人種主義の政治 アン・ゴマー・スナハラ 著

その後

この本が1981年に出版されてからの7年間に、カナダの人権環境を大きく変更する法律や政治状況の変化があった。第1の変化は、1982年4月17日に「カナダ権利自由憲章(Canadian Charter of Rights and Freedoms)」が発布され、カナダ人の法律的に平等な権利が保証されたことである。この憲章の15条には法の下における全てのカナダ人の平等と人種による差別の禁止が含まれている2。第2の変化は、1988年7月に戦時措置法が「緊急事態法(Emergencies Act)」に置き換えられたことである3。そして第3の変化は、1988年9月22日にブライアン・マルルーニ首相の保守党政府が、日系カナダ人(以下、日系人)が政府によって第二次世界大戦中に被った不正を認めて、1949年4月1日までにこのような被害を被り、1988年9月22日現在生存する日系人一人ひとりに21,000ドルの補償金を支払う内閣令を連邦議会が承認することを要請したことである4。日系人補償合意はほかにも次のことを含んでいた。日系人地域社会を再建するための基金、戦時措置法の下に発令された内閣令に背いて有罪になった日系人の赦免、1946年に日本へ不正に追放された人とその子孫のカナダ国籍の復権、そして、2,400万ドルのカナダ人種関係基金の設立5である。日系人補償合意で重要なことは、この合意が連邦政府によって日系人に押し付けられたものではなく、連邦政府と日系人の交渉によって成立したということである。

人権が憲法によって保護されることが如何に大切であるかは、日系アメリカ人の太平洋戦争中の事例を見れば分かる。米国憲法は日系アメリカ人の太平洋沿岸地域からの追放を止めることはできなかったが、日系アメリカ人が1945年1月5日に法的手段を用いて収容所から自分の家に戻ることを可能にした。しかし日系カナダ人が市民的自由を獲得して、太平洋沿岸地域に戻ったのは、日系アメリカ人に遅れること4年の1949年4月1日であった6。カナダ権利自由憲章を制定したピエール・トルドー首相は、この憲章がカナダの他のグループが日系人と同じような差別を受けることを阻止できると考えた7

しかしトルドー首相の、憲章が日系人が被ったような被害を防ぐことができるという自信には、議論の余地がある8。憲法による人権の保護について、米国憲法もカナダ権利自由憲章も完全ではない。憲章第15条は、カナダ人は法の下に平等で、だれでも法によって同様な保護を受け、権利を享受して、人種による差別はないと規定している。しかし第33条は明確に連邦議会は第2条(基本的自由)と第7条から第15条(法律的および平等の権利)の規定にかかわらずに連邦議会は法律を制定できると宣言している9。もし連邦議会が「上記にかかわらず」の但し書きの入った第33条を適用すると宣言すれば、憲章の下で禁止されている人種差別を含む幾つかの差別を含む法律や規則を制定することが出来る。憲章にはもう一つ重大な欠陥がある。憲章では、第6条の移動の自由などのようにある種の権利は、カナダ国籍を保有する人だけに限定されている10。その上、憲章にはカナダ人が国籍を保持する権利を保護する条項がない。ナチドイツはユダヤ系ドイツ人虐待の第一歩として、ユダヤ系ドイツ人のドイツ国籍を剥奪した。カナダ権利自由憲章に国籍保護条項がないことは、将来、カナダ政府がカナダ人マイノリティを差別する時に重要になるであろう。

第2の変化は戦時措置法の廃止であるが、これは日系人が1980年代に行ったリドレス運動の最も基本的な目的の一つであった。戦時措置法の下で日系人は第二次世界大戦中に人種差別主義政治の被害を被った。1980年初めまでに発表された日系人の太平洋戦争中と戦後のさまざまな体験記を後ろ盾にして11、全カナダ日系人協会(NAJC)〈 全カナダ日系市民協会(NJCCA)の後を継いだ組織 〉は連邦政府に、連邦政府が戦中・戦後に日系人に対して行なった不正行為を認めさせようという運動を始めた。この運動の目的には、日系人の被った損害の賠償と同時に、もっと大切な目的として、将来日系人と同じ様な虐待をカナダ市民が被らないように法律を改正する、ことが含まれていた。

