菜、家禽の値段をわざと下げていると主張した37。また漁業省は日系人漁師への漁業認可更新を拒否することで、漁業から日系人を駆逐するための4年計画を提案している。日系人漁師は全員カナダ国籍持っているにもかかわらずである38

日系人を擁護した省庁もあった。日系人擁護の主要な省庁が外国との関係を扱う外務省であったいうことは、当時の連邦政府は日系人をカナダ人として見ていなかったということを示している。外務省で最も日系人擁護を明白に主張したのは、1941年当時43歳で米国および極東アジア担当の次官補だったヒュー・キンリーサイド博士であった。キンリーサイドはBC州生まれで、バンクーバーの両親の家には様々な人種のカナダ人が訪れていた。子供の時にこのような環境で育ったキンリーサイドは、自由主義者になっていったが、ブリティッシュ・コロンビア大学とマサチューセッツ州のクラーク大学で学んだ経験がその自由主義を更に育んだ。キンリーサイドは1929年から1936年まで、東京のカナダ公使館で一等書記官を務めた。この時に日本文化の理解を深めたが、この経験が1938年に「日本人不法移民審理委員会(Board of Inquiry into Illegal Japanese Immigration)」、1940年にアジア系カナダ人のカナダ軍入隊を審議した「アジア系カナダ人に関する特別委員会(Special Committee on Orientals)」の委員長を務めた時に役立った。39

私的な場所でも公の場所でもキンリーサイドは、政府のアジア系カナダ人政策を改善する努力を続け、全てのカナダ人が同等の権利を持つことを推進した。キンリーサイドは戦前他にも、「アジア系カナダ人に関する省際委員会(Interdepartmental Committee on Orientals)」や「カナダ・米国国防常設委員会(Canada-United States Permanent Joint Board of Defense)」に参加していた。後者は民間人と軍人から構成され、カナダと米国の国防計画を調整するのが目的であった。

1941年11月、カナダ・米国国防常設委員会の中に、日本と戦争になったときには、日本人を祖先に持つカナダ人とアメリカ人の一部を国外追放または強制収容する、という提案を精力的に推し進めるグループがあった。キンリーサイドは、この提案を抑えることに成功した40。キンリーサイドのような穏健派の努力により、委員会は次のような方針を決めるだけに抑制された。「委員会はカナダと米国両政府が日系人について同様な処置を取り、政策の一致をはかることを勧告する41。」キンリーサイドはカナダ政府と米国政府が、人権平等の原則を標榜するだけでなく実践することを主張した。このような主張をするキンリーサイドは、上司から必ずしも気に入られているわけではなかった。

1941年当時、キンリーサイドの直接の上司であった37歳の外務省次官脚注Cのノーマン・ロバートソンは、BC州出身でキンリーサイドに同情的であった。しかしキンリーサイドの意見を、自分の意見としてはっきりと擁護することはなかった。ロバートソンはキング首相が自分の部下が自分と反対の立場をとることを、たとえそれが日系人問題というキングに取って些細なことであっても、長くは我慢しないことを知っていた。それで、ロバートソンはキンリーサイドよりも慎重な手段を用いた。日本人問題は自分の担当分野では小さな割合しか占めていなかったが、アジア系カナダ人問題に関する委員会に、イアン・マッケンジーの推薦した人種差別主義者と対抗するような自由主義的な人物を推薦した。またキング首相には、アジア問題についてキングの意向に沿うように見せかけながら、もっと用心深い穏健なものになるようにキングを導いた42


外務省の自由主義者には、RCMPとカナダ軍の高級官僚に大事な仲間がいた。RCMPで日系人の擁護をした主要人物は、副長官のフレデリック・ジョン・ミードだった。ミードはイングランド生まれで、第一次世界大戦以前にカナダ北西騎馬警察官(Royal North-West Mounted Police)になり、一警官から出発して1938年には副長官まで昇進していた。皆に尊敬されていた警察幹部で、カナダ中の連邦警察署で勤務し、警察業務に精通していた。1941年までにミードは、RCMPの治安問題の第一人者になっていた。特に共産主義者の反政府活動に詳しかった。43