リドレス運動の初期に日系人社会は二つに分裂した。一つはトロントの日系人を中心としたグループで、このグループは、マルルーニ政府が1984年に提案した600万ドルの形ばかりのグループ賠償を受諾して、早く運動を完了させたかった。このグループは、マルルーニの提案を政治的に実現可能と考え、もし日系人がこれ以上の賠償を要求すると、カナダ人の反発を招くと恐れた。もう一つのグループは、NAJC会長アート・ミキをリーダーとするもので、600万ドルの提案は連邦政府が戦時中に日系人を見た態度の延長上の提案で、日系人を脆弱な、堅牢な組織を持たない少数派で、連邦政府が補償を押し付けることができる存在と見なしている、として拒否した。ミキとNAJCの指導者達は、連邦政府と交渉して問題を解決するという過程が、運動の結果と同様に大切であると考えた。そして連邦政府から一方的に押し付けられるのではなく、交渉を通しての解決を望んだ。また、個人の人権を連邦政府が踏みにじったことを明確にするために、団体補償ではなく個人補償を望んだ。

NAJC はこの交渉を成功させるためには、政治家、メディア、日系人、そして一般のカナダ人に日系人の経験を知ってもらう必要があることを知っていた。1984年から1988年まで、NAJCは出版物を配布し、セミナーを開き、個人の家での会合や一般カナダ人向けの会議を開き、政府、カナダの民族グループ、教会、人権保護団体に働きかけた12。準備した出版物は説得力のあるものだった。敢えて読者の感情に訴えるものから学術的なものまであり、日系人の太平洋沿岸地域からの追放が、如何に日系人を傷つけたか、何故、連邦政府の公式な謝罪と賠償が必要なのかを説明した。ジョイ・コガワが自分の経験に基づいて書いた小説『おばさん』(OBASAN)13は、何千人という一般のカナダ人読者に、日系人の追放体験を、まるで自分も経験したように伝えた。また、この小説とは対照的に、社会的信用のある会計会社プライス・ウオーターハウス社による日系人の経済的被害の調査は、戦時中の資産の没収による損害を、1986年のドルに換算して4億4,300万ドルと客観的に推定した14。1986年の世論調査によると、63パーセントのカナダ人が日系人の賠償運動を支持し、45パーセントが個人賠償を支持した15。このような世論調査の結果にもかかわらず、ブライアン・マルルーニ政府は日系人全体に対する一括賠償以外の解決を拒否した。

しかし、1980年代には日系カナダ人だけでなく、「日系アメリカ人市民連盟(Japanese American Citizens’ League:JACL)」も戦時補償運動を展開していた。1982年に米国議会の超党派の委員会が、日系アメリカ人の太平洋沿岸地域からの追放を調査し、議会にアメリカ連邦政府の当時の政策は全く不正だとする委員全員の同意を得た報告書を送った16 。JACLはこの報告書の公開後に、連邦政府は憲法で保証された日系アメリカ人の人権を犯したとして、個人補償を議会に働きかけていた。1987年9月17日、JACLは最初の勝利を勝ち取った。米国憲法200周年記念日に、米国議会下院は米国議会第442決議「1987年市民権法」(Civil Liberties Act of 1987)を通過させた。この法律の下で、太平洋戦争中に収容所に収容された日系アメリカ人で、この法律が発効した日に生存していた人は、20,000USドル17の賠償金を貰うことになった。しかしこの第442決議を法制化するには、まず上院が同様な法案を決議したあとに、ロナルド・レーガン大統領が下院と上院の二つの決議に署名する必要があった。どちらも簡単なことではなかった。

1987年にマルルーニ政府は、近々、戦時措置法を「緊急事態法(Emergencies Act)」に置き換えることに決めた。同法案は戦時措置法より近代的で、非常事態を種類と緊急度によって幾つかの段階にわけて対処するようになっていた。NAJC法律委員会は1987年6月に議会に提出された法案を精査したが、さまざまな重大な欠点があることを見つけた。この法案では、非常事態が発生すると、以前に連邦政府が戦時措置法の下で日系人に対してとった差別的な政策の全てを再び施行することが出来た。その上、秘密に内閣令を発令することが出来るようになっていたので、戦時措置法より人権侵害の危険が大きかった。NAJC法律委員会副会長で法律家であると同時に歴史家でもあるアン・スナハラは、提案された同法案の下で戦中・戦後に起きた日系人に対する差別、虐待の事例の一つひとつに緊急事態法が実際に適用できるかどうかを検証して、65ページの意見書を作成した。この意見書を用意してNAJCは連邦政府立法委員会の公聴会に出席することを請願した。立法委員会は同法案について、公聴会を開いてこの法案に関心を持つ者の意見を聞くことになっていたが、個人やグループが誰でも公聴会に出席する権利を持っていたわけでも、出席を申し込めば自動的に許可されるわけでもなかった。NAJCの請願は連邦政府によって却下された。NAJCは立法委員会の新民主党委員に仲介を依頼した。新民主党議員のデリック・ブラックバーンが立法委員会で、戦時措置法の下で差別と虐待を受けた日系人の意見を、戦時措置法に代わる法案の審議の場で諮問すべきであると説得した。その結果、1988年3月15日、立法委員会公聴会の最終日に、日系人を代表してロイ・ミキとアン・スナハラが意見を述べた18。二人は意見書に基づき、提案された現在の草案のもとでも、日系人が被った差別や虐待が、将来起きる可能性のあることを述べた19。立法委員会委員と連邦政府官僚は二人の意見を注意深く聞いた。