ミードの日系人社会との主要な仲介者はエツジ・モリイ〈森井悦治〉だった。ミードが最初にモリイに出会ったのは、ミードが共産主義者の反政府活動の専門家として活躍していた時だった。モリイはバンクーバーで日系人の多く住むパウエル街で、良くも悪くも噂の多い人物だった。ミードによれば、1930年代に共産主義者が日系人漁師を組織しようとしたのを、モリイが挫折させた44。モリイはRCMPにとって理想的な日系人社会との仲介者であった。モリイはパウエル街で影響力があり、日系人社会を守る為に必要とあれば、嫌な役目を評判を気にせずに引き受けた。モリイは日系人社会で尊敬されたが、同時に軽蔑もされた。モリイを尊敬するか軽蔑するかは、世代と信条の違うグループできれいに分かれた。20世紀初めに日本から移民してきて、日本人移民に厳しい環境で過ごしてきた一世は、モリイを尊敬していた。一世はモリイを自分たちと同じ時代の産物と見ていた。モリイは1906年にカナダに移民してきた。当時の日本移民はほぼ全員が男性で、季節労働に従事し、稼ぎは中華街で賭博をしてなくしていた。モリイはどうせ賭博で稼ぎを失くすなら、中国人より日本人に取られるほうが良いと、パウエル街に日本人社交クラブを作って、酒を飲み賭博が出来るようにした。このクラブには中国人の賭博場のような危険はなかった45。1910年以後、日本から女性移民が来るようになり、BC州の日系人社会も家族を中心にした、落ち着いたものに変貌していった。モリイはパウエル街の日系人の元締めのような役割を担うようになった。クラブからの収入で日本武術クラブを創設して、日系人の若者にエネルギーのはけ口を提供した。同時に武士道精神を教えた。また、日系人社会で募金活動を始め、自らも気前よく寄付をした。クラブの賭博からの収入の一部を賭博で稼ぎを失くした人の家族に送っていたので、一世の間で人気があった。クラブを安い費用で「日系カナダ市民連盟」(JCCL)のような資金の乏しい団体に貸していた。

パウエル街の日系人は、モリイがギャングから元締めに変貌するのを眺め、いろいろと解釈した。キリスト教徒の二世は賭博は悪だと教えられていたので、カナダ社会で尊敬されるコミュニティーを作る努力をしている自分たちにとって、モリイはもとのままのギャングでありマイナスだと思った。社会主義者の一世は、モリイを武士道を推進するファシストとみなした。それ以外の一世の大部分は、賭博は日本文化にごく普通のものであり、賭博を嫌い、禁酒運動をする白人社会の倫理感を不思議に思っていた。この人達にとって、モリイは日系人社会に必要な役割を担う人だった46。モリイの役割でいちばん大切なものは、日系人社会を外部の暴力から守ることであった。モリイは自分は日系人社会と外部社会の間に立って、外部社会からの悪影響を阻止していると考えた。RCMPが日系人社会に接して来た時も、日系人社会を保護する仲介者としての役割を担った。

モリイが日系人社会の保護者としての役割をどのように果たしていたかは、1938年にキンリーサイドが日本人不法移民を調査するための連邦政府委員会委員長であった時に、モリイが果たした役割でわかる。委員会は、日本政府が密かに日本軍人をBC州に密入国させている、という人種差別主義者の主張を鎮める目的で設立された。当時、米国ワシントン州とBC州の国境の管理は杜撰で、ワシントン州からBC州に密入国するのはとても簡単であった。これが日本人不法移民問題を複雑にしていた。北米に到着した日本人や日本人以外の人達は、しばらくは北米にカナダと米国の二つの国があることを知らずにいた。これらの人々は北米に数年しか滞在するつもりはなかったので、移民に関する正式な手続きの知識に乏しく、大切だとも思わなかった。そのため、1938年には、カナダの移民法やパスポートの管理が厳重になると、米国国境からカナダに入ってきた人達は不法移民になっていた。

モリイは日系人社会の元締めとして、この委員会の審理が日系人社会へ与える影響を、最小限に食い止める役割を担った。一世は、自分たちはカナダでもう30年以上も生活しているが、それだけでカナダ政府が自分たちのカナダ滞在を、これからも許可するとは思っていなかった。そのうえBC州の人種差別主義者が、仕事を奪われる心配のない中年の日本人であっても日本人不法移民の存在を排日運動に利用するのは明らかだった。モリイは委員会と日系人社会の仲立ちになることを引き受け、日本人の乗って来た船の名前と上陸の日付、日本人乗客数を書いた書類を委員会に提出した。この書類には日本人乗客数だけが書いてあり、乗客名は記されてなかった。モリイは日本人不法移民の中から、苦労してカナダに残る算段をするより日本に帰ったほうが良いという人たちを選んで、その名前を委員会に提出した。結局、わずか24名の日本人が日本送還になっただけだった47

RCMPはモリイが賭博場と関係していることを知っていた。また、モリイが1920年代に殺人の容疑で起訴され、無罪釈放になったことも知っていた。しかしRCMPはモリイが釈放の後で何ら問題を起こしたこともなく、日系人社会で広く尊敬されていることを重く見た。その証拠に、モリイは「カナダ日本人会(Canadian Japanese Association)」と「日本人福祉協会(Japanese Welfare Society)」の役員をしており、1940年の赤い羽根募金運動とカナダ戦勝公債販売促進運動訳注iiで、日系人社会の纏め役を勤めた。またモリイが一世の間で強い影響力を持つことは、1936年のサンフランシスコ日系人社会の紛争の調停役として、サンフランシスコまで呼ばれて行ったことからも明らかだった。このような事実と、連邦政府の不法移民委員会でモリイの果たした役割を連邦警察は高く評価した48。連邦警察にとって最も大切なことは、モリイがBC州の日系人社会の全てに精通し、日系人による破壊活動の可能性を阻止できる立場にあることであった。

モリイはRCMPに対して真実を一切隠さなかった。モリイは、日系人の中には日本陸軍と海軍の軍人だったものもいるが、全員徴兵された者であり、敵性外国人と見なすことは出来ない、と真実を訴えた。日系人の中には「血気に満ちた愚か者がいて、過激な事を言うかもしれないが、決してカナダ社会に害になるような行動はさせない」と保証した。特にモリイは、日系人は市会議員ウィルソンのような人種差別主義者の挑発に乗らず、冷静に対応してきた完璧な経歴を持っていると強調した。1940年にモリイはRCMP長官のS.T.ウッドに、「日系人は自分たちの将来は、カナダ人全般の将来と深く結びついており、カナダ人全般の利益が日系人の利益だ」と断言した。49

ミードはモリイに同意して、1940年に「日系人による妨害工作の恐れはない。これは大まかな意見であることを承知しているが、また同時に真実である。」とRCMP長官に報告している。ミードはモリイの「現在、英国と日本帝国とは緊張した関係にあるが、将来、両国間に戦争が起きても、日系人が騒ぎを起こすことはない」という主張を受け入れた。ミードはウィルソンのような反日人種差別主義者による煽動こそが一番重大な危険だと思っていた50


カナダ軍では、1940年に参謀本部長官だったH.G.D.クレラー大将、後任のケン・スチュワート大将、スチュワートの副将のモーリス・ポープ中将が、ミードの意見に同意した51。ポープは後に、「戦前、戦中のどの時点でも、私は日本人、日系人が太平洋岸地域にいることを危惧したことはない」と回想している52。スチュワートも、日系人はカナダに忠誠であるという見解を持っていた。スチュワートは太平洋戦争が勃発した後、ポープに「カナダ軍の見解としては、私は日系人がカナダの安全にいささかも脅威となるとは思わない」と告げた53