公聴会終了から3週間かけて、立法委員会は法案の欠陥を改正するためにNAJCが勧告した85の修正項目のうち、65項目を採用することにした。修正項目には次のものが含まれていた。
(イ)非常事態特別法の使用の更なる制限、
(ロ)議会が内閣の非常事態特別法の使用を監督する能力の拡張、
(ハ)議会が内閣令を無効にする権利の拡張、
(ニ)法案がどのように使用されたかの強制的な事後検証、
(ホ)法案の悪用から生じた被害の補償義務である。
そして、最も重要なのは、次の第4項であった。

第4条:内閣は緊急事態法のどの項目も、内閣に次のような権限を与えていると解釈することは出来ない。

    1. (イ)緊急事態法の内容を変更する。
    2. (ロ)移民法で規定された人種、国家および民族起源、皮膚の色、宗教、性別、年齢、精神的     および身体的障害によって差別して、カナダ市民および永住者を、拘束、投獄、抑留する。

第4条は、将来、内閣が内閣令で緊急事態法を修正するのを防ぐのが目的である。特に内閣がカナダ人権自由憲章第33条を用いて、憲章第15条の人権の平等を無効にするのを防ぐ目的を持っている。戦時措置法に比べて緊急事態法は人権と自由の保証について大きく改良されているが、しかし連邦議会で制定される法律であるから、連邦政府議会がいつでも修正したり廃止したり出来る。ただし注目すべきことは、法案の内包する抑制と均衡機能のために、法案制定後の20年間に一度も使用されることはなかった。

1988年春はリドレス運動が活発になった時でもあった。4月14日、NAJCはオタワの連邦政府議事堂前で、日系人の指導者やいろいろな団体の代表者たちが参加して、事前に広く公表されたオタワ・リドレス・ラリー(補償運動促進決起大会)を開いた。NAJCはこの大会を周到に準備して、カナダ中の日系人コミュニィティ代表をはじめ、日系人二世退役軍人、カナダ少数移民代表、教会、市民権運動団体など、日系人のリドレス運動を支持する団体の代表を招いた。NAJC代表が驚いたことに、連邦政府の多文化主義担当国務大臣ゲリー・ウィーナーが大会に顔を見せた。ウィーナーの演説は、連邦政府の従来どおりの多文化主義政策を述べたものであったが、連邦政府が日系人との戦時補償問題の交渉を再開しても良いという発表が入っていた20。4月20日、米国では日系アメリカ人の戦時補償法案(HR442)が上院で可決された21

1988年6月半ばまでにマルルーニ政府は、カナダ人の日系人戦時補償運動支持が幅広く、急速に高まってきたのを認め、NAJCと交渉を開始することにした。しかし7月に予定されていた連邦政府とNAJCとの会合は、理由を告げられないまま急に中止になった。1988年8月10日にロナルド・レーガン米国大統領は、日系アメリカ人の戦時賠償法に署名した。日系アメリカ人はリドレスを勝ち取った。それから1週間後の8月18日、NAJCが8月28日にオタワで記者会見を開く予定であるのを知ったウィーナー国務大臣は、NAJC会長と連絡をとり交渉を開始すると告げた。8月25日にモントリオールで交渉が始まった。NAJCが驚いたのは、連邦政府の交渉担当大臣がウィーナーからルシアン・ブシャール国務大臣に交替していたことである。ブシャールはマルルーニの信頼の厚い大臣だった。交渉ですぐに明らかになったのは、連邦政府が原則として個人補償を受け入れていたことだった。残る問題は個人補償の金額と、金銭以外の方法による補償についてであった。1988年8月27日、17時間余りの交渉の結果、NAJCと連邦政府は同意に達した。しかしこの同意内容は発表の時まで秘密にされた22

1988年9月22日、マルルーニ首相は連邦政府議会下院で、NAJCと連邦政府の戦時補償問題の合意文書の内容を次のように発表した。連邦政府は戦時中に日系人に対して不正を行なったことを認め、直接に被害を被った個人に1人21,000ドルの補償をする。また日系人社会再建のための基金を作り、戦時措置法の下で発令された命令に背いて有罪になった日系人を赦免し、不正に日本追放になった日系人とその子孫のカナダ国籍を復権し、カナダ人種関係基金2,400万ドルを設立する23。1993年までに、日系人の生存者17,948名が個人補償を受け取り、1,200万ドルがモントリオールからビクトリアまでの都市において、日系人コミュニティー・センターの建設、さまざまな文化、教育、市民権運動、プログラム、大会などの日系人社会の再建のために使われた。

ロイ・ミキの著書『リドレス:正義を求めた日系カナダ人の記録』(REDRESS: INSIDE THE JAPANESE CANADIAN CALL FOR JUSTICE)は日系人補償問題の解決に尽力した当事者による日系人から見た補償運動の優れた記録である。しかし、カナダ政府の側から見た日系人補償運動に関して語られることはしばらくないだろう。それは政府文書は20年は公開されないという現在の規則〈20年ルール〉のためである24 訳注。補償運動に関する政府文書の一部は2008年に公開されたが、カナダ首相だったブライン・マルルーニの記録などまだ公開されていない文書がある。

訳注:この本の内容の1975年から1980年までの政府の記録は30年の公開禁止規制(30年ルール)で、この本を書いていた時にはまだ公開されていなかった。しかし、この記録の幾つかについては真摯な研究者にだけ公開され、著者も見ることができた。どの記録が閲覧できたかは次の本を参照のこと。M. A. Sunahara and Glenn T. Wright, “The Japanese Canadian Experience in World War II,” Canadian Ethnic Studies, pp. 78-87. 現在の規制「20年ルール」についてこれを参照。The Access to Information Act, R.S.C. 1985, c. A-9.


先例としての日系カナダ人補償問題解決

日系カナダ人補償問題(リドレス)の解決は、カナダにおいて、過去の不正義を正す先例をつくった。先ず、日系カナダ人(以下、日系人)の被った人種差別の歴史自体が、政治家が人種差別政策を取ることを抑制する効果がある。日系人の受けた人種差別は、カナダにおける人種差別の中で最悪のものではないが、一番よく知られ、記録されている人種差別である。そしてカナダにおいて被害者であるマイノリティ(少数派)が、政府の自分たちの対する裏切り行為を暴露してその非を認めさせ、被害者個人に補償をさせた最初の例である。日系人の人種差別の歴史が、今後の人種差別の抑制に十分でないとしても、人種差別の加害者の行動が公式記録で明らかになったことで、偏見を政治の手段として利用しようとするものに警告を与えたことは確かであろう。

リドレス運動の長期的な最大の効果は、運動の過程と解決策が、政府の政策決定過程に変化をもたらし、広報活動、教育活動、「法律上の義務に基づかない支払い」を政府の不正義な政策によって起きた問題の解決に用いるようになったことである。「法律上の義務に基づかない支払い」とは法律上の義務はないが、そうすることが正しいとして政府が補償金を支払うことである。

日系人補償問題が解決される前までは、過去の政府が行った不正義は、過去の政府の責任であって、それを正すことは現在の政府 25 日系人補償問題が解決される前までは、過去の政府が行った不正義は、過去の政府の責任であって、それを正すことは現在の政府25には出来ないし、すべきではない、というのが政治の通念であった。また、過去の不正義は、現在の政府や納税者の責任ではない、現在の政府に出来ることは自らの権力の悪用を監視し、出来るならば将来の政府が権力を悪用できないようにする法律、例えば「カナダ権利自由憲章」のような法律を制定することだけである、と考えられていた。

リドレス運動の注目すべき第一点は、「過去の不正義を正さなくても、不正義のない未来を築ける」という通念に挑戦することであった。リドレス運動関係者は、社会が過去の不正義を認め、もし可能なら不正義から起こった被害者の損害を補償しなければならない。さもなくば、権力の悪用のない未来はあり得ない、なぜなら過去の不正義で起きた問題は、未来にも続いていくからであると主張した。

第二点は、リドレス運動が成功したのは、原則に基づいた運動だったからである。日系人は卑劣な政治家と無能な官僚の犠牲になった(これはこれで真実であったが)と声高に主張するだけでなく、カナダの民主主義が、政府による権力の乱用を防止出来たにもかかわらず防止出来ず弱体化されたという点を強調して、カナダ人の共感を得たからである。そして、過去の不正義が認識され正されない限り、カナダ人は将来も同じようなことが起きるのではないか、という不安の中で生活しなければならない、もし1人のカナダ人の権利が犯されるのを見過ごせば、カナダ人の誰でもが権利を犯される危険があると訴えた。