日系人にとって不幸だったことは、これらカナダ軍隊の高官の見解が、キング首相にとって重要ではなかった、ということである。1940年8月という早い時点で、キングは参謀本部の「日本軍によるカナダ太平洋沿岸の侵略は不可能である」という査定を冷笑した。この査定をBC州首相のダフ・パチューロに送るにあたって、キングは「これはカナダ軍の公式な査定であるが、私はあなたと同様に、アジア人に関した事柄は何事も額面どおりに受け入れてはいけないと思っている」と伝えてい。54 1941年11月までに、キングのカナダ軍高官に対する不信感は、徴集兵を海外に派遣するか否かをめぐる意見の対立で強まっていた。キングは、カナダは空軍、海軍、国内の工業製品の生産だけで、第二次世界大戦に貢献すべきであると信じてい。55 一方1941年までに英国の戦略家は、ナチドイツに占領されたヨーロッパに進攻する作戦を練っていた。この時点で、米国はまだ中立を保っていたので、英国は米国の支援ではなく英連邦と英国植民地から大量の支援を期待していた。英連邦の一員としてカナダは、陸軍4師団の参戦を期待されていた。1941年7月に「内閣戦時委員会(War Cabinet Committee)」は、海外派遣軍4師団と国内防衛軍2師団の編成を許可した。しかし海外派兵の4師団の兵員をどのように集めるかが問題であった。軍部とキング政府防衛大臣J.L.ラルストンの両者とも徴兵制を望んだ。

しかしキング首相は、徴兵制を導入して徴集兵を海外に派遣すれば、徴兵制に反対のケベック州で自由党は壊滅してしまうと危惧した。連邦自由党議員の約3分の1はケベック州選出の議員であった。1941年11月、キング首相は、なにがあってもカナダ軍の計画を阻止して、徴兵制の導入だけは避けようと決断した。

キング首相は同じく1941年11月に、カナダ太平洋岸の防衛に危険があれば、これはほんの少しではあるが徴集兵の海外派遣反対に有利に働くと考えた。「太平洋戦争が起こればカナダ軍をカナダ太平洋岸に配備することになり、ヨーロッパに徴集兵を送る余裕がなくなる」とキング首相が言ったと伝えられている。56 1941年から1942年にかけての冬に、キングは自分の徴兵制導入反対に不利になるような参謀本部の勧告を受け入れる気持ちはなかった。


1941年11月までに、将来の日系人の運命を決定する舞台は整っていた。当時のカナダの政治状況で、非白人マイノリティが、白人と同様の人権を持たなければならいという議論は、政治的に危険なことであった。日系人は、連邦政府が自分たちの人権を守ってくれると信じていた。しかし連邦政府が既に日系人の期待を裏切る政策の準備を整えていたことも、連邦政府の日系人政策が一人の人種差別主義的政治家の手に委ねられていたことも、日系人は知らなかった。RCMPとカナダ軍高官は日系人を擁護したが、日系人の運命を決定する政治家の中には、一人として日系人を擁護するものはいなかったのである。

訳注
I. 第二次世界大戦中のカナダは英連邦の一部であり、カナダ軍は英国軍の支配下に置かれると同時に米国との軍事協力体制も維持していた。カナダの海外派遣軍はCanadian Expeditionary Forceとよばれた。(戻る)
II. カナダ政府は第二次世界大戦中に、戦時公債を発行した。この戦時公債は戦勝公債(Victory Bond)とよばれた。(戻る)


A. 1941年にカナダ生まれの日系人が13,600人いた。帰加二世の数は推定出来ないが、1,500人の学齢児童が日本で学校に通っていた。これは全日系カナダ人学齢児童の14パーセントにあたる。(戻る)

  1. ショーヤマは1945年にカナダ軍のS-20情報部隊に入隊するまで 『ニュー・カナディアン』 紙英語版の編集長をしていた。除隊後、サスカチュワン州政府経済発展審議会執行委員長になる。1960年代に連邦政府財務省に移り、1971年に財務省次官になるまで昇進を続けた。 第二次世界大戦前のBC州の人種間関係の負の側面は次の著書に詳しい。W. Peter Ward, White Canada Forever: Popular Attitudes and Public Policy Toward Orientals in British Columbia,, Montreal: McGill-Queen's Press, 1978. (戻る)
  2. See Patricia E. Roy, "The Oriental ÔMenace' in British Columbia," Studies in Canadian Social History, edited by Michel Horn and Ronald Saborin. Toronto: McClelland and Stewart, 1974, p.292参照。 (戻る)
  3. For a full account of the 二世 dilemma, see Ken Adachi, The Enemy That Never Was: A History of the Japanese Canadians. Toronto: McClelland and Stewart, 1976.; F.E. La Violette, The Canadian Japanese in World War II. Toronto: University of Toronto Press, 1948.; and C.H. Young, H.R. Reid and W.A. Carrothers, The Japanese Canadians, Toronto: University of Toronto Press, 1939. (戻る)
  4. 『ニュー・カナディアン』, 21 November 1941. (戻る)
  5. Ibid.(戻る)
  6. このような例としては、 C.E. Hope and W.K. Earle, “The Oriental Threat,” Maclean's; J.E. Sears, "Orientals and the C.C.F.: A Radio Address," 4 October 1935, Angus MacInnis Collection, Box 41, UBC Archives; and 『ニュー・カナディアン』, 14 February 1941.(戻る)