リドレス運動の中で確立した原則には説得力があった。補償問題の解決が適切であったかどうかを判断をするために、次の問題に答えてみるとよい。

  1. 人権と市民権が損なわれたか、無視されたか、また取り消されたか?
  2. 人権と市民権が損なわれたのは法律、政策によるのか? 政府と政府が契約した外部組織の行為によるのか? または無策によるのか?
  3. 政府の行為は被害者の経験と密接に結びついていたか?
  4. 被害者が補償を求めている政府は、被害者に不正義を働いた政府と継続しているか?
  5. 不正義はどうしたら正されるか?
  • 不正義のあったことを認める?
  • 法律と政策の改正?
  • カナダの制度の改正?
  • 不正義を被った本人が生存している時は個人補償?
  • 上記すべて、あるいはいくつかの組み合わせ?
  1. 最後に大事なことは、被害者は不正義を正すために政府は何をしたらよいと思っているのか?

有能な官僚、政策通、そして賢明な政治家は、リドレス問題解決策のように原則に基づいた決定を大切にする。問題を客観的な原則に基づいて分析し、健全な政策を導き出すからである。その結果、政策は理にかない、将来同じような問題に適用出来る。私が連邦政府で16年間働いた経験によれば、有能な官僚と賢明な政治家は、いわゆる「政治的な解決」を嫌う。政治的な解決はこのような解決を取らざるを得なかった部署に戻ってきて傷つけ、また政府の評判を落とすからである。このような経験から、リドレス問題にあたった連邦政府と州政府の政治家と官僚が、リドレス問題の解決法を同じような問題の解決に適用したのは、別に驚くことではない。

例えば、HIV-AIDに汚染された血液が原因で血友病が発生した問題を、カナダ保険省がどのように解決したかを見てみよう。もし、この問題を裁判で解決しようとすれば、裁判が行われている間にも死亡する患者がいただろう。法律に基づいた交渉だけで解決したとすれば、何年もかかり、政府も患者も得るところが少なかったであろう。また裁判にかかる時間と費用も大きなものになっていたであろう。

実際はリドレス問題解決の方法を次のように適用して、政府は人道的な解決方法を見つけることが出来た。

  1. 人権と市民権が損なわれた。実際に「カナダ人権自由憲章」の個人の安全の権利が損なわれた。
  2. 被害者は政府または政府から依頼された組織の行為、または無策が原因で血友病に感染した。
  3. 被害者はカナダ市民であり、当然病気の治療のために安全な血液製剤が提供されるものと政府に対し期待していた。
  4. この問題で起訴されて解決策を見つけようとしている政府は、被害者が感染したときの政府を継続している。

以上のような認識に立てば、政府が誤りを正すためには、患者とどのように話し合うかという問題だけを解決すればよかった。政府は「クレバー諮問委員会」を設立し、患者とその家族の代表、医療専門家、血液剤製造業界と交渉し、同委員会の勧告を全て受け入れ、患者には一生涯資金と薬剤を供給する、患者が死亡した時は家族が正常な生活にもどるまでの資金援助をする、という解決法を決定した。

1988年にリドレス問題が解決してから現在までに、リドレス問題の解決に使われたと同様な「法律上の義務に基づかない支払い」が行われ、政策が変更された事例には次のようなものがある。

  • 中国系移民に対する人頭税
  • ニューブランズウィック州ゲージタウン近郊で起きた枯れ葉剤による労働者と兵士の被害(これらの人達の子供で障害を受けた人への補償も含む)
  • 核実験による軍関係者の被爆
  • 「ノバスコシア州有色人種児童保護施設」における虐待
  • カナダ先住民とイヌイット児童の、寄宿舎学校における隔離政策(伝統文化の継承を不可能にした)

リドレス問題解決の長期にわたる影響力は、リドレスが妥当であるかどうかの判断基準を確立したことにあるだけではない。短期の応急処置ではなく、適正な恒久的な解決法を見つけたことにある。適正な解決策には、被害を被った人が関わり、不正義をただすための解決策の決定に積極的な役割を果たすことが必要である。これが民主的な方法であり、政府が解決策を被害者に押し付けることは、悪くすると父権的な強制になる。そして日系カナダ人補償問題解決運動(リドレス運動)のように、交渉による解決は、法律、政策、行為、無作為によって被害を被った人に、解決方法を探る交渉を制御する権限を与える。「不正義を解決するためには、被害者に解決に関わる権限を持たせなければならない。」これが日系カナダ人補償問題解決運動(リドレス運動)から得られた最も重要な教訓の一つである。