B. 協同連邦党 (CCP)、後の新民主党 (戻る)

  1. このような排日カナダ人議員の言動には次の例がある。Canada, House of Commons, Special Committee on Elections and Franchise Acts, Minutes of Proceedings and Evidence, 11 March 1937. (戻る)
  2. カナダ太平洋岸のアジア人排斥感情の歴史は次を参照のこと。Roger Daniels, The Politics of Prejudice: The Anti-Japanese Movement in California and the Struggle for Japanese Exclusion,Gloucester, Mass.: Peter Smith, 1966; and John Higham, Patterns of American Nativism, 1; and John Higham, 860-1925,New York: Antheneum, 1975. 上の二つは日系アメリカ人の経験についてであるが、日系カナダ人の経験にも関係している。日系人の人種差別の歴史は前掲 Adachi, The Enemy That Never Was. (戻る)
  3. BC州の白人がアジア系カナダ人を恐れていたのは、アジア系カナダ人が労働で自分たちより優れていると思ったからで、アジア系カナダ人が労働で劣っていると思ったからではないという議論は次を参照のこと。Patricia E. Roy, "British Columbia's Fear of Asians: 1900-1950," Social History, pp. 161-72. (戻る)
  4. 日系人に対する人種差別的な宣伝工作については次を参照のこと。Adachi, The Enemy That Never Was; and La Violette, The Canadian Japanese. (戻る)
  5. 日本領事館の歴史的に果たした役割については次を参照のこと。 M.A. Sunahara, “Historical Leadership Trends Among Japanese Canadians: 1940-1950,” Canadian Ethnic Studies, pp. 1-16; Yuji Ichioka, "Japanese Associations and the Japanese Government, " Pacific Historical Review, pp. 409-37; and Roger Daniels, "The Japanese," in John Higham, ed., Ethnic Leadership in America, pp. 39-45. (戻る)
  6. Sunahara, “Historical Leadership Trends”; M.A. Sunahara, “Federal Policy and the Japanese Canadians,”M.A. thesis; and J.M. Read, “The Prewar Japanese Canadians of Maple Ridge,” M.A. thesisを参照。 (戻る)
  7. インタビュー JCCLの指導者。 (戻る)
  8. カナダ軍諜報部によるRCMP副長官F.J.ミードとのインタビュー Microreel 629A, “Evacuation of Japanese,” Provincial Archives of British Columbia (PABC). (戻る)
  9. インタビュー J.W. Pickersgill, Ottawa, Ont. (戻る)
  10. インタビュー Hon. T.C. Douglas, Ottawa, Ont. (戻る)
  11. 『ニュー・カナディアン』, 10 January 1941. (戻る)
  12. インタビュー J.W. Pickersgill. (戻る)
  13. W.L.M. King Diary, W.L.M. King Papers, MG27J2, PAC, 6 August 1945. (戻る)
  14. 『ニュー・カナディアン』, 21 November 1941. (戻る)
  15. マッキントッシュは1938年に日系人全ての日本への送還を提唱した。Patricia E. Roy, “Educating the East,” B.C. Studies, pp. 64, 68. アンガスの視点は次を参照。Henry F. Angus, ʻʼLiberalism Stoops to Conquer,” Canadian Forum他の人たちの視点についてはH.L.キンリーサイド博士の意見によるところが大きい。 (戻る)
  16. Report, Mead to Comnr. S.T. Wood, RCMP, 21 August 1940. Department of National Defence Papers, RG 24, vol. 2730, file HQS5199x, PAC. (戻る)
  17. Report, Mead to Comnr. S.T. Wood, RCMP, 21 August 1940. Department of National Defence Papers, RG 24, vol. 2730, file HQS5199x, PAC. (戻る)
  18. Who's Who in Canada. 1945; King Diary, 19 January 1946; Bruce Hutchinson, The Incredible Canadian: A Candid Portrait of Mackenzie King, Toronto: Longmans, 1970, p. 216; Blair Neatby, William Lyon Mackenzie King, 1924-1932, Toronto: University of Toronto Press, 1963, pp. 332, 358; Vancouver Sun, 4 June 1938. (戻る)
  19. インタビュー Rt. Hon. John G. Diefenbaker, Ottawa, Ont. (戻る)
  20. インタビュー David Lewis, Ottawa, Ont. (戻る)
  21. See Vancouver Sun, 7 October 1935; and Sears, "Orientals and the C.C.F." The latter is repeated in part in Canada, House of Commons, Debates, 27 February 1936, p. 575. (戻る)
  22. マッケンジーの日系人排斥政策の唯一の例外は、1929年、第一次世界大戦にカナダ兵として参戦したアジア系カナダ人に、BC州選挙権を与える法律を支持したことである。この時マッケンジーは、かつて自分が会長を務めたことがある第一次世界大戦退役軍人会の方針に従って賛成票を投じた。マッケンジーのアジア系カナダ人観については次を参照のこと。 The Ian Mackenzie Papers, MG27IIIB5, vols. 24, 25 and 32, PAC. Many of these documents were written to political colleagues. マッケンジーの個人的見解については次を参照のこと。Robert England and Rt. Hon. John G. Diefenbaker. 声明については次を参照。Canada, House of Commons, Debates, 17 December 1945, p. 3704. (戻る)
  23. Humphrey Mitchell, Minister of Labour, as quoted in Nisei Affairs, vol. 1, no. 2, 28 August 1945. (戻る)
  24. パチューロがアジア系カナダ人の入隊は、アジア系カナダ人に選挙権を与えることになるので反対した経緯については次を参照のこと。the T.D. Pattullo Papers, Add MSS 3, vol. 75, PABC. (戻る)
  25. J.E. Michaud to Ian Mackenzie, 17 January 1940, Ian Mackenzie Papers MG27IIIB5, vol. 19, file 29-7, PAC. (戻る)
  26. J.W. Pickersgill and D.F. Forster, The Mackenzie King Record, Vol IV, 1947-1948. Toronto: University of Toronto Press, 1970., p. 235. (戻る)
  27. この委員会の委員は F.C. Blair, Director of Immigration (Chair); Inspector Armitage, RCMP; Dr. R.H. Coats, Dominion Bureau of Statistics; Lt. Gen. M.A. Pope, National Defence; P.L. Young, Customs and Excise; A.J. Whitmore, Fisheries; R.A. Rigg, Labour; O.D. Skelton and Dr. H.L. Keenleyside, External Affairs. (戻る)
  28. L.R. Lafleche, Deputy Minister, Department of National Defence, to F.C. Blair, Director of Immigration, Ottawa, 2 June 1938, extract from HQS 7368, vol. 1, Microreel 629A, PABC. (戻る)
  29. W.L.M. King to T.D. Pattullo, 21 August 1940, T.D. Pattullo Papers, Add MSS 3, vol. 75, file 8, PABC. (戻る)
  30. Canada, Interdepartmental Committee on the Treatment of Aliens and Alien Property, First Interim Report, 9 February 1939, Ian Mackenzie Papers, MG27111B5, vol. 32, file X52, p. 2., PAC. (戻る)
  31. Rigg to Interdepartmental Committee on Orientals, Extract from HQS 7368, vol. 1, folio 39 on Microreel 629A, PABC. (戻る)
  32. Report, Whitmore to Interdepartmental Committee on Orientals, extracted from HQS 7368, vol. 1, folio 50 on Microreel 629A, PABC. (戻る)
  33. Who's Who in Canada, 1945; インタビュー H.L. Keenleyside, Victoria, B.C. For the general view of Keenleysideʼs Division, see Escott Reid, “The Conscience of a Diplomat,ʼʼ Queen's Quarterly, pp. 574-89. (戻る)
  34. H.L. Keenleyside, "The Canada-United States Permanent Joint Board of Defence: 1940-1945," International Journal, vol. 16 (196061), p. 63. (戻る)
  35. Journal of the Permanent Joint Board of Defence, 23rd Meeting, 10 and 11 November 1941, King Papers, MG24J4, vol. 320, file 3370, PAC. (戻る)

C. カナダ連邦政府の次官はUnder-Secretaryと呼ばれる。1941年にキングは自由党党首で連邦政府首相であると同時に、外務大臣(Secretary of State for External Affairs)を兼任していた。 (戻る)

  1. このような策略の例としては、イアン・マッケンジーとノーマン・ロバートソン間の、アジア系カナダ人常任委員会の1942年春の委員選出についての書簡のやり取りを参照。External Affairs Records, 773-B-40C, EAA; インタビュー Keenleyside, and Henry F. Angus, Vancouver, B.C. (戻る)
  2. Vernon A.M. Kemp, Without Fear, Favour or Affection: ThirtyFive Years With the R.C.M.P. (Toronto: Longman, Green and Co., 1958), pp. 235Ð36; Nora and William Kelly, The Royal Canadian Mounted Police: A Century of History: 1873Ð1973 (Edmonton: Hurtig, 1973), pp. 145, 149Ð150; Canada, Royal Canadian Mounted Police, Commissioner's Report, 1938Ð46 (Ottawa: 1939Ð47); interview with Keenleyside. (戻る)
  3. Mead to Wood, 21 August 1940, loc. cit.(戻る)
  4. バンクーバーの初期の日系人社会の性質については、次を参照。Kazuo Ito, 一世: A History of Japanese Immigration in North America, Seattle: Hokubei Hyakunen Sakura Jikkoiinkai, 1973; and Adachi, The Enemy That Never Was. (戻る)
  5. 著者によるインタビュー。 (戻る)
  6. 著者によるインタビュー; Canada, Royal Canadian Mounted Police, Commissioner's Report, 1939, p. 81. (戻る)
  7. Mead to Wood, 21 August 1941, loc. cit. (戻る)
  8. Ibid. (戻る)
  9. Ibid. (戻る)
  10. Maj. Gen. H.G.D. Crerar, Chief of General Staff, to S.T. Wood, 2 September 1940, Department of National Defence Papers, RG24, vol. 2730, file HQS4199x, PAC. (戻る)
  11. Maurice A. Pope, Soldiers and Politicians: The Memoirs of Lt. Gen. Maurice A. Pope, Toronto: University of Toronto Press, 1962, p. 177.(戻る)
  12. Ibid.(戻る)
  13. King to Pattullo, 21 August 1940, loc. cit. (戻る)
  14. C.P. Stacey, Arms, Men and Government: The War Policies of Canada, 1939Ð1945. Ottawa: Queen's Printer, 1962, p. 43. (戻る)
  15. Ibid, p. 47. (戻る)